宇宙とは、その語源の通り、宇(空間、天地四方上下)  宙(時間、往古来今)




宇宙の生成とは(原因と結果とは)


無明

名色

六処

老死



この世の真理とは

苦諦、集諦、滅諦、道諦。



自我の正体とは

色受想行識。




五蘊とは私なのか。

私では無い。




要するに宇宙とは、行(時間的な働き)に基づいた現前的空間(五蘊)であり、そのまま広がっている空間はエーテル(虚空)である。


逃げることは煩いと悩みであり、幸福とは徳であり、徳とは苦しみ(行)である。


心(知情意)と物事(外界物理)は分かれておらず、行の進み(徳)に基づく(行、識、名色)


五蘊は私では無いが、自分と思っているものの全て五蘊である。


思いに関わらず、周囲を荒廃させた者は、荒廃する。周囲を発展させた者は発展する。


自らの五蘊と、周囲の五蘊を荒廃させる原因は貪瞋痴(グヘグヘ、イライラ、知らないフリ)





仏陀は説明した。

「全ての行は、結果として返って来る。」

「徳が深まることで煩悩が鎮まり、智慧(見る)が生じる。」

「全ての形成されたものは無常である。正しい智慧をもって見れば、苦しみから解き放たれる。」


(仏教で全ての形成されたものは無常であると言うとき、微細な物質(名色の色、諸関係の極微)を言う。その微細な物質の周りに粗雑な物質(有の配置)が在る。(この有の配置(回っている)はそのままで、有の形式を革新する前提の運動が文明主義(今と未来の関係)である。

無常とは、可視的な変化より以前の構成的関係そのものが一瞬毎に変化しているということ。(諸行無常)




色界入定前のあなた方の目指すべき極微は、友人と将来と経済である。それは縁に応答する因(徳業)である。


縁への応答(徳業)は行法(瑜伽)に依拠して積むことが出来る。




愛、恥、罪、を自我の為に利用して、利回りが落ちている。自我は五蘊であるから五蘊に、愛、恥、罪を向ける。ということは神に愛、恥、罪を向ける。


愛、恥、罪を自我の為に利用して、利回りが落ちている人は、頭、胸、腹、目、鼻、口、が落ちている。依拠して外界物理(人間関係等)は落ちている。




煩悩(苦しみ)は、五蘊の状態を自己と見誤ることで生起する。五蘊への誤った態度(三毒(貪瞋痴)、慢(自己の力を誇る。弱いと誇るも同様。)、疑(教えを疑う。)、悪見(五蘊に自我があると思い込む。)が煩悩。


「自分の慣れた形を捨てること。」私が慣れた形を捨てるとき、あなた方も慣れた形を捨てている。




結局、行法によって徳行を積み、仕事で徳業を積む。プライベートで徳業を積むということ。


すると人生は善くなって行く。いずれは善行から抜け出ることが出来るということ。





詳細


五蘊の段階とは

欲界禅、色界禅、無色界禅。他記事「ブラックカードについて」で注釈あり。(無色界禅の段階では四蘊)(無色界禅定では極微の働きは作用しない。名だけ残る。)



経典による涅槃について

徳行に基づいた止(シャマタ)によって非想非非想処定まで達する。出定して観ること(ヴィパッサナー)で、無常、苦、無我を如実知見する。残っている渇愛が滅尽して、完全な解脱に至る。その後に涅槃(ニルヴァーナ)を経験している。(予想だが、如実知見の段階で出会っている。(合一している。)(観るは、色界入定で発現、無色界入定で停止されるはず。その最後にヴィパッサナー(観る)で、真理を悟るはず。)


釈迦について

釈迦は仏教の実践者ではなく、瑜伽行者であり、悟った後の釈迦の教えが仏教である。(自力と他力の道が瑜伽。)(非パターン(絶対自力)は、命題の実際の引き受け(引率)と行儀。パターン(絶対他力)は伝統行法(バクティ。座る、題目、教学、神棚、会議)


文面について

ヴェーダンタ(ウパニシャッド)、サンキャ、仏教の文面上(哲学的表現)の違いは、前時代の真理の形骸化(形式化)に対する批判(アンチテーゼ)である。


教えについて

ヴェーダ(バラモン教、現在のヒンドュー教)や、アブラハム系宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)は、真我への信仰から現象を説いており、仏教は、真の理を明示して、経験的に五蘊を更新してさせてゆく果てに真我に到達させようとしている。