違反への渇望は、禁止を高める為にあり、欲望の充足とは、禁止を高める過程にある。違反への渇望と禁止の弁証法運動において、禁止の戦勝が残存の在り方にどれ程の影響を及ぼすか。禁止とは、禁(神聖なものへの立ち入りの制限)の動きを止めるということである。



言葉(論理)を与えられている者は、禁止の戦勝を度々経験しており、違反への渇望に応答する禁止の有益性を理解している。違反への渇望を無視するのではなく引き連れて禁止で勝つ。善き心である。


言葉が稚拙で無秩序化している者者者は、会話(組み立て)を成り立たせようとする際の初発の禁止が決壊している。制約的な禁止に今迄基づいて来なければ会話(組み立て)はされず、都度の煩悩をやり取りをしているだけである。


禁止を決壊させた彼らは、現実を巨大に迎合する「教え」を「自分を悦ばせる可能性のある道具」と誤認して、自分が悦ぶ可能性の限りにおいて鼓膜を震わせ、誰も守らずに、ただ猥褻に自分の笑顔の量を気にしているのである。


十代で行儀(禁止)を学ばなかったいかに多くの者の認識が没落しているであろうか。そのような者達が二十代で目上を取れなかった場合、遂には罪の全体性を悟ることなく、文化的散り、社会的散り、身体的に散るのである。



禁止とは、自己(霊魂)を呼び起こす。考えずに思うことや、務めずにだらけてしまう違反への渇望が禁止の有益性を保証するのである。

霊魂とは、決してその身体に宿る火の玉のようなものではない。そんなものなどありはしない。霊魂とは五蘊であり、それは自己(仮和合)であり、命(霊的命令)を受けている。


いかに多くの命令を無視して来たか。その命令の無視にカエシがある。いつも命に背いたことからカエシが与えられ、呼び戻される。それは沈黙を守りながら、常に呼んでおり、保たせてくれている。


仏は霊魂の実態性を否定した。(火の玉が身体に宿っているのではない。また五蘊はどの段階でも仮の和合であり、究極の実態では無い。

霊魂とは五蘊(色、受、想、行、識)であり、どの段も無常であり、無始無終の自己では無い。五蘊は常に徳行(五常)で発展させられ、常に無知と惰性(考えなさ、面倒臭さ)で衰退させられる。


(端的に言って、不快の解決を自分でやるのが文化で、誰かにやってもらうのが文明主義である。)(不快の解決とは縁と契約して応答(実行、工夫)する。誰かにやってもらうとは、敷いてもらっていることをヨコ移動する。)時間的持続と流体的空間の認識の差。



アブラハム系宗教

霊魂とは神に与えられた永遠の自己

永遠に生きる(天国か地獄)

実態的教説

解脱観は神の恩寵。

※やるべきこと、隣人に与える。神の信仰を続ける。


ヒンドュー教

霊魂とは自己であり、本質はアートマン(不変の自己)

転生を繰り返す。

実態的教説。

解脱観はブラフマン(展開された在り方の根本原理)と自己(アートマン)の合一。

※やるべきこと、神の信仰を続けて、徳を積んで、智慧を付ける。



仏教

霊魂とは五蘊の仮和合。

転生するのは自我ではなく五蘊の再構成。

非実態的教説。

解脱観は五蘊が自己では無い事の理解。

(やるべきこと、全てが業であると知り、徳を積んで智慧を付ける。)



これらは全て同じである。まず行儀をつけて、無知性と惰性を蹴散らすと、これらが同一である事を頭で分かってくるようになる。頭で分かって来たら外の神ではなく、内の神の信仰に基づいて生活し、目の前のことに工夫、努力を続けると、次第に認識出来るようになる。(目の前のこととは実数的に数えれること。自然数的に数えれることではない。)


神に帰依することで、縁起を信解する(原因と結果を解読する)ことが出来る。(霊魂とは五蘊であり、時間的継起としては行、識、名色(外的諸関係と知情意)であること。(だから外的諸関係への生産(徳を積む)で識、名色が善くなることを曖昧はなく、はっきりと知れば、老死なんて無い事を知る。)


生まれもせず、死にもしない。明らかに連続(永続)していて、全てセット(集まり)である。世界は結果(名色)だけである(因に対する果)