数学とは感情の言語なので、既に形態化されている者が浮から深へ戻ろうとするエロティシズムである。(徹底的に戻るならば、文化へ立ち返る為の逆走としてまあ善い)


浮から深へ戻る過程で、当時の数学界の空間の理解は、ニュートンの空間観(物体とは無関係に存在する器)等の、三次元で直線的かつ絶対的な(ユークリッド幾何学を採用した)ものだったが、リーマンは講演で「空間とは経験的なものではなく、構成的なものである(厳密には、空間の本性とは外的経験ではなく、内的な関係から定義されうる)」と述べた。


リーマンの主張とは、空間は点の集合ではなく関係的に構成される場であるという旨であり、後のアインシュタインで、リーマンの言う通り絶対空間の前提は成立し得ないことがわかっている。(端的に言って、古典幾何学(ユークリッド幾何学)というのは、大金を持った整った顔のお話し上手が夜の歓楽街をぶらぶらする話しだ。)


リーマンの書いたことをそのまま見て、アインシュタインやポアンカレがそれを発展させたと一気に読み解くならもったいない。(実際は、空間というのは関係的(徳的)かつ可変的(その場の働き的)であり、物と物の間の関係の伸び縮み(古典幾何学)などでは無い。その前提で(任意の二点を結ぶ直線が一本で引ける前提という公理体系で)世の中は動いていない。一対一の対人コミュニケーションは空間として存在していない。)(陰性が強ければ強いほど、対象との直接関係を信仰する。)


これは想像だが、アインシュタインやポアンカレの方が結果的には人間的に出来た人であったであろう。またリーマン本人が自分の人生で虚数と実数の関係に主体性(物理的応答性)を持って来たのだろうかという事は、早死にと少なからず関係があるだろうが、リーマンが残した中核的なものは、リーマン自身が規定する多様体の深い側から高度に実用可能である。リーマンの残した幾何学線上には宇宙の構成の中核的要素がある。


数学界がリーマン予想は正確だという風潮の中で、間が抜けていて実用出来ないとしているが、彼らが言う(企業とトレードオフしたがる物理学者が言う)リーマン予想の実用化と言うのは、暗号資産や個人情報等の流体的要素のセキュリティが上書きされるほどに留まるだろう。だから私はリーマンの立体化を試みる為に、リーマンの下にカントールを敷いて、ポアンカレだと物理は仕合うよと伝えたい。(間にカントール(集まりの段々)を置くことで、単に位相的なものや曲がり(メロディ)の兆しの話しにはならない。)(端的に言って相対性理論とは美人の話しだ。)




徳に励み、日々瞑想の経験でしか認識し得ない事だが、「色即是空」は、人と物の存在諸関係の残存性。応答(縁に基づく過去の業)の空間的現前である。実体ではなく、ただ残存した関係性であり、それゆえに空である。従って色即是空とは、つまり存在の可視は、常に不可視の応答の累積として生起しているという教え。そこに所以して受、想、行、識が動きながら続いている。


だから色即是空、空即摂色ではなく、色即是空、空即是色である。(色を包摂しているのは空であるため「色とは空である」は成り立つが「空とは色である」は成立しないという主張は誤り。玄奘訳のままで正しい。)(だから照見五蘊皆空、度一切苦厄、 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是。)故に諸行無常の常の生成とは徳(五常)であり、此処に色法あり。展開を所有するべからず。(欲界から出て、生産諸関係(段々)に入り生きるには五常)自立系で戒定慧に居りながら五常を恐れず。(戒定慧から五常は切れておらず、地続きの様な)

虚数(信仰)から目の前(実数)はどうしても切れる。虚数から実数が切れるから意志(行)なのだ。仏陀は中しか話さない。法輪である。





保守的体感と呼ばれる人は、言うなればリーマンの言う関係的に構成される場(多様体)の立体的連環で俗世間的(段々に入り、非ユークリッド的)に生きる者達のことで、保守性は他のあらゆる政治概念よりも正しい。(多様体の連続性の理から逸脱して、自我は多方向的とする(個物が既に平面的に多様化されているという古典幾何学的な働きを絶対化する)のがリベラリズムである。この場合、空間をどこまで直線的に伸ばせるかを思ってしまう。


株式発行して物物物、者者者のインフレーション(売上高の拡張)の前提を希望している人が、夢と女と知り合いと物品の多量(多量というのは、増えない。パンパンになるだけ。)をエクスチェンジしてあらゆる停滞(進みを感じないことによる鬱病など)を感じている一方で、何故それが発生するのかの原因に居ること(居ると思うことではなく、徳業によって実際に存在の在り方としてそこに居ること)が統合的(経済)であると知っている人のことを保守と言う。保守というのは宗教(文化される流れ)に基づいて、逆走するハメにならないように心がけることだ。


数学というのは、明らかに感情の言語であり、逆側から存在と情緒の統合を目指している。


数学は改善されているものが善い。伝統文化は常にあるものが善い。個人主義者の数の理解は古いので、伝統文化は直線上の過去(古い)と感じて、直線を伸ばせば(未来にゆけば)利回り(経済)だと感じている。それは斜め下のスライドであり、裏切りすぎて阿呆になっている。実際は今(五常)と将来がある。経済とはこの様である。


関係のある人へ。認識とは五常の残存能力なので、分かると感じても、分からないと感じても悪業である。学問は、五常でやればいける。存在は五常でやればいける。