女のエロティシズムとは応答で、男のエロティシズムとは見るである。男は応答して、女は見られる。こういうのはフィリア(友情)に帰結する。生成が連環して無数の段々として流れゆくのだ。

新ためるというのは、立て(自己)から見て、無数の段々のヨコ(フィリアの段々に被るようにエロティシズムの段々の流れ)(男、女、金の自然な生産関係の段々のフロー)がそれぞれ水の様に流れていることだ。経済利益とは資産の規模では無く、自己資本のフローの充実性であることは明らかである。(自己とは居住域、資本とは自己からの流れ。フローとは自己から連環する段々の自己)(市場と倫理は分離されらず倫理形成(倫理と形成の一致による生産労働)の総体を呼称する言葉が経済である。)要するに金の流れは、アダムスミス(倫理的便益性)、ピータードラッカー(目的論的貢献性)、カールマルクス(監視的社会分配性)、ミルトンフリードマン(個人間的契約性)の順。

行いの連環(段々)が現象化されると形のラインに売上高が付いており、両端はアチュート昇りのジャック性のヴァイシャの率と、団体の中間層(中継ぎ層)のヴァイシャの率がヨコに連環する。それらにシュードラの率はぶら下がる。

クシャトリアの率はいつでも先行して命題の放射を率先して求め、引き受けて、カエシがあれば喧嘩出来る。



智慧の実(マハット)は、蛇からである。蛇は欲望(生命力)の根源。だから青銅の蛇(救済の象徴)であり、かつ輪廻の原因である。信仰と隣人愛によってあなたは知ると述べられた。(つまり蛇とはグナ(プラクリティ)である。)(徳(サットヴァ、ラジャス)は、眼前の事象の生成元である。)


釈迦は言った。「法は尾から掴めば毒である。頭から掴むものがそれを制する。」


蛇とは大(智慧)である(大蛇。在り方(輪廻)の最初から最後である。ナーガ(龍、神格)なる比丘は仏を守ると言われる。龍は極道(頭から)であり、法である。その尻尾(名前)を法と思えば毒になる。



八岐大蛇(やまたのおろち)という煩悩分岐的暴力(へび)を、命題に即して斬撃で退治すると、神器の剣(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(意志)を得る。


時系列としては、智慧反省知性(八咫鏡(やたのかがみ)、愛情徳霊妙さ(八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、意志勇猛さ(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。完全に仏教瑜伽と同じであり、今現在段々に落下している私という存在は、勇ましく闘う意志と行為によって徳が与えられ、智慧を成就する命である。存ずる在り方の一切である。



私のやってきたサッカーやボクシングはユークリッド幾何学的(ニュートン的)な世界感。また異性商売のプロフェッショナルも同様だ。閉じ込められた時の流体性は場面の話しだ。その場面(ポトス)は何で形成されているか。その連続性とは縁に応答(徳行、徳業)ある。あなたは目の前の命題を引き受けまくって、溢れているならば与えることが出来る。命題は更新される。

(ニュートンの世界感とは、徳が低くても納得出来る世界感。物質が消滅しても時間や空間は独立して残るという考え。だから世界チャンピオンが起こる。実際に起こっていることとは異なる。)


人の信じる力は本物、信じる所が違う。信じるところは神(関係付けられていない主体。)とご縁だ。神とは三界の外であり、身体(頭胸腹)の内だ。

私にとって、アチュート性の率でさえ一緒に売り登って来た過去はご縁である。(彼らが不可触民と呼ばれているのは、縁でもないのに自ら触れようと思うなという意味。ヴァルナは家柄的な構造ではなく、グナの率である。それは治すことが出来る。)


私は完成されていないが、あなたは私を信じると善い。まずは学問に取り組んで自分否定、これは最初の不幸(成功)の段階である。この時点では自分否定に成功しつつも、自己肯定感が下がったままである。だから私を信じて、他(自分と相手のやり取りの間)の為に働く。そうすると自己肯定されて、続ければ自己が更新される。伝統形態の業(題目と神棚)を忘れるな。


近行定(以下に記載)の初期段階で誘惑に敗北する人はいずれメディアに引きづり込まれそうになる。必ずメディアを選択してはならない。ヨコにExchangeを続けるとどうなるか。埒があかないまま身動きが取れなくなる。(埒とは柵が開かない)

金の量と女の量と関心の量を気にするな。経済と異性関係と尊敬はそのように形成されていない。



心理学という領域は嘘だ。精神とは理念的、意志的。心理とは現状の心の働き。(例えば、学問総体から心理学になって、更に商業本的になって落ちればメンタリズムとかになる。とても落ちている段の人の心を解説して、「あー確かに」作り。)(そいつらは早口で構造的で小さなことに否定的だ。それはなぜか。そこを住所にしているからだ。期限、速度は誰しもが縛られている。しかしそれは段々である。)


クシャトリア性の率のある者は、猥褻者の心理(嘘)を裏切りたいから、相手の目の奥の恐怖を引き出したい。暴力よりも根源的な恐怖を引き出して相手の猥褻さを無化したいのである。恐怖の引き出しは相手にとって重要な経験だが、相手と自分の「関係」の本質ではない。本質は、させて、知らせることだ。行を打たせろ引き受けさせろ。彼らを誘導出来れば、彼らは治って行く。


子供に対して、決して幼稚性の自由を前提に尊重(可愛がり)してはならない。命題に生きれず、privare(時間を自己の下の自分の下に所有して)、子供時代をノスタルジーにするおじさんになる。成長(名色の発展)を知らない二十代、三十代、四十代にとは悲惨だ。

音が欠損していて、罪の意識なく恥を知らない人間が、子供時代のノスタルジーと、味覚や生活パターンに生きて、ロマン主義は若い頃にやり過ぎてもう枯れている。

誰も守れない子供大人になってしまう。受ける側もする側も、愛情が可愛がりに落ちることは大問題である。(大(智慧)の問題)


縁に対して、違反的(文句(句読点)的)に逃げ出してしまえば、無秩序化(悦、解放)が、自らの心理に生起する状況にも関わらず、だが断れば善い。

これを繰り返せば、あなたの意見は正しくなる。上への応答も、下への応答も、命題に即して邪念なく正しくなってゆく。禁止は違反を携えてのみ有効性を発揮する。選択とはこのことである。



経を見つけた。四禅に入る前(欲界禅定)の珍しいものだ。私がこの五年ほどで述べて来た通りである。


散乱心、対象にとどまらず、五蘊が散乱している。

初業定、対象に心を向け始める。火が起きる前段階。

近行定、近い対象にほぼ集中し続けられている状態。火が起きそうな状態。(ここで感官を抑えて、縁と契約する。)


以上は欲界定。(以上の説明の全て前提は苦しみ(命題生産)が先行。)

次第に以下記載の四段禅入場する。(以下の説明の色界第三禅迄は苦しみ(命題生産)が先行。

全ての対象に入定し、燃えている状態。(安定)


定の状態(安定、色界四段)

第一禅、思索と達成の喜びと楽(煩悩から離れている。)

第二禅、喜、楽(喜が馴じみ、思索せずとも認識が馴染んでいる。)

第三禅、楽、捨(喜が薄れて楽に馴染む。)

第四禅、捨、念(捨てることの純粋性による今の心。元々何も持っていかったことの気付きの続いている状態。)(四禅の入場段階では不苦不楽は三禅に溶かされる。)


空無辺処定

色無辺処定

無所有処定

非想非非想処定

滅尽定

涅槃




四三に住めば、出掛ければ二一の様子だ。(出掛けて、徳が離れた人と接したり、徳が離れた場所と接すると、そのギャップによるがおおよそ二段くらい下がり、その間にエロティシズム(動力)が生起する。このギャップが弁証法運動である。だから神々の歴史とは戦争の歴史である。


有というのは段々で在り、シュードラ性の率には説一切有部的(三世実有的)な教説が彼らの為になる。(例えば、頑張ったら限定空間(金集め、異性に好かれる、話しが器用になる、ハイブランド持ち)になれるよのような要素を準備してあげて、対機説法をしながら本質の言葉を与える。)


定とは、識から有だ。故に有を整えて行を打て。(掃除などの整理(勤行)をして、命題(徳行)に接近しなければならない。使命感を失えば介護される。)

あなたは分かることを使うのではなく、分からないことへの全身全霊の取り組みで変わってゆく。


命題では額縁を頼りすると整い易い。(例えば売上額、支払額、請求額、損害額、利益額、赤字額など。(額とは内容の意味としての提示。事象を額縁で定義することによって命題が登場する。疎かにすれば額に汗する。)


固定的な対象に対する生産諸関係の一切を認識出来る。聖典以外の文献の一切を認識出来る。この残存能力がなければ第一禅定の解脱は嘘である。(第二禅定が下位段になるあたり(第三禅入定あたり)で第一禅定(尋伺)と喜びは解脱される。)

生産諸関係の意味を知る者は、近行定の後半に入定しており、既に第一禅定に触れている。(善悪を知るのは近行定中盤以上であり、それまでは配ること、配られることに罪の意識を持てない。)

近行定中盤以下の者は生産諸関係の意味を知らず全部を空間的に認識して取った取られた、あげたもらった。いっぱい動いたになる。(このいっぱい動いたを全て引き受けているにして、引き受けれない分が溢れるように与えられれば、次第に変わる。