男も女も梅田から解脱したくて梅田という販路を練り歩いている。(プライベートやロマン主義は梅田未満に存在している。)
リベラルってのは梅田に塵(ゴミ)を捨てないようにしようということ。梅田は既に膨らんでいるからあの様(塵芥的)なのだ。(その意味では現在系よりも梅田の方がゴミを捨ててよい。)
(なぜ痕跡の尺(歴史)で、都(ミヤコ)(天皇が住む場)が形成されて、そのあとトーキョー(ヨコ)が膨らむのか。それは前の前の前の生産者の物が連環しているから。物の連環の痕迹化(かつ膨らみ)が都である。(既に形成されているモノには裏がある。だから縁を裏切ることで、モノに向かう。)(現在系から現在拡張系、流体系、部分系)
人材もITも飲食もモノとしての媒介物は、梅田以下に販路している。モノとはそういうことだからだ。だが売るは違う。それは物に基づいているからだ。
何でも物に所以して展開しており、上に義と下に仁で、経済は起こっている。仁義めかした態度ではない。自己資本とはこのこと。
物に基づいて、諸関係が在る。人材事業、IT事業、飲食事業と通称される事象には中身(臨時命題の段々、常時課題の段々)が在る。(常時課題ラインで生きると、一位開発(資金調達)をして、多量の株主と役員と一列になって、二列目の多量の社員管理、お客さん管理をして、次の資金調達(上場)を試みる。)だから自己資本はなくなり、相対的な資産が膨らむ。
つまり借金が膨らむ。また新しさ(開発、資金調達)を先駆しなければ終わる。だから未来を語って(ロケットとか打って)、資金調達を安定させる。社会主義を強いて、空間的に社交する人々は次々に新しくなる。だから夫婦がいない。)
上の義にて、汝が現れ、そこに仁ありて、物の利あり。
(身(シン、六処)の程を知れば、義がおぼろげに出てきてそれと契約すると、汝が現れてくるから与えまくる。)
(「僕」が相手を思ってやると何でも上手くいかない。何か上手くいったと思っているときは交換してしまっている。例えば、人材でいわゆる昼職の日雇いを紹介したり、いわゆる夜職の風俗を紹介したりするから終わる。あれは派遣だから。物からモノ、更にモノの分解。)
物や経済は、バクティヨーガとパターンの行法(伝統行法)で上手く行く。ではバクティヨーガとは何か。それは仏典(法句経)と旧約、新約聖書を読んで、そのまま信じるということ。一切の論理は後から付いてくる。縁の義と契約して、汝に汝ら以上の命題を与えて、仕方なく汝らが出来ることを与えれば、物、経済、論理は成就されて行く。汝には意味がある。意味は部分的ではない。全的だ。
では汝とは何か。
汝は「子」ではない、「子達」だ。時の順である。過去の徳業。
汝らには、ある意味で死(命、生の成就)を与えてよいが、下等に扱ってはだめだ。
では子とは何か。
子は二つある。一つは縁の主君で、一つは妻だ。バクティ(主の子一人、仏陀、キリスト)に異なりながら、妻と主君は鏡になる。(現在系で。)
ナザレのイエスや釈迦牟尼(痕跡の尺としての個体)は、あなたの縁で登場する。スジャータも。行(現在系の行)とはこの事だ。このボリュームに経験はある。(色界迄の。)
行っていうのは人の経験の段々。ポイント(経験主義)は経験とは呼ばない。それは対象である。感官を展開させると、経験成就しても下位段を解脱出来ない。
縁の主君(二つ子の一つ)が、教の会(社の会)を見捨てないように、夫婦もお互いを見捨てない。(結婚制度(社会契約)においては、我が子(我ありの子)に所以した社会責任成就なので、形式、非形式を問わず離婚の為に結婚していて、それで徳業である。)
女は誰でも社会の上に君臨しており、女は展開の最初なので、一人子(夫)との義理の達成を純望している。
男は梅田から昇るが、女は梅田に触れていれば落ちる。尻尾を振ったような服装は分配だからである。大丈夫(マハープルシャ)な男性を認識出来なくなる。(縁が変わる。)
精神的ヒジャヴが物と経済で女を守る。そのように出来ている。通常、男はそれを知り得ないが女は貞淑さの展開に罪の意識を感じている。梅田を歩きまわって感じなくなっただけだ。女の社会進出は守られなかったことにとらわれて、感官を広げて男と対等であると信仰したこと。
女は守られるもの(神社)で、男は守るもの(宮司)。
感官抑えや、自信というのは、ときしろが昼夜以外を支配している実感だ。このまま行くことを赦されたいから資格を得る。
(体(タイ)が違うのに、形式的に混ぜるからエロスは煮詰まる。消耗とイライラ。)正しいエロスとは、引導なのだ。(例えば、徳業の果の為に、経糸(お金)を倹約して、経行に預からなかったり。)
(例、何か倹約の為(徳業の果への渇愛の為)に女と割り勘したり、何か倹約の為(徳業の果への渇愛の為)に自転車に乗ったり、何か倹約の為(徳業の果への渇愛の為)に電車に乗ったり、経糸を経糸のまま使わないから節約出来ない。倹約(分解、預貯金数え)になる。)布施波羅蜜の財施を失う(節約を失う。)
応答そのものと、汝の関係が、物の実在だ。証拠に僕の死は僕に訪れない。汝に訪れる。だから命(光)があり、命題の段々が生命なのだ。伝統宗教の全ては、これを教えている。
徳治でなければ、必ず社会主義化する。(徳治主義や、技能的能力主義であれば社会主義になる。)
賭けとは何か、10万円を賭けることではない。10万円しか持っていない人間が10万円を賭けることだ。それは何から落ちて来たか。自らの五蘊を(認識に依存する欲の最高到達地点を)賭けて、知らない欲の経験に沿ってこの五蘊を破棄するという意志することだ。エロスっていうのはこの為にある。だから過ぎた欲望にイライラするように出来ている。
イライラしてはいけないというのはね。過ぎ去った欲にはイライラするように出来ているからまだ経験していない欲に預かって、ものごとを立てようということ。工夫はこのときにある。(既にルーティン化している事はいつも怪しい。)
時(命題と二つ子と聖霊)(現在系)というのは、父と子と聖霊(自立系)に所以している。太陽と月が最初なんだ。
(聖霊は、神の意志を働かせ、被造物を生かし導く、現在進行形の神の臨在。
静止した存在が父であり、受肉した子や子達とは異なり、今この瞬間に作用する継続的な流れ。)
命(メイ)に生は在り、体(タイ)(外界物理)と身は聖霊である。体(タイ)が命(メイ)を伝達する所以で不快を感じさせる。
命は段々である為、子達は段々である。
「色は無常で空性、苦諦」というのと、「聖霊は永遠で神性、命題」というのは同じだ。戻るか降りているか。色即是空、空即是色の訳は見事だ。
母胎に宿るというのは、その全体と記憶。精進と言って赦されるだろうことに務めはじめて、子供時代を思い出しているのというのは、実はその全体であるという事を悟っていった。
因、縁、果の順である。だから行法が圧倒的に作用する。だから生産が強烈に作用する。(最も速効性があるのは題目。)
義がないと、いつも仁が試されて忙しい。仁がないと、いつも義が試されて忙しい。
信用出来る人というのは、通義で権利を持っている人。要するに形式的にシャキッとしている人ではなくて、行儀が善い人だ。
身体固形制度があり、体の状況に所以する身分制度(構造的な段々の体の無秩序化迄の維持制度)があり、徳治(現在系の汝らの体の状況に所以)が在り。
