ウパニシャッド(ブラフマンとアートマンは同一)と、サンキャ(プラクリティとプルシャは区別)は連環されている。なぜ連環されているかというと、ウパニシャッドの有神(ブラフマン、アートマンの合一)と異なり、サンキャは非神論の数論(プラクリティ、プルシャ。つまり三界(五蘊)と真我(観る)との明確な区別)であると述べた上で、この場合のプラクリティの根本原質はシャクティ(女性)であるとはっきり説示されているからである。
言それ自体(展開前)(梵我一如)は男性原理。展開(分節)後はカオスの秩序化(段発生後)(大(智慧発生後)、論理、命題発生後、エロス(欲望発生後))は女性原理である。(つまりアダムの肋骨(側面)からイヴが出来ていて、人間は蔓延り(人間の段々が形成され)、常に見ておられる神がいる。
プラクリティは女性原理であるので、男性は女性を守るもの。女性は展開しないように守り、一人の男性を神とするもの。(プラクリティが女性原理であるというのは、神の言いつけを守らずに、イヴが、蛇(欲望)持っている智慧の実(大)食べて、楽園を追放され、妊娠して人間達が蔓延って地に落ちた。というもの。(その最初の蔓延り(イヴの子供達)で義理や命題応答が表現されている。)
ウパニシャッドは答えであり、サンキャは説明である。(神のすぐ下(あるいは隣)の展開直後の全ての話し(展開後は、善性(純質)と動性(激質)、縁への命題引き受け(業瑜伽)で人生は決まっている。)
文面上での仏教解釈の論点になるのは、釈迦がウパニシャッドを単純に否定(無我である)としたか、あるいは当時の民衆のウパニシャッド観を批判(非我、それはアートマンでは無い)としたかであるが、正しくは後者であり、釈迦は当時の民衆理解のウパニシャッド観を批判した。(自分はアートマンでは無い。自分の所在は五蘊であり、五蘊の段々(三界)には、アートマンは存在しない。(五蘊の段々と、観る(識別)の関係である。)「アタ(パーリ語。サンスクリット語アートマン)は三界には存在しない。」
無我非我論争は、修行者(実践者)と職業者(お坊さんや学者)の違いで起きている。
個人主義的な思想を引きづるとウパニシャッドを否定して、サンキャ(論理)を、構造的に理論化させて、自分の正体(確定的個人としての真我、サブカルチャー的魂)と、外界物理(プラクリティ)の関係になって、それを批判する働きになる。
こうなることで縁(領域)、文化(痕迹化の流れ)、西洋近代科学的観測(痕迹化後の空間的観測)と整合性が取れなくなり、実質的学生運動(日本赤軍のような共産論的社会主義、オウム真理教のような神秘主義的社会主義)のような集団性が起こる。(資本が集まっているところから取る。維持し得ない現在は敵、輝かしい未来へ行きたい。)(新規の出家信者から財産を没収しないと既存信者の生活を維持出来ない分配経済。)
最終戦争というのは将来、領域で起こる。(自立的な時において。)近未来に空間で起こるのでは無い。(厳密には空間的(エーテル的)にも周期的に起こるだろうが、そのような前提はあなたの時には益がない。)
哲学者(数学者)というのは、既に語化(記号化)されたことへの信頼から厳密に理論的に論理の入り口まで昇華されて生産諸関係(文化の流れ)の理解に到達するが、領域(縁、論理)は認識していない。(だから「ときしろ(領域)」ではなく「時代(文化)」を説明する。)だから速やかに著名になる。
神(真実)と、汝(領域にいる隣の人)と、エゴ(悪魔)と、エーテル(虚空)の関係である。だからエーテル(虚空)の広がりは、あなたの人生にとって関係ない。
プラクリティはトリグナで苦しみだから、十二支縁起は宇宙の生成であり、苦しみ(徳が生まれる場の三相、トリグナ)の生成である。
自立系のそれぞれの宇宙が十二支縁起として一組であり異なっている。そして重なっている。(重なり方が社の会として段々である。それは眼前としては社会である。)
非パターン(業)が悪ければ、時と共に悲惨な人生を必ず送るようになっている。悲惨な在り方で老死する。
先輩について、正々堂々たる命題(苦しみ)は早よう来いと知っている者以外に付いて行ってはならん。知らん奴は後輩に巣喰う。立てに障壁しかないのだ。そして乗り越えた後は過ぎ去っている。(ヨコスライドはありはせん。)
一神とはその全体であり、多神とはその展開である。多神に負けるな。入定より以前の徳業の基礎とは、周囲の畜生や餓鬼を見て学び、引き受けまくって与えること。
他ではなく仏典を信じろ。そうすれば他(バラバラに見える学、金、女、生活)の関係を経験して知ってゆく。物理一切と部分の違いを悟ってゆく。パターンの行法の教学箇所に法句経を取り入れるように。
パターンの行法は必ず報われる。あなたはそれを知らないだけである。あなたの今迄の非パターンの全ての失敗は、パターンの行法に依拠する。非パターン(絶対自力)は、命題の実際の引き受け(引率)と行儀。パターン(絶対他力)は、伝統行法(バクティ。座る、題目、教学、神棚、会議)

