pleasure、happinessではないvirtue being


pleasure

上がったものが下がる。

絶望から元に戻る。

この相対の悦び(苦しみ)pleasureは解釈である為、常に基準ライン(平時の幸福度)に戻ろうとし、戻る時には基準ラインは下がる。


happinessは空想した先の良い未来。思いが強ければ強いほど、日常がうだつの上がらないものになる。空想を辞めて戻る時には基準ラインは下がる。


この基準のライン自体を引き上げるのが、直接的に幸福にアプローチする方法。


基準ラインはvirtue being(徳の状態)であり、考えること、言うこと、することが調和している状態。


考えること、言うこと、する事の調和を突き詰める事で、基準ライン(virtue being)の質は良くなってゆく。



例えば、人の誕生日があったとき、その人が喜んでいるのを見たいと願う場合は、喜んでいるのを見たいと考え、その思いを伝え、相手が喜ぶと思うことをする。


しかし、相手があまり期待通りに喜んでいなかったりすると、考えること、言うこと、することの内、することの調和が取れていないので、状態は乱れる。

これによって、相手が本来的に喜ぶ事はなんだろうと思索を努力し、考えること、言うこと、することの調和が取れてゆく。


そうすると、考えることが「その人の喜んでいる姿が見たい」というエゴ的なものではなく、「何をしたら相手の喜びが深くなるか」になって、「相手が悦びから離れて、その場に集中したり、喜ぶ話し方」になり、その場に基づいた行動を振る舞う。つまり悦に対して、集中を与え、集中に対して、喜びを与えるようになってゆく。


考えること、言うこと、する事の調和が取れている時は、原因と結果の内の原因をメインにして離れていないpleasureは結果にしか働かないので、苦しみ(悦び)はかなり働きづらくなる。

調和を乱すものを唯一原因の内に見るので、原因の原因をどんどんと瞑想(知性か体感覚で経験)してゆく事が出来る。


調和の中で居座っていた原因メインの生活は、乱れによって、新たに掘り当てた原因から見た結果となり、どんどん俯瞰して見る体感覚が染み付いてゆく。


仕組まれた自由(戦後民主主義的風潮が助長するhappiness)の中で人々が期待する没頭の効用は、没頭中に無私(happiness から脱ける)となり、没頭の後に幸福(閑暇)が褒美として与えられる確証に基づいているが、この閑暇の幸福は労働に限定して与えられるのではなく、従事に対して発生するのでvirtue  beingに対しても発生する。


virtue  beingの作業の閑暇は、労働の圧迫的(ファンクション的)要素が少ない分、ギャップがないので、強い閑暇ではなく、柔らかい閑暇になる。


幸福への直接的なアプローチであるvirtue beingの真実の幸福は身に纏うというか、シチュエーションと連環して湧いている感じになる。


人生の喜びとは、団体性(魂、国家、親友)の喜びの発生であると悟り、その途中の社会貢献性は意味さえ理解しておけば良い。


自らの個人主義的な要素によって、団体性(喜び)を理解出来ない状況においては、初め性愛に対して最良に過ごしてゆく事(実際の感謝等を伝え、相手という人間に最大に出来ることを出来る限り短時間で行う)で、喜びが分かり始める。あとは縁のまま歩くと分かってゆく。(縁のまま歩くのに工夫を凝らす。)


慣れて来たら性愛は高揚ではなく、愛情から分派した流れの内の一つという事が体感覚で分かり、先輩や同僚、後輩、異性関係に悦びから離れ、熱中を通して、喜びを伝えるなんとなくの流れを感じてゆく。響く対機説法が自然に湧き出てくる。


相手に深い喜び与える工夫を凝らす作業が親切に幸福感で勝るのは、電車でお年寄りに席を譲る事の凹が老体であること、凸が立っていなくてはならないことの内にある親切(自分や他者のエゴを見たくない)に対して、作業のクリエイティビティ(工夫を凝らす)が、その原因、鉄道や交通の在り方等を本来性(それ自体)に戻そうとする試みだからである。これはいずれも本質に回帰しようとするエロティシズムの暴力性に起因している。


つまり、親切とは凸凹が弱い状況の正義であり、凸凹が強い状態の正義は、ほとんど闘争に近い工夫作業となる。

凸凹のない少ない平時というのは、存在していない。平時(平穏さ)という名のhappinessなので、いつも凸凹を感じ取り、努め励む事(善い事を成す)で魂は成長する。


人々を悦びから離れさせ、熱中を通して喜びを与える工夫作業がメインになると自分の日常はかなり仕合わせてゆく。(日常が仕合っている人は、凸凹が激しい場では、非個人的非行為の上で、自然に空間を戻すように振る舞う。)


真剣に思索し、日常的に体感を照合すれば、先哲達は民度に合わせたデマゴーゴスを説いていた訳ではない事が分かる。あの人達はなんにも嘘をついていなかったし、つこうとしていなかった。


考えること、言うこと、することの調和が取れたvirtue beingの中で登場するのは内容のみであり、「会話」「関係」とは本来virtue beingの発展の中でしか成立しない。そうでなければ必ず、絶対に飽きられる。


pleasureの内に会話をすると、合意に向かわず、自分の決断と他者の決断によって一時的に結託するのみにとどまる。これは前述の通り、上がったものが下がる。双方自滅する。


happinessを要求すると、隣から順番に嫌な現象になる。




以下、自分の覚え方。


死んでも持っていく事の出来るものでいっぱいにすると幸せになる。


状態が良い、悪いはpleasureを取った、取ろうとした。happinessを空想したかの過去の因によって発生している。


死(スタート)を念頭に置く事が、幸せの最大公約数である。死を念頭に置くと喜びを常に作る。


享楽について、パーティーを開き、友人を募り、美女を募り、友人に一目置かれ、新しい美女が続々と関心を寄せる上では、マインドフルネスで頭打ちになる。女を獲得したと考えれば、悦びの裏で苦しみが待機する。翌日以降の何かが苦しみになる。

しかし、その人達の喜び(感動)に近いものを工夫して与えると自分は喜ぶ。社交的導通の熱中や、豪勢な家、ブランド物、美女等の獲得の悦び(苦しみ)になる前の元々の喜びである。


社交的導通、モノとの導通の熱中は、悪の縁に触れた後の消毒にしかならない。


経営について、従業員が悦びを求めて来る時に与えると、裏側の苦しみを得ているタイミングで、自分はそれと話さなくてはならなくなるので悦びを与えられた側と、与えた側、双方自滅する。

悦びを追いかけて、苦しみを増やす愚かな従業員に与えるのは最初に集中。スケジュールや節度空間によって担保される。

集中に慣れて来たら工夫の喜びを与える。悦びが苦しみであると知らないので自己中心的にしか工夫しか出来ない(思考的なアイデアになってしまう)期間がある。


徐々に他者を悦びから遠ざける為に、集中を通して、喜びを作れる能力に到達する事が、自らが喜ぶメカニズムである事に慣れてもらう必要がある。(悦びを追いかけて、苦しみを増やしている人と会う→新鮮さの一時回復が終わる前に心身症的にさせる→管理で集中させる→喜びを悟らせる。)



財産について、億万長者になるのに横敷きのエンジニアリングはほとんどいらなかった。自分の上隣下と生産位置を上げてシャワーのように降らせ途中が切れないようにきちんと見守る。

億万長者になったという文自体は仮説であり、欲楽に溺れず克己するには、恐怖は味方で、悩みは敵であると知り、現状の最深生産位置以外に気を取られない事が重要だ。そうすると悩みは消える。



いわゆる陰キャラは金持ち(個人の概念上の私有の財産)を権威に感じる。人々を勘違いさせているのは、億万長者より金持ちな1000億万長者を排出する長い横敷きのモノ、誰かの青年期のエロス中部の全体性の回復であった生産位置に対してぶら下がっている事を、大人達が生産として上に見ている点であるが、これは先程の億万長者の上隣下の生産地点から見れば下である。


青年期に関係付けから戻りたい激情に駆られ、横の社交で繋がりを広げ、全体性を回復した私と同様に、彼らはモノ(例えばSNSのモノ的社交)の連環によって横の繋がりを伸ばした。モノ的な要素の横伸ばしは社会システム(モノ的なシステム、株式の公開その他諸々)が後押ししするのでヨコにとても長くなるが、実際はどちらもエロス中部の生産作用であるので、社会システムの後押しによって横に長くなり、立案者達が大きく財(私有の財産たるもの)を成し、エロス中部の生産を起点に、利用者間で経済循環が活発化するが、生産深部からきちんと連環してその循環に辿り着いていなければ、国力は落ちる。中部が太った経済大国が望む資源戦争はこれに起因している。


世の中が円錐的な諸生産によって、段々と連なっている事が分かる者は賢者であり、分からずに対象の実態性を信じている者が愚者。全ての諸現象は実体を持っておらず、行いの全ては投資(生産の位置)である。


老年になっても尚、こういうのを日常的な生活の中で知っているのが、少数に留まっているのが日本の現状だと思う。


高い生産位置によって、なぜ実際に自分と周囲の幸福度が上がり、世の中の円錐的な段々の構造さえ体感に根付き、説明さえ出来るようになってゆくのか。それは時間が過去現在未来の線形的な連続ではなく、常に現在の連続であり、その現在は生産諸関係(時間的持続)の中の状態(virtue being)基づいて表れているからである。観測の土台になる瞑想を修練しろ。


この時間的持続の深部は理解という性質のものに落ち着く事はない。あらゆる理解の深部にあるのは、分かるを作る元の分からないという事なので、円錐的な段々の存在の諸関係は分かるの元を突き詰めた分からないにいつも滞在し、そこを掘り続け、分かるを増やし続けている状態が信仰の本質であろう。このように信仰は空想の一種ではなく、むしろ存在の根源を示している事は明らかである。


幸福というのは、自分の主権の主張とは逆側に存在している。
信じたい事の真逆、信じた方が良い匂いのする方が正しい。