生きている物(Biological)では無い。この様な宗教は政治的意図によって形成された民間信仰。


敗戦国家、被植民地化国家の支配の手段として、生物学的言説(とりわけ進化論的観点から人種論を経由して、技能的能力主義からの進歩主義)は歴史的に繰り返し活用されて来た。(進化論で時間軸を変えて、未来を最も先端にする。


株式会社(社会主義的弁証法運動)が、分業的に契約可能な機能単位(生物)として、年功序列(物価高と無関係に提示される微量な加算給与)と、住宅ローンの完済(目標)と、定年後の退職金(解放を餌にコスト(現在の給与)を圧縮。)で、多量の人間を捕縛して徹底的にヨコに敷く様に。


経済とはその様に出来ていない

若上記の様な労働に終始すると、夫婦関係は社会主義になり、子供という契約印が残る。友は連れず、多量の人間が集まる社交会に参加して全体性を回復する。


自己資本とは、将来に向けて主体的に運用される資源(土地(土地が、生産資源の中で最も低い。)道具、金銭、期限、信用、人的関係、経験的知識)


生きている物では無い。生きている物体が、そのモノを駆使(技能的能力を発揮)して、経験しているのでは無く、経験とは生命体(命(メイ)ある生の様体)であり、体(タイ)に内訳られる経済(自己資本)及び、命(イノチ)と、生の賛美とは、五蘊(古今東西の伝統書物に記される「霊魂」の学術的解説)である。


五蘊とは、色(体(身を取り巻く状況、境)、身(この身、根)、受(体による快、不快、苦、楽、中性の訪れ)、想(これは◯◯であるという形象)、行(体(境)に対する命題達成の受、想、識を無視した命題達成の断行的意志)、識(常態的な認識、識別の分岐時点。)


だから周囲の状況(色蘊の体、身を取り巻く環境)に、自分の感情で物事を決めるのは物理的に不自然である。(現象的として五蘊であり、時間的継起として十二支縁起である為。(名色(その段の心と六境)の方が、六処(その段の六根、身の駆使)より存在として先行する為。


だから取り巻く環境の応答発展に対して、主体的に身(六根)を駆使せずに、身が解放へ向かうことは、所有であり、五蘊(色、受、想、行、識)は悪くなって行く。(自覚が少ないまま、命ある生の様体は悪くなってしまう。覚とは過去の命題応答の展開自体から発現の為。大の隣。)


現実を変えるカルマヨーガでは、色の体(身を取り巻く状況)が示唆する命題に応答する「行(命題達成の受、想、識を無視した命題達成の断行的意志力。)」であり、これは五蘊が更新されてとても善くなる。


「僕(従僕、下僕の意)」は無我であり、僕があなたに優しくしたり、僕があなたに厳しくしたりすればするほど身、体(生命体)は悪くなってしまう。僕というのは物理的にとても不自然。



主体(命題応答そのもの)と、汝(縁のそなた)の関係である。(応答それ自体と汝に聖霊的媒介構造がある。金(カネ)とはこの聖霊的媒介構造の細い縦糸。)(この聖霊的媒介構造と汝は顔のようになる。)


(また神道では「身」とは、神霊と一体となるための「清められた器」であり、場としての共同体(霊(たま))と説明。)


主体と、汝と、聖霊的媒介構造の究極の姿が神であると断言出来る。



無常(ほっとくと増えてゆく。)、苦(生産応答から増えてゆく。)、無我(僕は存在しない。)の理解。

応答の連環(徳)から解脱される事は可能である。(涅槃)



人間は、僕とあなた(それ)をすればするほど全て終わってゆく。その様に出来ている。

(僕とあなたとか、僕とそれの関係の業(悪業)は、必ず返ってくるので時間差でどんどん悲惨な生命体になってしまう。)


(釈尊の教えの幸福の定義に従って生きると善い。縁と応答そのもの(徳)の連環で境地まで行けば、観によって如実知見され、また徳の連環に出掛ければ涅槃(真の幸福)であり、一般的な幸福とは、苦諦である外界(色法、体)の縁への命題達成で善く整えること。)


過去の命題応答の知らないフリの分、連続して場として訪れる苦諦(既に重い体(タイ))に対して、また解放(グヘグヘ、イライラ、知らないフリ)の方へ向かうと更に五蘊が落ちて果てしなく終わってゆく。干渉によって周囲も終わらせて行く。(現象としては、どんどん速度と期日が求められる人生。一人という意味が徳の連環に座っているのではなく、疎外されて今一人(限定空間的一人となる。)



要するに「物」とは、縁(時)における命題の生産的応答(苦諦)からの展開であるということ。


主体(応答そのもの)と汝(縁のそなた)の関係で上手くゆき、僕とあなた(それ)の関係をしたらその分は終わってゆく。私の感覚では「過ぎた欲は抱えない」という感じ。


主体(応答それ自体)と汝(縁のそなた)の関係とは、カルマヨーガ(非パターン)である。それはパターン(行法)に依拠している。



イエスは言った。

彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また悟らない。(悟らないというのは、主体と汝の関係。)

民の心は鈍く、耳は遠く、目は閉じている。



釈尊は実践した。

バクティヨーガ(自己は、五蘊では無い。)

カルマヨーガ(ご縁の命題引き受け。)

ジュニアーナヨーガ(教学して、あるがままに見る。

ラージャヨーガ(ただ座る。行儀の最大を打つ。)


欲に従わず、過ぎた欲に負けて、感官を展開させると、物は展開を始める。(あなたは、あなたの身の駆使、見る、聞くの能力を知らないことを知る必要がある。縁の現実的な体(タイ)の命題に応答した過去でいっぱいにすれば、見ると聞くをが出来る。)


悪業とは、縁を裏切ってスライドしたり、慣れたことや、過ぎた欲望をルーティン化すること。極悪とは、目の前の事にグヘグヘニタニタして語り出すこと。


その場(トポス)からの正解は存在しないということ。(罪人は、主体と汝の関係を放棄して、僕とあなた(それ)で、その場でいなそうとする。)

(前もって命題応答せず、その場ばかりになってしまうと、場は無秩序化してら縁を切って(解放に向かって)僕の良かった過去と現在の悲惨な人生と老死に必ずなる。



自立系を善(精進)で過ごして、因縁生起による残存(存ずる在り方、五蘊)が、能力(残存能力)であり、自立系で感官を展開させないことで、現在系(ご縁のそなた)で経済(善質の激質のエロティシズム(実行力と知性))は成立する。


僕から、あなたやそれを成したと感じた過去は罪なので、伝統行法のあれとかそれを僕がやるかどうか問答するのは無用である。


僕があなたに何かしてもらいたいとは「盗む」ということ。主体(応答そのもの)は、汝に生産するだけである。


重要なことは既に与えている汝に与えることを教えることと、時の順(徳の順)であること。縁(上に義理(契約)を通して、下に仁(与える)を成して行くと、徳の高い人達が現れるか、与えた者の徳が高くなるように出来ている。