十代のとき女と金とギャンブルで煩っていた。そのままそれらを真剣に考えようと思ったんだ。だから生産諸関係を経験していった。
もし、特定の女を彼女と見て、金のことで社会に文句を思って、ギャンブルよりも個人口座への備蓄の方が賢いと思っていたら、卑しく劣った最低な小人になっただろう。(大人とは大(智慧)の人。老い小人になるな。)(ギャンブルと、預貯金×ショッピングは同様。)
私が十代から水商売の経験を経て知ったことは、女と金とギャンブルはエロティシズムであるという事。そしてエロティシズムは腑抜けではない縁への義理から発生しているということ。
「女、金、ギャンブル」とは、「異性関係、金関係、命題関係」からの落下物であるということ。
これを経済と言い、外郭が伴うことが経営であるということ。命題関係とは縁への義理を約束毎として、その中で欲望(引き受けて生産)を最大限発揮することであり、道中に友情と夫婦ありて天を知る。(時を知る。)
上から見たエロティシズムとは次の通りである。
女のエロティシズムは旦那の死後、旦那との婚姻を継続することであり、男のエロティシズムとは、女のエロティシズムが回帰するまで応答することである。女は守られて、男は守る。女は学ばれ(見られ)、男は学ぶ(見る)
つまり、女はヨコに触れてはならず、男はヨコから昇ってゆく。女をヨコに触れさせることがないように、男は守り抜くのである。
女の不幸は男に守ってもらえずに好かれようと努力することであり(つまり武器を持ち、ヨコに触れてしまうことであり)男の不幸は女に約束を守ってもらおうと要求すること。
女は生来のエゴイズムを放棄するよう要求されており、男は生来の客観を放棄するように要求されている。放棄とは放り投げるのではなく応答(生産)によって放たれてゆくこと。ここに時間がある。(知性、情緒、覚悟もある。)
社交から始まる人間関係の目標は、女の結婚式に呼ばれることであり、男に葬式でお悔やみを思われることであろう。
男は女を守ることか、口説いてヤルことしかない。女は男に応答することと、許すことしかない。お互いに渇愛されたいと願えば必ず不幸になるように出来ている。物の展開に応答するは霊魂の成長であり、物の展開は渇愛に対応される様にはなっていない。
文明主義的に生きてしまえば、知性(頭)、情緒(胸)、覚悟(腹)は着実に欠損して、人間性は無秩序化する。
文明主義的とは常時的(あるいはそれ以下)に働くことであり、文化主義的とは、実態的過去に基づいて常時的に働くことである。
誤解を恐れずに言えば、文化と文明は究極的には同様(文明を明文と読み直す場合同様)であり、文化的に生きれば、文化の流れ(時の流れ、痕迹化迄の流れ)は明るくなる。
文化的に生きれば、文明は用途として段々に敷かれている。文化主義的に生きれば、排他主義、土着主義、純血主義、装飾主義に偏り、文明主義的に生きれば、個人主義から構造主義、経験主義、対等主義に偏る。
文化主義は、国家社会主義(過去からの論理、心が重要)に行きつき、文明主義は、共産論的社会主義(未来からの論理、物理が重要)に行きつく、この表面的二項対立は、実際は流体的労働の速度と社会的監視の行の段であり、物心の在り方の無秩序化である。
流体以上に居住していれば(縁に基づいて生産した過去の業があれば)人は保守的になっている。保守的な人を簡潔かつ本質的に言うならば、その経験から霊魂(心と物の関係)を知っている人。言葉の力を知っている人。色即是空とは、段々とは、時の流れに住所を構えているその度合いなのである。(他記事に段々の注釈あり、欲界禅定、色界禅定、無色界禅定の流れ。)
共産論的社会主義は唯物論(流体論)が論拠であり、物心の連続性(文化と明文は同様であり、縁への応答的生産による空間の現前化)にあらず、物(巨大な宇宙空間)が身体性(感情=頭、胸、お腹)を抱合しているとするところにある。こうなると社会労働(スポーツ等を含む)が最善概念になり、人間関係は、国は破綻する。(支配という形式(空間の中の調和的なルール)では、ここまでしか出来ない。)
なぜ恐竜の化石は、アウストラロピテクスの化石は、人類の歴史的史料は、地中から物として発見されるのか。それは生成(行)が先行しているからである。(連続性が先行しており、段々になっているからである。)(事柄への応答から、具体的な物の配置、心の状態が決定している。)
諸宗教、伝統文学、戦後サブカルチャーは連続性の段々(生産諸関係)、名(心)色(全物質の配置関係)を説明、あるいは描けている。(ここが科学の全体である。)科学とは再現性である。(観測科学は構造主義の場合、過去に向かえば国家社会主義、未来に向かえば共産主義の様な。)
昔、お客さんでリピートが返って来ないと言っていた風俗嬢に口淫を上手くするんじゃなくて、プレイ後の為に湯船を溜めたらいけそうな気がするぞと言って、何ヶ月か経ってから感謝を言いに来てもらったことを覚えている。
今は瑜伽のパターン(伝統行法(バクティ。座る、題目、神棚、教学、会議。)が先行して、非パターン(命題の実際の引き受け(引率)と行儀)が上手くいくことを教えている。先行投資と物の展開の関係である。
人の人生とは命題の受託、連続性(時間的空間)、でかそうに見えてしまっていた空間、プライベートの順番で出来ている。(この命題の受託を出来るようにするのがカルマヨーガ以外の瑜伽である。)
知っているというのは、ただ知っている(正真正銘知っている)ということで、分かったり、分からなかったりすることではない。
領主の利は即ち民の利。即ち民の利は領主の利、誰しも個人的な獲得や逃亡と契約したら、必ずハイスピードでカエシが来て、エロティシズムは成就しなくなる。
結局、善いこと強いことをすれば報われて、悪いこと、弱いことをすれば自滅してゆく。「不快なことから逃げてしまうことが文明主義であり、伝統的な形の鑑賞、装飾に偏るのが文化主義であり、不快な事を自力で解決してゆくのが文化行為であり、不快な事を他力に任せるのが宗教行為である。」
人間は絶対自力と絶対他力から逸脱している時に心は悩み煩い、物理的にも期日化、期限化(無秩序化)される。
非パターン(絶対自力)は、命題の実際の引き受け(引率)と行儀。
パターン(絶対他力)は伝統行法(バクティ。座る、題目、神棚、教学、会議。)
他力をしているのに、自力が出来ないことは起こり得ない。それほど行法とは究極的なのだ。
