世界の人は


浮派

左派

右派

保守派


で出来ていて、そこからはみ出す人間はこの世にいない。(浮派のとこにファッション左派、右派がある。)


今回は、大枠としては浮派に該当するものの、通常の浮派とその性質が異なるいわゆるグレーゾーン(軽度知的障害)について述べる。


軽度知的障害をインターネットで検索すれば、抽象的な会話が出来ない。反語的表現の理解に乏しい。文章が理解出来ない。継続的な集中力や社会的責任感の欠如等、ネガティブな面ばかりが取り上げられ、リベラルな政党のヨコの平等主義思想のシンボルマークとして性的少数者と一緒に、心無い広告に使用されているのが現状であるが、今回はこのグレーゾーン層の有効性、彼らの社会的、国家的な生産性は、ヨコの平等では低いものの、団体性においては決して低くは無いという事を記述する。


左派の論理は常に障害者を隠す歴史を歩んだ。(政権奪取する前は広告に使うが、実際に空間前提の論理を実践する段階では、常に障害者を隠す歴史を歩んでいる。(ソビエト等、理想的共産主義目標の社会主義の歴史)なぜあなたは生産全体(共産主義の言う生産全体(絶対空間)からはみ出るのだという歴史。)(日本のエンジニアリング資本企業の実践的社会主義から逸れて空間的に調和出来ないのだという歴史。)


左翼が文化をカットして、つまり社会主義活動を生産からカットして空間的労働が最大の徳であると定義すると、浮派層まみれになって、割と早い段階で知的障害は爆増する。

そもそも障害者という呼び名自体が良くないとリベラル(浮派)が言い始めているのも、左な風潮がこの世界を空間的に規定している事で、はみ出して劣っている事が際立っている事に起因している。



統計学的な日本人のグレーゾーン(ADHD等の軽度知的障害)の割合は増加の一途を辿り、7人に1人〜6人に1人の割合であるとされている。これは世界の諸外国に比べて確かに多い割合ではあるが、私の調べた限りでは諸外国より極端に差が開いて多いという訳ではない。(昨今問題とされている大人になるに連れて知的障害化してゆく人が多いという事例については、浮派的な行いにおける後天的なもの。)


一旦、統計の6人に1人を前提に考え、当会が軽度知的障害者と出会う確率について述べる。グレーゾーンと浮派の採用を望まないエンジニアリング資本の社会主義的空間が新卒採用等を通して部活動や五教科に打ち込んだ空間的な能力の地盤がある者をリクルートする割合を40%(統計局調べ、大卒後の就活の割合から算出)だとして、それらが真横の転職(社会主義的なキャリアアップ)を繰り返す(仮に100%繰り返す)と定義し、この社会主義的な空間に獲られる前の在学中の待機層を除くと、我々が正常にリクルート出来ている場合、単純計算3.6に1人が軽度障害、他のほとんどが浮派である事になる。


つまり現状のリクルートの構成上、主に社会主義層と浮派層メインが大学在学中の学生リクルート層になり、社会人リクルートは浮派層と軽度知的障害層がメインになる。教学を経由して保守的になり団体の生産自体を高めるのは、保守と比較的近い社会主義圏(左派)からある種の横取りをした人達である確率が高い。


エリツィンが感嘆とする程の日本企業の社会主義化に誘われる学生の末路は、エンジニアリング資本企業の共在空間に閉じ込められて初めの数年を新しさとチームに対する責任で肯定感を高めさせられ、成長の定義が空間的に拡張し、企業が打つ広告、大きな空間内の社会的大義(横の責任感)で更に肯定感を高めさせられる。どんどんと物事を空間的に認識するようになり、家族や友人との関わりは宗教行為ではなくなり、責任関係の内に関わり、共在空間に居座ろうとして空間的に充実した毎日を目指し、頭打ちになる。爽快さを信仰し、非人間的な妙に上手いノリの社会的コミュニケーション能力を養う一方で、全的な人間関係の進み、本来の成長から切り離されて社会主義化されるので、そうなる前にこちらが誠意を持ってリクルートする必要がある。そしてこちらが責任以上を共にする覚悟を持つ必要がある。


以下では社会主義層からグレーゾーン層迄の性質を述べる。


社会主義層に関して、彼らの多くは土着的なものから切り離されて儒教的な徳や義理は根付いていないものの、モラル(空間的モラル)を持っており、空間的共在性の友人関係を築き、集団的(空間的)に行動している。浮派層やグレーゾーン層等のように学校の教員等の肩書きには特段の権威は感じず、共在空間の体現性を基準に先輩や後輩の能力の良し悪しを判断しているので、権威の最大は西洋近代科学的な(空間説明の文字列や空間的観測)や空間調和のコミュニケーション能力に長けた人や、エンジニアリング資本(横を伸ばして空間に還元するような)生産諸関係の中部作用に権威を感じている。


浮派層について、彼らはその空間内部の具体的な測量結果を基準に生活している。有る作用から落ちて来たものを還元するという感覚にかなり乏しく、空間的な社交の場で、個人に焦点があてられた際、個人を空間的な社交に還元する事が体感に根付いておらず、個人的な立ち位置の居心地を空間に要求して苦しんだり、悦んだりしている。空間に個人を還元せず、空間内で測量出来る事物に関係付けて、個人が浮き出ているのが日常である為、空間的(責任的、社交的)に生きていないので、まだ関係付けていない空間(新しさ)だけによって空間が保証される。その為、移動と消費購買(新しさ)に対する欲求に実態性を強く感じ、それらが出来る能力のある者、例えばお金持ちのその側面に権威を感じて、ゴージャスな新しさでまみれた世界(ロマン主義)と、うだつの上がらない日常に生きて損をし、周囲(社会主義層以上)に迷惑を掛け、その自覚に乏しい。生産下部の具体性に実態性を感じる為、感情的である。



グレーゾーンについて、浮派層は抽象性を形(ロマン主義的パッケージ)に見る為、現実の事象を抽象空間的に察知出来ない層であり、好きな事、嫌いな事の世界で生きて、世界(空間)をリセットする為に新しさに向かうのに対して、グレーゾーンは抽象性自体(事象の抽象理解自体)が不能であり、抽象性を形にも見づらく、空間内前方の対象を見ている。

グレーゾーンの注意欠如は、個人が怪我をしない為の注意になるので、集団以上(責任以上)になると不注意になる。

生産欠如は、1万円をケチってモテず、付き合いをケチって友人が出来ず、損得をその瞬間のかなり小枠の事物への関係付け、具体性で判断する。つまり行い(投資)という概念が、直近数十分等の距離的に把握出来る内にしか認知していない。(ここは浮派も酷似している。)

お金を盗る、盗らない。良い事。悪い事。というように相対的に世界を見ているので、自由意思(戻る)から離れる事、また周囲を離させてしまう事に対する情緒的な罪悪感情が極端に少ない。

彼らは具体的な作業であれば役割を理解するので、ヨコの時間の流れに沿った責任作業は、空間的な責任という責任感ではなく、具体的な役割として自己に掛かるプレッシャーとして認識している。事柄に対して自責を感受せず非常に物質作用的である。常に自分のプライベートな独立した時間を形成しようとし、空間批判をして人生を居心地の悪いものにしているが、その自覚は全く無い。浮派と同様に生産下部の具体性に実態性を感じる為、感情的ではあるがロマン主義の要素が少ない分、絶望は比較的少ない。



以下はグレーゾーンの有効性について。


グレーゾーンとの関わりで学んだ事は、元々の想像よりも物質作用的な事。浮派と同様に悦楽的ではあるが、浮派に比べて、空想的な煩悩(ロマン主義)は小枠である。


こういう時はいつも最大抽象度で見ると物事は分かり易くなる。仮に転生的な抽象概念で説明すれば、浮派の来生がグレーゾーンで、グレーゾーンの来生が畜生(動物)と言った具合であろう。


着目する点は、グレーゾーン層は物質的である事は間違いないが、当然物質は独立して存在していないので、あらゆる物質作用は抽象的外郭(物質部分)に沿っている現実がある。


浮派よりも抽象的外郭(物質的)なヒエラルキーに無条件で沿う力があり、彼らグレーゾーンは貧弱であれ、屈強であれ、共通して物質的な力の正義を信じて、抽象性外郭部のモノの流れに沿って行動しながら、行動の途中に自己判断すべきタイミングではほぼ必ず落下(具体化)の方面に向かう。抽象性の内容は理解不能である(せいぜいロマン主義と混同している)が、とりあえず全的形態の雰囲気には沿いながら、時間に猶予があると判断を誤るので、猶予を物質的(機能的)になくす必要があり、それが出来れば抽象的外郭に沿う要素が際立つ。

浮派が抽象性を落として、事物のパックに抽象性を感じるロマン主義的な生活態度によって、空間内を関係付けて嫌悪を多くして生きているのに対し、グレーゾーン層は抽象外郭部の全的形態に沿うので、隣に対する嫌悪が少ない。