文化というのは、生産主体からの放射(流れ)である。

生産主体が放射する生産関係に入って、共同体意識(抽象性)を纏っていた、おばあちゃんや母親が大切にしている物があるとする。
その共同体意識(抽象性)の形態が形態の暴力によって亡くなったあと、大切にしていた物が形見(抽象性の保存)になった時、それがマトリューシカであって、自分が日本人であっても、そのマトリューシカは文化(生産主体からの放射)の中で抽象性を感じさせ続ける。


また「話しが上手い人」とは、自分が自分に問い、問われた自分の側から答えを出して話しているが「話が下手な人」というのは、相手や周囲の人が話す言葉に対して、時には熟考して返答するが、問われるべき側の自分に問わないまま、問うべき側の自分で対象者に返答している。
このように友人や家族というのは、自問自答のプロセスに存在しているのである。


俗世間的な感性を持っていても、尊敬するに値する人とは、「成し遂げる為に、楽しい事を犠牲にして来た人」これは、相対的な悦の誘惑にさらされながらも、悦に向かう事は行為の本質では無いと見抜いて、悦から出来る限り離れるべきであると体感理解している者だけがこの行動の本質に沿う。
生産主体への道程を常に目的論的見地にしている事の純粋さに、魔が差しづらいように日常生活から配慮して生きている人は素晴らしい。(生産関係への作業の進みを楽しんで、楽しみ(相対的な悦)に若干の愛著がありながらも排除する。)


文化について、より詳しく説明する。
博物館に展示された文化品のように、守られるだけの受動的存在は守られるべきものの破壊の中で終わる。
文化を実感してゆく過程では、守る側の守られる側に対する同一化が最終的に成就される可能性がなければならない。
博物館の展示品と警備員の間にこの同一化はあり得ず、この可能性にこそ守るという人間の行為の本質(非行為的行為)がある。

これが、長い歴史の中で人間が形態の暴力に牙を剥かれても守り、闘う理由である。

「多様化」を守れ「民族」を守れというような分断の雰囲気と同様に「文化を守れ」も敵味方の存在する行動の本質から、客観的評価の中では相対化されざるを得ないが、同時に相対的価値の絶対化を死によって成就するのが、行動の本質に他ならない。

生産関係から遠く離れてゆく事を、自己愛と他者の自己愛への配慮によって支持するリベラリズムの言語(思考)が、当然自己愛と他者の自己愛への配慮に基づいて、まず暴力(自然)の効用を観念的(叩く、叩かない)に限定し、ついには暴力の無効性を主張するに至るのは、論理的必然である。

平和を守るという方法が、全て平和的でなければならぬという文化主義(発展主義)や進歩主義的盲信はマインドコントロール下の没人格者の特徴と言える。

文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との対立概念であり、文化を全体的に容認する政体は可能かという問題は、ほとんどエロティシズムを全体的に容認する政体かという問題と同じである。

左右の全体主義の文化対策とは、文化主義(発展主義)と民族主義に促して、文化それ自体の全体性を敵視して、全体性の削減を狙っている。

民主主義と天皇との間の矛盾を除去しようとする理論構成上、文化共同体として国民の概念を力説する必要があり、文化に沿う国民という精神概念としての国家と、物理的な政体が一致する優れた状態においては、言論自由の弾圧の心理的根拠は、全体自体に対する、枠組みの中の全体主義の嫉妬に他ならない。

何らかの主義、主張、イデオロギーが誰かに伝染し、全体主義的に流行する事によって、文化(放射、流れ)は、人類の文化となって、人文主義的福祉価値(ヒューマニズムに必要な外側の対象)と同義になってゆくのである。

モノとしての文化が、近代の文化主義によって積極的に保存が企てられているが、この目的の指すところは、続く植民地化に向けた分断(多様性)の促進を図っているのであろうが、しかし、もしこれが文化の理解に根差した判断なのであれば、理解としては最底辺だと言える。

文化的建造物が表現する正しい文化形態は、例えば日本で言えば、伊勢神宮の式年造営は存在諸関係、つまり天皇の本来的な在り方と、文化の流れが非常に分かり易い。これが単なるモノとして守られる文化とは異なる「文化」そのものである。

その文化の流れによって、私達は祖国を感じ、家族を感じ、息を吸っては吐き、歯を磨いて、顔を洗い、懸命に働き、懸命さと懸命さの間の閑暇を独自の文化的節度で過ごしており、形態の暴力への移行の阻止にひたすらに励んでいる。

この文化という人の生産関係から、人が切り離される時、人は人ではなく「個人」となり、外に関係付け始めるのである。そこに文化主義や進歩主義というのが現れて来る。(俗的な民間人の唯脳(この私)教もここに根ざしている。)

文化というのは、主義の全てを抱合している。既に有る流れだからである。生きるというのはその流れである。

三島由紀夫の言葉、「文化というのは創造し、保持し、破壊するブラフマン、ヴィシュヌ、シヴァのヒンドュー教、三神の三位一体のような主体性においてのみ発現するものである。」
私は三島由紀夫氏が積極的に発言する美の説明や表現について、いささかの疑問を感じているが、この発言に関して、彼が文化に対して非常に理解している証拠だと感じる。
文化というのはサンスクリット語のカルマと言い換えると分かり易い。

徳の中で私は小社会における団体性(共同体意識)の復興に努めている過程で、団体内の学問教育の促進を計り、物書きをしているが、数年間本腰を入れて執筆作業をしていると、文学者というのは宗教家(行動家)の前座である事がよく分かる。
主体なき客観性に依存してモノを書いていても、文化の中で徳を積む、あるいは種を蒔く、供え物をするという、抽象表現でしか言い表せれないような生産主体に対するアプローチがなければ、自己が文化に組み込まれていないので、既に有る文化の流れの中で「生きる」が、本末転倒になる。


私達は皆、極小でも何かをがんばった事があるはずであるが、そのように個人的な精進を継続した後の現状維持は必ず退化に向かう。必ず形態の暴力に巻き込まれる。だから生産関係を常に探し、努め励み、そこに作業の進みを感じて仕合わせる事(行為の本質)にしか、私達はやる事がないのだ。
内側の死に向かって徳を積む事でしか、私達は仕合せてゆく体感を持たない。

小社会で自らが文化に自然的に沿う時、それは小社会の人達の中心に座るという事であるが、形態の暴力、即ち猥褻者の暴力に巻き込まれている時、引率者として人の上に立たざるを得ない事を悲観していても何も始まらない。
形態の暴力というのは、それが人であろうが無かろうが常に干渉してくるが、生産主体と共にあるという微動だにしない意思決定が、それらの干渉に対して自然的にエロティシズムとして発揮されるのだ。

形態の暴力に襲われて疲れた時、生産主体から少し離れてエロティシズムと共に生き、疲れていない時はエロティシズムは還元されるので、生産主体と共に生きる。
この文化行為は、本質に基づいた最低限の人の行動だと感じる。

私達は文化の中で現象化されているのだから、文化の中でしか生きていないのである。

文化、そういうの大事そうと言ってみる時は、文化ではなく社会的モラルやモノとしての文化を指していて、文化は古いやっぱり革新だと考えている時は、やっぱり文化に対しても革新に対しても自己の対象として捉えている。
ロシアのマトリューシカと、日本のコケシがどちらが重要かというのは、生産の主体からの流れが決めていて、私達日本人の場合、文化の中、抽象性を帯同させる形態の文化がパーセンテージ的にコケシになるのである。故に形態の文化もプロセスとして大切である。

個人(イデオロギー)より日本人(民族、形態の伝統)が先行していて、民族(形態の文化)より、生産の主体が先行している。

なので、形態の文化も大切だけど、文化の方が生産関係として全体性を担保しているものだから、小枠の文化形態に支配されず、大枠の文化的生活態度がないと、私達は変になってしまう。歯を磨き、風呂に入り、懸命に働き、よく学ぶ。そして団体性(祖国、友人、家族)に支えるのである。

文化に自から逆行しようとする植民地脳の作用に対する特効薬は、生産主体の内側での絶対化と、それを忘却せぬようにする外側の偶像化、またそれの合一化であり、国家という単位では、それに帰依する社会的前提のアトマスフィアが重要である。

日本においては、敗戦後の植民地政策によって急増した個人主義者が、職業(苦しみ)と悦びの実態性から経験的に回復する全体性とは、せいぜい経済や西洋近代科学の実態性であるが、このようになる大きな要因は、生産主体の絶対化を失った植民地政策による影響であり、実際は経済、科学(西洋近代的な意味においての科学)は全て文化に抱合される。

これが間違いない事を私は分かっているから、人やモノの形態の暴力が縁によって干渉して来ても、やっていけるのである。