グヘグヘ、イライラ、知らないフリ、をしないように心掛けることで、求め、怒り、知性が形成される。
求め、怒り、知性が正しい。
自分が過去命題を引き受けてきたことにして、今現在の命題に沿いまくる。引き受けて、もっと引き受けて、引き受けながら溢れているとき、結果的に与えている。(自分が意図して配り始めたらすぐ終わる。)
連環し続けている応答の過去に所以する今現在の命題の深さに応じて、怒り、欲求、知性、その隣に優しさがある。
(例、病気になってしまえば、場での節制か西洋医学(薬とか手術。)場になる前は文化行為。)(例、三十代四十代で人間関係、経済関係が朽ちやすい人は、縁から逃げて来た、命題から逃げてきた。歳を重ねて肉体が朽ち易くなるのも同様。)(畜生と餓鬼は、全物理的にどんどん終わってゆく。)
グヘグヘとイライラと知らないふりをしなければ、所有物から公共物の関係は、命題応答から公共性に変わる。
女性は命題応答から公共性を成就していない男性と結婚してしまうなら、必ず子供が契約上の媒介物になって社会主義を要求される。(だから沢山の女性は、形式上の彼氏や旦那がいても、命題応答から公共性をやってきた男性を切望している。)
三十代は一つの人生の結果発表で、所有物から公共物の関係に生きていた人々は三十代で上手く行ってない。(二十代のとき、外に目を向けてキラキラしようとした人は三十代で上手く行ってない。何も残っていない。)
二十代で縁を裏切りまくって、何も残らなかった人間は、自分の人生だと思考しているから、何も残ってなくてもまあ良いかと感じてしまう。
自分というのは、物理的に周りに生かされているから人生側が先行してある。(現実に起こっている事に対する愛情と罪の意識と恥の度合いが欠損することで人生を自分の内側に所有する。実際は人生に自分が付随しているのだ。)
二十代で目の前のご縁に即した場合、命題応答に生きていた場合、三十代の結果発表では、先輩が残る。後輩が残る。同じ伴侶と人生を振り返れる。誰かの為に勤務するようになる。異性関係が残る。物品やサービスの媒介者が回る。
求め、怒り、知性の深さは、命題認識の可能域である。何も残っていない人物は、グヘグヘ、イライラ、知らないフリで生きて、命題認識の可能域が低い。
残っていない人間は、常時的課題(既に痕跡化された物)を認識していて、その痕迹化の破壊を想起させる自分語り、オープンワールドゲーム、やけ酒等、縁の裏切りを繰り返している。だからグヘグヘ、イライラ、知らないフリを辞めて臨時的命題に即したら善い。(グヘグヘ、イライラ、知らないフリに生きた人でさえ、思い返して、恥ずかしがったり、利益がなかったなと考えるが、その値が異常に低い。)
人間はグヘグヘ、イライラ、知らないふりをしていると命題認識は出来ない。命題認識(将来に残す)で行動しなかったらどのようになるか。
特定の物品や、特定の勤務がでかいことになって、自分の未来(不安)を煩う。自分の貯金の為に、社交やヨコの回転を通さず、経済的(人間関係や金の流れ的)に続け様に損をしてしまう。
怒り、欲求、知性(グヘグヘしない。イライラしない。知らないフリをしない。)で命題は認識される。
グヘグヘしない。イライラしない。知らないフリをしないという三毒の回避を成就するには、それらをしないという心持ちとは別に、意志を引っ張る必要がある。(パターンに依って、非パターンを成就する。)
非パターンでやることは命題の実際の引き受け(引率)と行儀であり、パターンでやることは伝統行法(バクティ。座る、題目、神棚、教学、会議。)
人間は、選択(飛躍)のとき文化的儀礼命題を引き受ける。文化的労働命題を引き受ける。溢れた分を与える。神を信じて、読む思索する、伝統(題目、神棚)に帰依する。節度、会議にあやかる。(文化的儀礼命題は出離や家族形成(交換関係出離)、文化的労働命題はご縁への応答的経済活動。どれかが横になれば、どれかで横のカエシを喰らう。ヨコより未満になって三毒に侵されてヨコの未来を悩み煩う。)
自己の啓発。他の啓発。啓発とは啓示を発する。正しい言葉(論理、行い、発言)正しい教えでなければならない。
正しい教えとは、仏教であり、すぐ下に儒教あり。(そのまま連なり)
計算方法(アルゴリズム)とは文化である。文化形成力とは残存能力。行ありて合理あり。(合理主義とは、現在の感情の所有。)
いつも男性が重たいものを持って、いつも女性は応答している。(スーパーマーケットで重たい袋を男性が持って、女性が料理をしてあげる。)(男性は社会で率先して重たいものを持って、女性は家を保持する。)
女は純潔を守ると相応の男に守られ、男はご縁に応答していたならば、女に応答される。(女が純潔を守らずに相手にロマンスを求める場合。男が縁に応答して来ずに相手からの渇愛を求める場合、恋愛間契約になる。これは数ヶ月〜数年の時間の経過によって社会主義と化す。)
あなたは認識していない。私は認識している。あなたは非パターン、パターンでやることがある。非パターンでやることは命題の実際の引き受け(引率)と行儀であり、パターンでやることは伝統行法(バクティ。座る、題目、神棚、教学、会議。)である。
他力とはパターンであり、自力とは非パターンである。(この絶対他力と絶対自力が、結果的な残存能力である。人格とはこのこと。)ニコニコして配り好きな人物に人格者はいない。
(神々という語は、行の残存性の説明であり、比喩かつ実在である。行ありて、識ありて、名色ありだから、初めに言葉(論理、行)ありきで、名色(知情意と微細物質諸関係)が流れて、有として残っているのが神々という語である。)
人間は餓鬼(自分の理想の人生)と畜生(怠惰)を斬り捨てて、阿修羅(全方位の躍動的引き受けという欲望の成就)を望むとき、そこに善性(縁との契約があれば、欲界の最上位(天界)(持国天(国家や楽曲の前。)増長天(成長と繁栄)広目天(洞察的監視の目)毘沙門天(経済的弁証法運動)という神々の世界(近行定)に入り(頭、胸、腹、外界物理にそれらが宿り)パターンと非パターンの修行の連続を通じ、自立系を欲するところで色界に入場する。(重要なのはバクティとは、想の神ではない。ただ信じる。目を瞑って信じるを何年もしていると、目を開けても信じれる。)
縁と契約する(嫌いな人、嫌いな事に努力する。)猥褻者達の暴力性(グヘグヘ、イライラ、知らないフリ)に負けず済度する。)
周りに流されずに、グヘグヘ、イライラ、知らないフリをしなければ、正常な欲求が生まれる。この縁との契約による、バクティに連なる正常な欲求の段々(人格の連立的連環)が団体性である。(迷いの段階(悦と苦)から解脱して、人間の不幸な段階(自分否定の成功)の解脱が、団体性であり、経済や法律というのはこの団体性に基づいている。)
何も残せていない人間は自分の逃げる先を思いながら、外でニコニコして、みんなに配ろうが最良だとしている。だから残せている人が、いっぱい得た人になっている。残せているか、残せていないかなのだ。(新しいものが回転するのは最低面で水のように流れていること。)
残せていない猥褻者に殺意(欲求、怒り、知性)を待って、転化されて愛情になるのだ。愛情、罪の意識、恥はこのようにして形成される。だから人を簡単に斬ってはならないのだ。
(あの人はいなくなってしまえ、あの人はいなくならないでと思ってきて、何も残っていない人間は、何かから逃げて何かを可愛がる。いなくなってしまえと思うことは殺意ではなく、既に殺害の実行である。)
同情とは努力する姿を見て、呼応する姿であり、意志の連環。弁論で刺すことは相手の猥褻さを一時的に無化(リセット)する技であり、同情よりも下である。(姿に呼応されて、同情してこなかった人間は、誰かの人体が破壊されたときにだけ悲しみ(ショック)を受けて、その感情を情緒だと錯覚する。)
実力とは、残存能力であり、存在生成能力。自力と他力で、与えられている力。
(非パターン、命題の実際の引き受け(引率)と行儀。パターン、伝統行法(バクティ。座る、題目、神棚、教学、会議。)
苦しみの正体は命題を止めること。命題に向かわないことでExchangeが発生する。
