圧倒的にやりたくない、やりたいかやりたくないかも検討の対象にしていなかった箇所がおそらくあなたの精進の対象です。


圧倒的にやりたくない精進の対象ではないものは、例えば自殺などです。なんかそれは精進(がんばる)ではないような感覚を持つでしょう。

圧倒的にやりたくない、正しい精進の対象は感覚的に分かるものです。それは自己の背景にある生産関係に尽くす事です。例えば、私の場合、私と私の周囲が自然に生きる為の生産関係の表現に努めていますが、そこで既にクリエイトされつつあるカースト文化に自分が甘えないように、自分よりリベラルで屈強な人達がいる環境に身をおこうとボクシングを続けています。これは私の自我のやりたくない事です。元々学問もそうでした。)



自分のやりたくない生産関係に尽くす事、これを繰り返すことで、人は安心を感じます。


ここから逃げると、人は一安心と恐怖を繰り返します。




精進は初め個人主義的なものですが、その内に個人主義的な精進ではなくなります。精進が先行するのです。ここに正念(日常的なマインドフルネス)が表れます。


その後に生産関係の根本をデフォルトの体感に表れて正しく定まります。



話を変えますが、

私達の国は民主主義です。全ての法律その他システムはこの民主主義に基づいています。

そして民主主義とは、任せてフリーを満喫する事ではなく、引き受けて考え、実践する事です。これは現在も変わっていません。


つまり引き受けて、考え、実践したら、あなたが民主主義の国に住んでいる場合、住む国の現行の制度とマッチして、ギャップを感じる事は少なくなり、比較的幸福になります。


私達現代の猥褻な若者は、これを知るだけでも貴重な知恵、財産となります。



しかし個人と世の中の構造のギャップを埋める為にはこれだけでは、不十分です。


民主主義というのは条件付きで機能します。条件というのは生産関係から自己が切り離されていないことが条件です。


例えば会社で言うと、みんなでアイデアを出し合って生産性を高めようとする局面は民主性が高くそのミーティングの場は民主主義の状態です。


ここに民の意見が認められます。しかしその大元には生産活動という根本があります。自分がどうしたいからこのアイデアを提案するというものではありません。


生産性の向上に基づいて、民が考え努力することで意見は初めて整合性を保ち得ます。


逆に整合性を保ち得ないときは、みんながみんな自分の持っていきたい方向を意見として提出する時です。民主主義の定義がフリーを満喫することの状態と言えます。


つまり、この意見は民が就職したから出さざるを得ないものではありません。

民が生起する元の生産諸活動(食料採取をしなければ民は生起しない、雨水を利用しなければ農作物は育たない、武器がなければ肉は獲れない)に起因しています。

既に有る生産活動に立脚して民は、その生産性の向上についてアイデアを出しています。


ここからシャワーのように流れているものが資本主義です。


しかし、ここを切り離し、労働を自己の下位に置く事で、自然性から逸脱して不幸になります。

労働等の元での自己から何万年も変化していないのにも関わらず、自己の選択の対象に労働があると錯覚してしまいます。

労働等の生産関係が先行しているのに、自己を優先する事は植民地統治下で流行する個人主義という発明です。


先に労働が先行して、私達民がいます。当然政治家もそうです。

人は生産関係の根本(資源や生産諸活動の流れ)に支えられて生起しており、またそれに還元して日常生活を営んでいます。


しかしこの本来的な意味での合理性から一旦外れると、個人的なフリーの満喫を優先して、その下位に仕事という名前の元で生産活動をプライベートの為だと認識して行ってしまいます。


労働の元で家族、友人、子供、恋人、自己が生起していると認識出来ません。


自己のポジションを理解する事で、不幸は免れます。

100億貯金が増えたからと言って、労働を辞めて生産関係から切り離されると、必ず不幸になります。


生産関係から切り離された個人は頭の中で自然性を逆転させてしまいます。


この歪さが不幸を呼びます。こうなると周囲と仲良くしようが、初発の認識が既に自然の流れに対して、対立の構造になります。


ここに国民主権の主権の定義の問題があります。民側が生産関係のトップに立つと明記する事、それに立脚してあらゆる生産諸活動(労働、家族)等を認識する事、自由主義という名の、閉塞的なグロい状態が出来上がります。


民の上に抽象性が置かれる事で、自然性がアートされます。この際に国民主権というのは正しくアートされます。

自然性の中の自己の本来のポジションのままに、諸活動を営めるからです。



つまり自己から戻った箇所に両親は存在していて、その先に労働は存在しており、これは自分の元になる生産関係への供物と言えます。

その労働は団体性(被雇用者、雇用者の対立の構造では無い、家族性、友人性)に立脚して、それは必ず国体に起因しています。


生産関係の一連の流れがシャワーだとしたらシャワーの蛇口を有としてアートされて、そこに日常的に敬いがあれば、非常に自然的だと思います。


国体、団体性(友人、家族)を感じデフォルトである事が幸福です。その為には本来独立し得ない個人から離れる精進のプロセスが必要です。


個人、プライベート、職業、獲得出来る、獲得出来ない、の歪な発明論理(リベラル)は、必ず具体性と具体性の間のギャップで苦しみます。


個人が非行為ではなく、行為的であり、それは解釈だからです。


まずは、個人主義的にでも精進が必要で、その次に責任に仕え、精進がデフォルトになってマインドフルネスが恒常となり、生産関係の根本に徐々に到達してゆきます。


私達が生産関係を認識する事は、いずれ生まれてくる子に感謝を伝えていく事と同義です。

私達が、個人の思考から職業、恋人、友人を解釈する事は、子に貪りを教えることになります。