文句(文の句読点)とは、ポイントカードの様である。貯まって使っていると思っている。カードを見て、それを財布に入れて、財布から出して、店員に渡している「行」の分、いくらかの円(ポイントと呼称)を受け取り、その引き出し(未完了の遂行)をする為にまた店頭に行く。そのような「行」の生産位置(徳)はとても低い。
ブラックカードも同じように文句(文の句読点)である。過去に自分の個人的な売上から流体的なことの全てを引き受けまくって売上高を自己に敷いた「行」に対して、あなたは利用制限なしの特別な人だとズケ取りされ、脚を引っ張るように悦的なExchangeを要求される。クルーザー、高級車、旅行、外資系ホテルのキラキラパンフレットが毎月投函され、器の小さい人にさせようと働き掛けられて消費を促される。経済を空間的だと認識する者はここで消費して、僕は沢山の量があるよと悦ぶ為に同性や異性に消費したことを教える。この悦を率先すると、その後また量の収穫元であるお客さんに形式的(コマーシャルやサービス)で関心を引いて、従業員に社会主義性を徹底的に植え付けさせ、スーツを着て一般株主達に力強く未来(非将来)を語り、社会的な目(客観的な目)をとにかく気にしながらバレないように落下したエロスを外資系ホテルで異性にぶつける。そしてもっと凄い未来を夢見る。このような「行」の生産位置(徳)も低い。
だから社交場(労いの場)で会計を勘定しない「行」であれば善い。ご縁に基づいた社交(労い)とは払う「行」であり、存在としての本質に回帰する為に、現在(在り方の具体的な有の部分)を裏切る行いである。(自分の過去に知り合った知人や女や部下を嫌って労わず、人間関係に基づいていない次の社交の獲得の為に支払うから苦しむ。)
(社交に払うとは、過去の売上高(流体的な働きを全力で引き受けて作ったお金)を、過去の人間関係(より本質)に基づいて振り払う為の行である。この世で価格が最も高いのはモノであり、支払いで一番高いのは社交である。例えばモノというのは社交を目的にしている。社交を目的にした船(モノ)、社交を目的にした車(モノ)、社交を目的にした不動産(モノ)の資産価値は価格から数十%の消費でExchange可能であり、価格元の社交自体(ご縁に基づいた社交)は本質価値的にExchange(前Exchangeより統率)されるので、社交の方が支払い(振り払い)は多くなり、モノ(価格)の生成元になる。ご縁の誕生日を、義理とか仁で労う方が価値は高い。だからコツコツ節約すれば物理的に損をするし、人間関係的にもモテない。
払う行は、最低限度の徳である。(自分の為に払うなら苦しむ。自分の獲得の為に買い続けると閉じ込められて、自然数をの集合に凄さを感じてしまい、生産関係を全く認識出来なくなり、ぼってり苦とぼってり悦の世界に生きる。自分は獲得せずに服などは身を整えるに留めて、ご縁を労う時に払うを続けていると、実数(引き受けて与える)を打ち易くなる。
社交は量を貪らず、ご縁を尊重して労うもの。(もし労えないなら労うな。労う実力が無いことに怒っていることを大切に。)この「払う行」は、ブラックカードの消費の行いより善いが、徳としては中程度である。
労らって払う「行」より優れているのは与える「行」である。与える行はとても善い。
では与えるとは何か。例えば、元々100tある重量を解決する仕事に対して、自ら最初に工夫して、腹を決めて、2tくらいを持ち上げて、以外と3 tいけるかなと感じた際に、力のある者に500キロくらいを渡して仕事を与える。腕の細い者者者に100キロくらいを渡して仕事を与える。
これは相手にとって善いだけでは無い。人は元々人生で持ち上げないとならない重量は決まっていて、まず頭胸腹で精一杯重力を引き受けて、その後ご縁の人に与えると、自分の人生で残っている重量は減っているのである。(この残っている重量が人間が人生で感じている重量であるというのが、古今東西の伝統学問における徳である。)
この重量から避けようとするとき、その頭胸腹は決壊して、避けようとして決壊した分を元に戻す為に重量は加算されている。
自分が逃げてしまうと、自分に重量を与えてくれた人が、次の重量をみんなの為に持ち上げている時に投げ返してしまうことになる。
人に悪いことをするなら必ず自らに返って来る。(返ってきていることを認識していないだけである。プライベートよりモノが存在として先行しており、モノより社交が存在として先行しており、社交より仕事(事仕え、引き受けて与える)方が、先行して存在している。)
・引き受けて与える「行」はとても善い。逃げる行(悦びと解放は)、名色が悪化する。(名(頭胸腹)が段々壊れてゆき、色(外界物理)が段々重たくなってゆく。)(楽と喜が分散されて、悦と苦になる。)(十二支縁起の有とは、周囲にリアリティを感じる有。)
・正しい教えを「読む」は善い。個人的な意見が含まれていない世の中のありのままを読むのはとても善い。最大の徳が見込まれる。
・願望ではない「信仰」はそれに並んでとても善い。頭と胸と腹でただ純粋に神を信じる。それは現在の有を裏切ろうとする支払いの「行」や与える「行」で形成される諸々の延長線上の主体を先に認めるからである。
以上、カルマ瑜伽、バクティ瑜伽、ジュニアーナ瑜伽という宗教行為は、労い(社交)に勝り、ブラックカード(モノで何でも出来る)に勝り、ポイントカード(何円かもらえる)に勝る。
カルマ瑜伽(行為を執着なく行い、結果にとらわれず義務として果たす事で段々の自己を解脱してゆく道)
バクティ瑜伽(存在諸関係の本源に対して、信を持ち段々の自己を解脱してゆく道)
ジュニアーナ瑜伽(これは何かを突き詰め、私とは何かを見極める事で現状の自己を脱落させる道)
マントラ瑜伽(日本語の五十音のあうん、仏教の南無、ヒンドュー教のオーム、キリスト教のアーメンのように音(ヴァイブレーション)の生産諸関係を行使して他の瑜伽を成立させる道。)
グル瑜伽(武士が主君に義理を通して仕えるように、主君を神、法、仏そのものの化身と見なすよう努めて人生を統御する道。)
ラージャ瑜伽(座る、行儀、対象への集中によって自己を統御する道。)
一人の人生の連続性とは、宗教行為(自立系)にあり、儒教行為(現在系)にあり、日本(現在拡張系)の伝統行為にある。文化とはこのこと。
文化行為とは、文化する迄の流れの行。行為から成立しているその全体的な段々(連続性)(五蘊)(痕迹化へ向かう前の状態)の価値経験である。
伝統行為とは、形になる迄(痕迹化される迄)の流れの価値経験の形による統率性である。世俗的風習とは、文化行為から物の率が融和化(無秩序的融和化)されたものである。革新とは世俗的風習のモノの働きの更新(ヨコの流れの弁証法運動)である。よって自分の野心は文化の流れに回帰する。
文化から逸れた野心は最初複数のカエシを喰らう。そこから学んでカエシに接近して引き受ければ文化の流れ(人生、存在諸関係)に向かう。エゴの露出が強かったものは、意志が強い者になる。
接近せずに逸れれば(悦と解放(放逸)へ向かえば)名色がどんどん散りゆき、世俗的風習から革新まで落ちて有を前提に生きれば、世俗的に言う陰キャラやイキりのようになってしまう。だから世俗的な人でさえ、そのような人間達は嫌いなのである。(人間は悪いことをすれば恐怖を感じる。それは恐怖を感じる必要があるからである。恐怖というのは心理学的(ボックスの中の心的)ではなく、物心(名色)同時的に起こる。善い行いは物心を善くする。死ぬのが怖いのは、このまま死ぬとやばいからである。生存欲と、自分が死ぬことへの恐怖は異なる。)
既に名色が無秩序化(頭、胸、腹が無秩序化、外界諸関係が無秩序化)されている業(シュードラ性の率)に対する最速の回復形態(クシャトリア性の回復(統率)が伝統である。
伝統行為とは形史上最強でありこれ以上の特効薬は存在していない。
あなたの最速の回復形態(伝統行為)に、真言と神棚がある。真言、神棚のあと、次いで伝統的文学作品、次いで演劇がある。あなたは理解していないので信じる他にない。この文章は正しいが、逆説的で、実際は信じることであなたは理解するのである。あなたは人生に何かを要求する権利は元々持って無い。あるのは人生があなたに何を要求しているかということ。
神棚は、お金と時間(文句的なお金と時間)を払って、真理(水は更新され、米は布施して、盛り塩は下位面から整える。)に触れて「行(価値経験)」を得る。次いで認識が起こり名色(知情意と外界諸関係)となる。そして対象(六根の機動)にお出掛けが出来るのだ。神棚は善い。しかし真言(なーむーさらまんだーらーなー)の方が善い。どちらもやらなければ、更に善いバクティ迄到達しない。
(成長したことが無い人は、目上の話を聞かない。自分の個体より優れている別の個体からの発言だと思っている。成長したことがなければ目上(優れた名色と認識)だと知れない。あなたの名色を既に経験して認識しているから目上なのである。)
人生は命題に臨むことである。だから命と言う。
大切な人が臨終する。臨終するまで守る。自ら取り組む臨時的命題、カエシとして取り組まざる得ない臨時的命題。これは苦しみに連立した幸福の生成の順である。
臨むとは、命題に目の前に接近するという意味。私達は今迄どれくらいの命題を引き受けて、そして放棄して来ただろう。この差が人格(厳密には名色)の差である。(命題に沿って人格が善くなると神格(見る働き)が発生する)
臨終するというのは臨時タスクが一旦終わるという意味。Endではない。あなたはそれを知らない。臨終とは状態である。次の認識と名色の再構成である。私はそれを知っているが、あなたはそれを知らない。
なぜ人間のほとんどが畜生に行くと言われるか。人間より動物の方が多い。動物より昆虫の方が多い。動物とは、命題からの逃亡と行儀知らずだ。グルヨーガで命題を回復する。動物を飼っているなら動物にはしつけをして指示しろ。それは愛情だ。たまに可愛がってやれ。これと同じように既に畜生的な人間には、行儀(統御)を教えて、指示を出してやれば善い。
彼らは命題自体を認識しない。命題が何か自然数的に外側に有る事だと思っている。だから目上なりお客さんなりが具体的な注文を出してやらなければならない。(先程の各種瑜伽を実践しているなら彼らは回復する。バクティがないとカルマとジュニアーナは厳しい。だからグル、マントラ、神棚、ラージャ。)
冷静とはなんだ。いつでも喧嘩出来るということだ。いつでも喧嘩出来るというのは、残りの重量(臨時命題)を即座に引き受けるという覚悟である。
伝統的な最速を疎かにせずに、経済活動(普通経済。非グローバル経済)をするとどうなるか。
現象が理解できる。つまり名前になる前の働き
を認識出来る。信愛帰依、智慧観照、命題実行を知る。
微細な物質から粗雑な物質が形成されている。(事柄からモノモノモノが形成されている。)仏典その他で記述されている微細さとは細かさでは無い。では無い。命題的で微妙(みみょう)であり、確実に働いている精神的、存在的運動や構造。玄奘訳の色即是空、空即是色とは存在の現れとして完璧な訳。五蘊は空であり、存在の生成は行である。
