仕合せている人は、目的から目を逸らさない。


習慣か、論理的思考によって、基本的に目的意識に居座っている。

いつも目的意識を持ち歩いて尚、愛著していない。(消費(形態)に持っていかれない。)


目的に対して打ち込んで、打ち込みが愛著に変わりそうなタイミングでは、必ず生産関係にすぐ戻る。賢い人は打ち込みと打ち込みの間の閑暇に注意を払って節度を敷くのである。


頭の悪い人は、閑暇に愛著する。自由の定義にする。植民地フリーダムの観念である。


愛著する時というのは、実態性の無いものに頭の中の解釈で有を認めている訳であるから、その有は必ず消費される運命にある。


炊き立てのご飯を、長い時間見続けて、腐らないで欲しいと念じている状態である。


これが愚か者である。しかしこれはここ数十年間日本で急増している。


連続性の無秩序化(非連続性化)。連続性から非連続性迄の流れが、瞑想出来ない場合、次のように覚えると良い。


仕合せとは、目的(生産諸活動の抽象度の高さ)、労働(責任)、モノ(この世のマテリアル)、獲得(悦、苦しみ)の順番。不幸の順番は後ろから見ればよい。


幸福が悦として強く実態性を持っていると勘違いしている間は、必ず不幸になる。生産関係の根本は目的論的見地で、目的に仕合せて作業の進みを体感している状態であるが、そこから外れて何かを実態として区切って持ち歩けば、それは必ず消費される。間違いなく、不幸を体感する。

消費社会の豊かさに愛着し、求める選択肢が増える事で人は必ず苦しむ。


知り合った上司が数ヶ月後に嫌いになっている人間、知り合った部下が数ヶ月後に嫌いになっている人間、そのような人間の地頭の悪さとは、私生活に目的論的見地(がんばるなど)が少ない事によって、固定的で、実態の無いものを固定的に捉えて、それに愛著し、その対象が自然的に消費されている事の、常時的な自覚が無い事である。


学校の集団生活から社会生活において怠けた人間は、自己解釈の内に、野心的な成長や、変化を実感しているが、その外的な感情の流れ自体が比較、コンプレックスによる習慣化された働きだという事を瞑想する事が難しい。


むしろ、目的論的見地にどっしりと居座っている人達を、そのコンプレックスから嫌いたいと足掻いて、更にエゴを増大させている。


連続性は非連続性に、仕合せは不幸に。生産活動は個人の獲得に落ちて、習慣化されたこれらの情報は子供に伝染する。


これが、世界情勢の普遍的な揉め方、宗教における非相対的な善悪の闘いの論理である。


悦と苦しみの実態性(獲得)まで沈む場合、俗世間で言う陰キャラとなるが、その場合、モノ(目的以下、労働以下、モノ)で目覚めようとするから世界旅行に行きたくなる。目的(抽象性)、労働(責任)、モノとの導通以下の獲得に迄落ちると、孤立した小我がモノに溶かし込まれ全体性がいくらか回帰するからである。テンプレ化である。


このような人が多数派になったのであれば、それは不幸な社会と言って、差し支えないだろう。


消費(形態の暴力)に飲み込まれる人間達は、最初、疎外をもって出発したが、団体性の枠組みの下層ラインのマイノリティを、次々に連帯させる事によって、社会におけるマジョリティを確保した。

現代の日本社会では、獲得から最も離れた、精進する事、仕える事、戻る作用が逆にマイノリティとなり、明らかに戦後日本はアベコベになっている。日本の文化的態度とは、端的に言って、天皇と、感謝、礼節、恥(個人主義的な恥ではない、通義に対する恥)を指すが、これが最も原初な、目的(抽象性)から外れない体感を促す事になるのだ。



個人主義のイデオロギーに洗脳された人間達は、禁止の重要性や、罪の体験の薄さから自己管理の有益性を察知しづらく、また抽象語や反語的表現が伝わらない。文字にそのまま持たれるのである。

それは常に前方に空間が位置しており、自己から言葉を意味付けした習慣が原因になっている。学校を意味付けした事。鞄を意味付けした事。異性を意味付けした事。会社を意味付けした事。


純粋知性によるジュニアーナヨーガは消費(形態)(考える)(アイデアを出す)から、目的(抽象性)(イデア)への回帰であり、経営やスポーツにおいて、その存在のエビデンスに回帰してゆく作業になる。


バクティヨーガは、イマージュではない、その生産関係の根本への徹底的な帰依を促すものであり、目的論的見地から離れない日常の諸認識の土台となる。


カルマヨーガは日常の一挙手一投足において、がんばる(目的論的見地に即した事)に帰依し、対象に愛著しないように諭す。出来上がっていない認識の上では、社会のあれこれはバラバラに映っているので、各部的に生産関係を清めてゆくという事である。


念のため注釈を入れておくが、現代のインターネット空間の全体性の回復とは、メタバースな空間を指すが、それは目的(抽象度の高さ)、労働(責任)、モノ(この世のマテリアル)、獲得(悦、苦しみ)の生産諸関係において、獲得(つまりエゴの存在としてのつよい生起)からモノの繋がりのリアリティを最高レベルまで回帰しようとする試みに留まる。(旅行と同じ作用)

メタバースが成立して、毎日知人に囲まれて、毎日魅力的な異性に囲まれた後、それが消費、形態化すれば同じである。サービスの提供者は今迄通り、限界効用が働き始める際に、リセットする事しか出来ない。原理はこの世の生成と同じであって、生産活動に従事せず、愛著すれば消費される運命になるのだ。


最後に、全体性が見えるという事をとても簡単に言ってしまえば、それは居酒屋に入って、魚類と肉類を完璧にオーダーしようと考えた時、自宅の冷蔵庫にもっと良質な肉が入ってる事を思い出しているのが常の状態。全体性の根本とは生産関係の根本であり、生産活動とは、抽象性への供物、連続性への回帰である。


経済競争の中で、個人事業主が個人事業主なのは、ファイナンシャル(非実態的な、株式会社という抽象概念)が先行して個人事業という概念が後発的に有ると分かってない個人主義的な要素があるからであるが、個人事業(労働、隣の責任)が成立していれば、個人事業主としては成功する。もし、責任に仕えていなければ、個人は従業員や仕えるべきタスクさえ嫌悪する。そこまで陰性要素が強い人間は獲得の対象に「個人事業主」や「社長」がある。このような認識の人間で本格的に成功している人間を見た事が無い。


また、株式会社の社長が株式会社の社長なのは、国体の理解がなく、外に向けたグローバルが先行していると考えているからである。だからその程度の生産関係上では、株式をばら撒いて、代理業務として社長がいて、グローバルに展開するという発想の元「社会」が先行しているという体感で止まる。


私達は少なくとも、個人のレベルで職業を自由に選択して、飽きたら、次の自由な選択をする事が、拘束である事を理解しなければならない。


エンジニアリング資本の大企業の常時タスク管理に負けない最低限の連続性を担保した上で、生産関係の発足地点からそれをすっかり見下ろす事が、とても必要なのである。


主権者教育が、本来の意味「自己(意見)」の布施、「通義」に戻る必要がある。