アラハバキ | 覚書き

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アラハバキ

主に東北地方から関東地方で信仰されてきた神である。

概要
記紀神話や伝統的な民話などに登場しない謎の神で諸説あるが、「荒覇吐」「荒吐」「荒脛巾」「阿良波々岐」などと表示され、現代でも全国各地の神社でひっそり祀られている。但し、客人神(門客神)となっている例が多い。これは、「元々は主神だったのが、客人(まれびと、まろうど)の神に主客転倒したもの」といわれる(cf. 地主神)。

神社では、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神、また「足の神」とされてきた。(多賀城市の荒脛巾神社の祭神「おきゃくさん」は、旅人らから脚絆等を奉げられてきたが、下半身全般をも癒すとされ、男根像も奉げられる。(cf. 金精神))

明治の神仏分離以降、各神社の祭神は記紀神話の神々に比定され変更されたが、荒脛巾の場合は「脛」の字も相まって、大和王朝(神武天皇)に敗れた側の「長脛彦」とされることがある。

古史古伝『東日流外三郡誌』の影響力が強く、偽書とされながらも、その後、アラハバキ「縄文の神」説、「蝦夷の神」説は定着している。遮光器土偶のイメージとしても世間には広まった。

ウェブの言説などでは、「瀬織津姫」や「大元帥明王」らとの習合もみられるが、これらのシンクレティズムが昔日からのものか、現在信仰形なのか、明確ではない。

諸説
女陰説
倶知安のアイヌの酋長によると、アイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰の意味で、本来一対のものだったという[1]。ちなみに、神社の鳥居は女性の生殖器を象徴しているという説もある[2]。

蛇神説
柳田國男の『石神問答』等でも既に示唆されていたが、吉野裕子は、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたものとする。「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。

伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(土用にあたる)の「巳の刻」に行われるという。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」として、蛇と深い関わりがあるとする[3]。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説。

塞の神説
宮城県にある多賀城跡の東北に荒脛巾神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。谷川健一によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るために荒脛巾神を祀ったとしている。朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。つまりこれは荒脛巾神に「塞の神」としての性格があったためと谷川[4]は述べている。

さらに谷川は、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は「蝦夷をもって蝦夷を制す」で[5]あり、もともと蝦夷の神だったのを、多賀城を守るための塞の神として祀って逆に蝦夷を撃退しようとしたのだという。また、衛視の佩く脛巾からアラハバキの名をつけた[6]ともいっている。

製鉄民説
先の、多賀城跡近くにある荒脛巾神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であり、後述する氷川神社をも鉄と関連付ける説がある。

近江雅和は門客人神はアラハバキから変容したものであると主張、その門客人神の像は片目に造形されていることが多いことと、片目は製鉄神の特徴とする説があることを根拠として、近江は「アラ」は鉄の古語であると主張し、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物を採取していた修験道の山伏らが荒脛巾神の信仰を取り入れたのだという。また足を守るための「脛巾」を山伏が神聖視していたと主張、それが、荒脛巾神が「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容した原因だろうと推測している。

真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、もしその説が正しければ「塞の神」と製鉄の神がここで結びつくことになる[7]。

氷川神社との関係
「氷川神社」を参照
荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社でも見られる。この摂社は「門客人神社」(氷川神社#摂社参照)と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである[8]。これらのことを根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説[9]もある。

一方アラハバキを客人神として祀る神社は武蔵を始め、三河、出雲、伊予にも点在するため、武蔵先住の神と見ることはできない。出雲の佐太神社や出雲大社は出雲国造と、伊予は小市国造・風速国造と、三河は三川蘰連と、氷川神社は武蔵国造とそれぞれ関連し、これら諸氏はいずれも製鉄氏族の物部氏と同族であった。陸奥にある丹内山神社は、神体がアラハバキ大神の巨石(胎内石)という巨石とされ、当地の物部氏が関与したと伝わる[10]。

この大宮を中心とする氷川神社群(氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっているとみる説もある[誰?]。氷川神社は延喜式に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神がスサノオであるという明確な記述は江戸時代までしか遡れない[要出典]。

砥鹿神社
砥鹿神社奥宮末社に荒羽々気神社がある。名称こそアラハバキだが、祭神は大己貴命の荒魂としている[11]。

脚注
^ 吉田大洋『謎の弁才天』徳間書店、1989年。
^ キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史』河出書房、2005年。
^ 吉野裕子 『山の神』 76頁。
^ 谷川健一 『白鳥伝説』 341頁 集英社
^ 谷川健一『白鳥伝説』 349頁
^ 谷川健一 『白鳥伝説』339頁
^ ただし真弓の説は、「塞(サへ)の神」の語源を「遮る神」とする学界の通説とは相容れないものであり、支持者はいない。
^ 松前健『日本神話の形成』塙書房,186頁。菱沼勇「武蔵の古社」有峰書店1972年,71-75頁。原島礼二「氷川神社」谷川健一篇『日本の神々 神社と聖地』11関東、白水社
^ 大林太良『私の一宮巡詣記』青土社,2001年,69頁
^ 宝賀寿男「舞草刀と白山神そして物部部族」、『古樹紀之房間』2014年。
^ “里宮散策”. 三河國一之宮 砥鹿神社. 2021年12月15日閲覧。
参考文献
和田喜八郎編『東日流外三郡誌』
谷川健一『白鳥伝説』
大林太良『私の一宮巡詣記』青土社,2001年。
松前健『日本神話の形成』塙書房。
菱沼勇「武蔵の古社」有峰書店1972年。
原島礼二「氷川神社」(谷川健一篇『日本の神々 神社と聖地』11関東、白水社)。
飯沼勇義「解き明かされる日本最古の歴史津波」p113 鳥影社 2013年。

 

古史古伝

 

 

(こしこでん)とは、古代史の主要な史料(日本の場合なら『古事記』や『日本書紀』など)とは著しく異なる内容歴史を伝える文献を一括して指す名称。

種類が多く、また超古代文献・超古代文書ともいう。

古史古伝は今のところ、いずれも学界の主流からは偽書とみなされている。日本の『武功夜話』や『百輪中旧記』などのように中世以後の歴史を記した偽書もあるが、古代の特に古い時代に無関係な文献は古史古伝とは呼ばれない。

概論
古史古伝は、

写本自体が私有され非公開である、などの理由で史料批判がなされる予定がなく、史料として使えないものも多い
超古代文明について言及されている
日本のものの場合、漢字の伝来以前に日本にあったという主張がある神代文字で綴られている
日本のものの場合、上代特殊仮名遣に対応してない(奈良時代以前の日本語は母音が8個あったが、5母音の表記体系である)
成立したとされる年代より後(特に近代以降)の用語や表記法が使用されている
等々の理由で古代史研究における歴史学的な価値は無く、古代からの伝来である可能性も無いと考えられている。しかし、古史古伝は種類が多く1〜5の特徴もすべての古史古伝に共通しているわけではなく、それらの諸点についての度合いは各書ごとに様々である。

日本のものの場合、江戸時代成立とみられる文献もあり、それらには江戸時代的な特徴はあるが、近代以後の用語などは存在しない。ただし、いずれの「古史古伝」においても「偽書である『古史古伝』ではなく、真書である」と主張する人々はかつて存在したか、もしくは現存している。

現在では、近代における日本人の国家観・民族観への受容等のあらわれとして、文献の作成を行う者の思想に対する研究が始まったところである。

古史古伝を含む偽史の作成は、それが作成される社会と時代における時代精神を反映している。原田実はオウム真理教が偽史運動から登場した事を指摘している[1]。実際に教祖の麻原彰晃は、古史古伝に登場するヒヒイロカネに関する記事をオカルト雑誌のムーに発表したことがある[2]。ただし、いわゆる新興宗教が偽史や古史古伝に立脚しているケースは多々見られる。

名称由来
第2次世界大戦前には「神代史」「太古史」など言われ、戦後(1970年代頃まで)には吾郷清彦が「超古代文書」と呼んでいた。

また同じ頃、武田崇元(武内裕)は「偽書」「偽史」「偽典」などと発言、しかし「偽書」「偽典」は用語としてすでに確立した別の定義が存在しており紛らわしいので、やがて「偽史」という言い方に統一されていった。

「古史古伝」との言い方は、吾郷清彦が著書『古事記以前の書』(大陸書房、1972年)で最初に提唱したもので、この段階では「古典四書」「古伝三書」「古史三書」とされていたが、著書『日本超古代秘史資料』(新人物往来社、1976年)では、「古典四書」「古伝四書」「古史四書」「異録四書」に発展した。初期の頃の吾郷清彦は「超古代文書」という言い方を好み、「古史古伝」とは言わなかった。あくまで分類上の用語として「古伝四書」とか「古史四書」といっていたものである。1980年代以降、佐治芳彦[3]がこれをくっつけて「古史古伝」と言い出したのが始まりである。

下記の分類は前述の『日本超古代秘史資料』を基本としているが、その後、他の文献写本が発見されるに従って吾郷清彦自身によって徐々に改訂が繰り返され増殖していった。その分として若干の補足を加えてある。

吾郷清彦による分類
古典四書
『古事記』
『日本書紀』
『先代旧事本紀』(旧事紀)
『古語拾遺』
『古語拾遺』を除いて「古典三書」ともいう。この「古典四書」(または古典三書)という分類は、異端としての超古代文書に対して正統な神典としての比較対象のための便宜的な分類であり、「古典四書」はいわゆる超古代文書(古史古伝)ではなく、通常の「神典」から代表的・基本的な四書を出したもので、実質は神典の言い替えである(神典の範囲をどう定めるかは古来諸説があるがこの四書に加えて『万葉集』『古風土記』『新撰姓氏録』などをも含むことが多い)。

しかし『先代旧事本紀』は江戸時代以来、偽書であるとの評価が一般的であり、当然、吾郷清彦も最初からそれを認識していた。しかしまた同時に、通説と同様に、その価値を全面否定はせず、記紀に次ぐ重要な「神典」とみなされてきた事実には変わりないと(記紀ほどではないが)評価もされていた。

同様に『天書』(『天書紀』ともいう)・『日本総国風土記』・『前々太平記』の三書を異端古代史書として古史古伝と同様に扱おうとする説(田中勝也など)もあるが、このうち『天書』は古史古伝の類とはいえず、他の二書も超古代文書というほどの内容をもっているわけではない。

『先代旧事本紀』または『天書』と似たような位置にある史書として『住吉大社神代記』がある。天平年間成立とされているが平安時代中期頃の偽書と考えられている。『神道五部書』は、奈良時代以前の成立とされているが鎌倉時代の偽書と考えられている。『神道五部書』は直接には古史古伝ではないが、そのうちの『倭姫命世記』と『神祇譜伝図記』に神代の治世の年代が記されており、これが古史古伝の幾つかにあるウガヤフキアエズ王朝と同質の発想があるという指摘がある[4]。

通常の古代史書が、解釈によって古史古伝と同様の内容があるとされる場合もある。吉田大洋は『古事記』がシュメール語で読めると主張したが、その解釈には超古代史的な内容もある[5][6]。高橋良典は『新撰姓氏録』を超古代史書として解釈している[7]。これらは吉田大洋や高橋良典の解釈説の内容が超古代史と言うことであり、本文そのものが超古代史なわけではない。

古伝四書
『ウエツフミ』(大友文書、大友文献ともいう[8])
『ホツマツタヱ』(※漢字ではなくカナ書きするのが吾郷の流儀)
『ミカサフミ』
『カタカムナのウタヒ』(いわゆる「カタカムナ」)
「カタカムナ」を除いて「古伝三書」ともいう。

この「古伝四書」は全文が神代文字で書かれているという外見上の体裁による分類であって、内容に基づく分類ではない。

また、『フトマニ』という書がある。この『フトマニ』は普通名詞の太占(ふとまに)と紛らわしいので吾郷は『カンヲシデモトウラツタヱ』(神璽基兆伝)と名付けた。『フトマニ』『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』の三書は世界観を同じくする同一体系内の一連の書であり「ホツマ系文書」と呼ばれ、一部の肯定派の研究者からは「ヲシテ文献」と一括して呼ばれる。

なお、カタカムナに関係する『神名比備軌』(かむなひびき)や『間之統示』(まのすべし)という漢字文献も「カタカムナ系の文献」として一括できるが、これらカタカムナを含むカタカムナ系の諸文献は「歴史書」ではない。「超古代文書=古史古伝」は、このように歴史書以外をも含む幅広い概念となっている。

古史四書
「九鬼神伝精史」(いわゆる「九鬼文書」。『天津鞴韜秘文』(あまつたたらのひふみ)は九鬼文書群の一部である)
「竹内太古史」(いわゆる「竹内文献」。「天津教文書」「磯原文書」ともいう)
「富士高天原朝史」(いわゆる「富士谷文書」(ふじやもんじょ)。「宮下文書」「富士宮下古文献」ともいう)
「物部秘史」(いわゆる「物部文書」)
「物部秘史』を除いて「古史三書」ともいう。

「古史四書」は神代文字をも伝えてはいるものの、本文は漢字のみまたは漢字仮名まじり文で書かれたもの。やはり内容による分類ではない。上記のタイトル(九鬼神伝精史・竹内太古史・富士高天原朝史・物部秘史)は吾郷清彦が独自に名付けたものである。九鬼文書と富士文書は複数の書物の集合体であって全体のタイトルがなかったことによる[9]。

竹内文書、大友文書、富士文書を三大奇書ともいう[10]。

異録四書
『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)。いわゆる「和田家文書」の一つ[11]。
『但馬故事記』(たじまこじき。「但馬国司文書」とも。但馬故事記は本来は但馬国司文書の中の代表的な書物の名)
『忍日伝天孫記』(おしひのつたえてんそんき)
『神道原典』(しんとうげんてん)
『神道原典』を除いて「異録三書」ともいう。

「異録四書」は古伝四書や古史四書に含まれないものをひとまとめにしたもので、いわゆる「その他」の枠であり、古伝四書・古史四書のように四書全体に通じる共通の特徴があるわけではない。

『忍日伝天孫記』と『神道原典』は古文書・古文献ではなく、前者は自動書記、後者は霊界往来による霊感の書である。このように吾郷清彦の「古史古伝」(超古代文書)という概念は「古代から伝わった書物」という意味だけでなく、「自動書記などの霊感によって超古代の情報をもたらす現代の書」まで含む幅広い概念である[12]。吾郷は上記の他にも、超古代文書として『異称日本伝』・『神伝上代天皇紀』・「春日文書」を取り上げているが、このうち『異称日本伝』は松下見林による江戸時代の有名な著作であり、超古代文献とはいえないものであることは、後述の『香山宝巻』と同様である。また「春日文書」は言霊(ことだま)関係の文献[13]であり歴史書ではないが、古史古伝には歴史書以外も含みうるのは、上述のカタカムナの場合と同じである。

吾郷清彦による分類の発展
東亜四書
『契丹古伝』(『神頌叙伝』ともいう)
『桓檀古記』
『香山宝巻』
『宝巻変文類』
『宝巻変文類』を除いて東亜三書ともいう。

吾郷は「新しき世界へ」誌(日本CI協会刊)に寄稿した際「東亜四書」という項目を追加している。

構想段階では『香山宝巻』『宝巻変文類』がなく『竹書紀年』『穆天子伝』だったが、この両書を古史古伝だというのは無理があり、後の著作では『竹書紀年』『穆天子伝』をはずし『香山宝巻』『宝巻変文類』を入れた形で発表されている。しかし『香山宝巻』『宝巻変文類』は世間的には有名ではなかったが専門家の世界ではもとから知られたものであり、超古代史文書に入れるのは異論もある。ほかに東アジアに関連するものとして『山海経』『封神演義』をあげる論者もいるが、『山海経』は古来有名な古典であり、一方『封神演義』は小説であり、いくら内容が面白いからといってもこの両書を古史古伝というのは無理がある。それよりも『契丹古伝』や『桓檀古記』とならぶべき超古代文書といえば『南淵書』があげられる。また『桓檀古記』は『揆園史話』や『檀奇古史』などの同系の書物とともに「檀君系文献群」として一括してよぶことができる。

泰西四書
『オエラ・リンダの書』(『オエラリンダ年代記』ともいう)[14][15]
『Oahspe: A New Bible』:オアフスペ、オアースプ等いろいろに読まれる。1882年出版。
『モルモン経』
「アカーシャ年代記」(「アカシックレコード」ともいう[16])
「アカーシャ年代記」を除いて泰西三書ともいう。

他にジェームズ・チャーチワードが実在を主張した「ナーカル碑文(Naacal)」、ヘレナ・P・ブラヴァツキーが実在を主張した『ドゥジャーンの書』、「エメラルド・タブレット」、「トートの書」等がある。また『ネクロノミコン』は当初から小説の中の存在として発表されたが、実在と信じる人にとっては超古代文書の一種である。

『OAHSPE』はアメリカ人の歯医者John Ballou Newbroughが自動書記で書いたとされており、「アカーシャ年代記」は不可視界の存在であるとされ、どちらも古文書ではない。他にアメリカ人リバイ・ドーリングがアカシックレコードを読んで書いたというキリストの前半生の物語『宝瓶宮福音書』(1908年)も古史古伝に入れられている。

地方四書
『甲斐古蹟考』
「阿蘇幣立神社文書」(「高天原動乱の秘録」ともいう)
『美しの杜物語』(研究者の間では『大御食神社神代文字社伝記』とよばれることが多い。また『美杜神字録』ともいう[17]。『美しの杜物語』は吾郷の命名である[18]。)
『真清探當證』(ますみたんとうしょう)
『真清探當證』を除いて地方三書ともいう。

『美しの杜物語』は神代文字で書かれているが、吾郷はその件については特にふれていない。『美しの杜物語』のように地方色豊かなものとして原田はさらに『伊未自由来記』(いみじ・ゆらいき)・『肯搆泉達録』(かんかんせんだつろく)[注釈 1]・「守矢家文書」・「松野連系図」をあげている。

秘匿四書
「斎部文書」
「清原文書」
「久米文書」
「大伴文書」[19]
「大伴文書」を除いて秘匿三書ともいう。

上記の四書は未確認文献である。これらのうち「大伴文書」については、熊野修験道の秘伝書という「天津蹈鞴秘文」を伝承していた高松壽嗣がその一部を大伴氏の所伝とみなし「大伴文書」と呼んでいたという。したがって「大伴文書」は実在するものの、その中には超古代史を思わせるような伝承(例えばウガヤフキアヘズ朝など)は特に見出せない。

これら四書よりはいくらか知名度のあったものとして「安倍文書」がある。戦前からの研究者である山根キクや大野一郎らによって、安倍文献もまた神代文字を伝えているとか竹内文献と共通する内容があるとかウガヤフキアヘズ朝についての記述があるとか、様々な説が広がっていた。また安倍ではなく「安部」または「阿部」とする説もあった。「安部文書」とする説ならば実在するものの、原田実・森克明編の「古史古伝事典」(別冊歴史読本編集部編『古史古伝の謎』所収)によると「安部文書」で現在までに見つかっているのは安部家の系図や寺社縁起のみであって、その中に神代伝承は見いだせない。「阿部文献」とする説では、三浦一郎が『九鬼文書の研究』の中で、また宇佐美景堂は『命根石物語』の中で、ともに豊後の阿部家に伝わる古代文字文献について述べており、神武以前の天皇名などを伝えている個所があると主張していた。

一覧
本項ででてきた書物のタイトル一覧。五十音順。

古史古伝
「アカーシャ年代記」(「アカシックレコード」ともいう)
「阿蘇幣立神社文書」(「高天原動乱の秘録」ともいう)
「安倍文書」(安倍とは別に「安部文書」や「阿部文献」も存在する)
『異称日本伝』(これを古史古伝に加えるのは異論もあるが、本項の中では吾郷の判定に従う)
『伊未自由来記』(いみじ・ゆらいき)
「斎部文書」(いんべもんじょ)
『ウエツフミ』(「大友文書」「大友文献」ともいう)
『ウラ・リンダの書』(『ウラ・リンダ年代記』ともいう)
「エメラルド・タブレット」
『OAHSPE』(オアフスペ、オアースプ等いろいろに読まれる)
「大伴文献」
『美しの杜物語』(『大御食神社神代文字社伝記』『美社神字録』ともいう)
『忍日伝天孫記』(おしひのつたえてんそんき)
『甲斐古蹟考』
「春日文書」
カタカムナ系文書群
『カタカムナのウタヒ』
『神名比備軌』(かむなひびき)
『間之統示』(まのすべし)
『肯搆泉達録』
『契丹古伝』(『神頌叙伝』ともいう)
「清原文書」
「九鬼神伝精史」(いわゆる「九鬼文書」)
「久米文書」
『香山宝巻』(これを古史古伝に加えるのは異論もあるが本項の中では吾郷の判定に従う)
『神伝上代天皇紀』
『神道原典』(しんとうげんてん)
「竹内太古史」(いわゆる「竹内文献」。「天津教文書」「磯原文書」ともいう)
『但馬故事記』(たじまこじき。「但馬国司文書」ともいう)
檀君系文書群
『檀奇古史』
『桓檀古記』
『揆園史話』
『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし。「和田家文書」ともいう)
「トートの書」
『ドゥジャーンの書』
「ナーカル碑文(聖なる霊感の書)」
『南淵書』
「富士高天原朝史」(いわゆる「富士谷文書」。「宮下文書」「富士宮下古文献」ともいう)
『宝巻変文類』(これを古史古伝に加えるのは異論もあるが本項の中では吾郷の判定に従う)
『宝瓶宮福音書』
ホツマ系文書群(ヲシテ文献)
『ホツマツタヱ』(※古伝四書として書く場合はタイトル仮名書き)
『ミカサフミ』
『カンオシデモトウラツタヱ』(神璽基兆伝)
『真清探當證』
「松野連系図」
「物部秘史」(いわゆる「物部文書」)
「守矢家文書」
『モルモン経』
神典
『古事記』
『古語拾遺』
『新撰姓氏録』
『先代旧事本紀』(十巻本)
『日本書紀』
『古風土記』
『万葉集』
『住吉大社神代記』
それ以外
『山海経』
『前々太平記』
『天書』(『天書紀』ともいう)
『神道五部書』
『竹書紀年』
『日本総国風土記』
『穆天子伝』
『封神演義』
脚注
^ 原田実著「トンデモ偽史の世界」(楽工社 2008年9月) 終章「現代日本の偽史運動」
^ ムー1985年11月号 麻原彰晃「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」
^ “佐治芳彦 | 人名事典 | お楽しみ | PHP研究所”. www.php.co.jp. 2022年6月24日閲覧。
^ 歴史読本1988年11月号 特集「消された歴史書「古史古伝」」所収 菅田正昭「「神道五部書」にみる古史古伝の成立事情」
^ 吉田大洋著「謎の出雲帝国」(徳間書店 1980年5月)
^ 歴史読本1988年11月号 特集「消された歴史書「古史古伝」」所収 吉田大洋「「古事記」はシュメール語で書かれた」
^ 高橋良典著「謎の新撰姓氏録」(徳間書店 1980年2月)
^ 『ウエツフミ』には宗像本と大友本があるが、「大友文書」という言い方はそのうち大友本をさすというのではなくて、編者の大友能直の名をとったものであり宗像本と大友本を包括する名である。しかし「大友本」と紛らわしいのであまり使われなくなった。
^ ただし富士書についてはその中のもっとも主筋のまとまった書物である『開闢神代暦代記』をもって全体を代表させることがある。また竹内文献だけは「神躰神名天皇名宝ノ巻」(たましいたまのしかみのみなすみらみことなたからのまき)という表題がついている。物部文書については不詳である。
^ 鈴木貞一などがこの三書を「三大奇書」といっている。戦後、知名度において劣っていたホツマツタヱや九鬼文書などを吾郷が積極的に取り上げるまでは、超古代史を語る歴史書としてはこの三書が群を抜いて有名だったことによる。
^ 吾郷がこの著書を著した頃には『東日流外三郡誌』以外の和田家文書は知られていなかった。
^ 吾郷は古神道の研究家でもあったので、晩年には、古史古伝とはあくまで別枠としてだが『霊界物語』『泥海古記』『神霊正典』『日月神示』を「霊示四書」と呼んでいた。
^ 晩年の吾郷は「言霊四書」のリストも考案していた。
^ 自身を由緒正しい古フリーズ貴族の末裔に違いないと信じていた大工コルネリウス・オヴェル・デ・リンデが偽造した、先史時代までさかのぼる年代記。フリーズ人はキリスト教以前に独自の一神教を持つとし、万物創造の唯一神ヴラルダを讃え、ザクセン人やフランク人を見下しフリーズ人の優越性を説く。1872年にオランダで出版され、偽造であるとばれて事件は終わっていたが、ナチズムの台頭の中、1933年にドイツの先史学者ヘルマン・ヴィルトがユダヤによる旧約聖書以前の本物の古文書であると主張し、北方人種の栄光ある過去を創造する道具として利用しようとした。種村季弘「偽物創始」『偽書作家列伝』学習研究社、2001年
^ ヘレナ・P・ブラヴァツキーの神智学における根源人種論の元とも言われ、ニューエイジにも影響がある。
^ ルドルフ・シュタイナーの著作『アカシャ年代記より』のこととは限らない。『アカシャ年代記より』の著述の元になったもので、目に見えないがすべての過去の事実の跡が虚空(アーカーシャ)に刻まれて記録されており、特定の能力のある者がそれを読み取ることができるという。ただし「アカーシャ年代記」(=アカシックレコード)そのものは現界に書物として存在しているわけではなく、吾郷がここで言っているアカーシャ年代記(実際に文章化された書物)とは事実上ルドルフ・シュタイナーの著作を指している。しかし吾郷は、シュタイナーの著作の内容とは無関係にアカシック・レコードという言葉が使われることや、アカシック・レコードだと称されるものの内容が霊視する人間によって大きく変わってしまうことも認識していたため、あまりアカシック・レコードという言葉は使っていない。八幡書店の用語では、アカシック・レコードに相当する概念として九鬼文書の「天地言文(アメチコトフミ)」や荒深神道の「天津古世見(あまつこよみ)」があげられており、吾郷もそのような既存の和風の用語を援用・流用することを構想していた。
^ 『美杜神字録』は出版物でもサイト上でも美杜神字解とするものがあるが『美杜神字"解"』は落合直澄による著作(解読文)であり、原書のほうは美杜神字"録"である。
^ このタイトルは吾郷の昭和42年に著した解説書のタイトルでもある。
^ 『ウエツフミ』の別名である「大友文書」とは無関係。
注釈
^ ただし由来記・泉達録共に実際に地元(隠岐島・越中)の神社に祀られている地方固有の神々を登場させている。
参考文献
吾郷清彦 『日本超古代秘史資料』新人物往来社、1976年。
(上記の復刊版)『日本超古代秘史研究原典 (愛蔵保存版)』大陸書房 ISBN 440402472X
吾郷清彦 『古事記以前の書』大陸書房、1972年。
藤原明『日本の偽書』ISBN 4166603795
原田実『古史古伝論争とは何だったのか』・新人物往来社『歴史読本』2009年8月号
原田実『『古史古伝』異端の神々』ビイングネットプレス、2006年
田中勝也『異端古代史書の謎』大和書房、1986年。
歴史読本1988年11月号 特集「消された歴史書「古史古伝」
別冊歴史読本編集部編 『「古史古伝」論争』
(上記の再編復刊)『古史古伝の謎』 ISBN 4404024010
別冊歴史読本編集部編 『危険な歴史書「古史古伝」―“偽書”と“超古代史”の妖しい魔力に迫る!』 ISBN 4404027540
別冊歴史読本編集部編 『徹底検証 古史古伝と偽書の謎』 ISBN 4404030770
佐治芳彦『古史古伝入門―正史に埋もれた怨念の歴史 (トクマブックス)』徳間書店 新書 - 1988/10 ISBN 4195037557

 

 

 

斎藤考

「斎藤」という名字のルーツについて考えるサイトです。私の一風変わった先祖調査を通して、いろいろと調べてみます。
また全国の斎藤さんで、先祖について何か御由緒をお持ちの方、いろいろ教えて頂けますでしょうか。

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『荒脛巾(アラハバキ)神』「アメノウズメ」と「大宮姫」との関係について
『荒脛巾(アラハバキ)神』「少名彦神」の謎と「八束脛」
『荒脛巾(アラハバキ)神』「天孫族」と「鉄の道(アイアンロード)」
2022-06-17 00:38:12

テーマ:八咫烏
前回からの続きです。





『『荒脛巾(アラハバキ)神』「少名彦神」の謎と「八束脛」』
前回からの続きです。『『荒脛巾(アラハバキ)神』八咫烏の系譜、少名彦神(スクナヒコ)とカモ族 』前回からの続きです。『『荒脛巾(アラハバキ)神』天より降臨した…
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前回は



・『異名同神』

・『八束脛(ヤツカハギ)』





について、みてきました。



『異名同神』とは

「名前は異なるが同じ神である」





ということであり







大化の改新以前には、人・神について

「同人(同神)異名」・「異人(異神)同名」という

古代特有ともいうべき、WHO(誰か)の問題がある。



古代氏族の研究⑥ 

『息長氏 大王を輩出した鍛冶氏族』より

 (宝賀寿男氏 著)







 

古代氏族研究家

宝賀寿男氏は、そのように述べ





その顕著な例として

きわめて多くの別名を持つ神



『少名彦神(スクナヒコナ)』を挙げられます。






歌川国芳『日本国開闢由来記』巻一

『wikipedia』より

少彦名命 Sukunahikona no mikoto 日本国開闢由来記 



少彦名命、宿奈毘古那命、須久那美迦微、須久奈比古、少日子根命、小比古尼命、小彦命、小日子命、小名牟遅神、久斯神、少名彦命、天少彦根命 など
(きわめて多くの別名を持ちます)





「スクナヒコナ」とは、体躯の小さい神で

一寸法師のモデルとも言われています。



海の彼方より、出雲の海岸に来訪して






『古事記』では、「大国主(おおくにぬし)」

『日本書紀』では、「大己貴命(おお(ほ)あなむち)」






そらぞれと、義兄弟の関係になり

協力して出雲の国造りに、あたったと

伝承され



やがて、スクナヒコナは



「粟(あわ)」の茎に弾かれて

「常世(とこよ)の国」に飛び去ると

 記述されています。


『常世の国』とは、東方・辰巳の方角
海の彼方にある一種の理想郷。
沖縄の『ニライカナイ』に通じるイメージです。






スクナヒコナが飛び去った後に

大国主が、これからの国造りを

自分一人でいったいどうすれば良いのか

嘆く姿が『古事記』に描かれており



スクナヒコナがいかに重要な役割を

果たしたかが、わかります。



スクナヒコナを祀る神社は、全国に分布し





『大洗磯先神社(おおあらいいそさきじんじゃ)』

 (茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890)

 ・主祭神 大己貴命 (おおなむちのみこと)

 ・配祀神 少彦名命 (すくなひこなのみこと)

『wikipedia』大洗磯前神社 神磯鳥居.JPGより 






神磯の鳥居、祭神の降臨地と伝わります。







その一方で、平安時代に編纂された

(京・畿内の)氏族の系譜を記した

『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には



その名前すら見えません。



ですが、宝賀氏が指摘されるには

じつは『別名』で、多く登場しており



それらが同神と認識され難いから

この神の重要性はあまり認識されない。



しかし、このスクナヒコナの後裔諸族は

列島内に広く分布し、重要な職掌を担い







その具体的な系譜が解明されれば

「わが国上古史を書き換えるのでは

ないかとさえ思われる。」



とまで、記します。



また、続けて宝賀氏は

先ほど述べた、スクナヒコナが

「常世の国に飛び去る」という神話の記述は





 当初、九州に渡来したスクナヒコナ諸族が

出雲に至り、大国主(大己貴命)を奉祭する海人族とある時期に関係性をもち、やがてスクナヒコナ諸族が(後裔諸氏の所伝から考えると)畿内方面に移遷した喩えかとみられる。






このように、説かれます。



この天孫族のもつ移動性は

一つのポイントだと思います。



またその他に、天孫族の特徴をとして

以下の点を挙げられています。


 


・「鳥トーテミズム」

・「太陽神祭祀」

・「鉄鍛冶技術」

・「石神」、「巨石」への信仰

・「殉葬習俗」


 



ところで、世界で初めて

鉄の大量生産に成功したのは





騎馬民族・ヒッタイト人が興した

現在のトルコ・アナトリア地方に栄えた

「ヒッタイト帝国」とされます。




『ヒッタイト帝国遺跡』ライオン門



『wikipedia』Lion Gate, Hattusa 01より 



しかし、2017年に日本の調査団が

トルコ中部のヒッタイト遺跡において

紀元前2200~2300年頃という



ヒッタイト帝国勃興より

はるか以前の地層から




世界最古の人工鉄の塊を発見し、この為に

人類の製鉄起源が、大幅に遡る可能性が

出てきました。



鉄の成分も、この地域の鉄鉱石とは

異なるようで


ヒッタイト人が別の民族から、製鉄技術を

受け継いだ可能性も出てきました。





余談ですが、妻がとても好きな漫画に

ヒッタイト帝国を舞台にした漫画



「天は赤い河のほとり」(小学館 篠原千絵 著)



があり、読み(まされ)ました。





「身分ってのは上の者が下の者を守るために

 あるんじゃないの!?」



という、主人公の言葉が印象的でした。

まったくその通りだと思います。


 



やがて、紀元前12世紀に

ヒッタイト帝国が忽然と姿を消すと



その鉄鍛冶技術は世界に拡散し



同じ騎馬民族・スキタイ人に伝播し









『パジリク古墳群出土の壁掛けに描かれた騎馬像』

 『wikipedia』File:PazyrikHorseman.JPG







黒海北岸、『トヴスタ=モヒーラ古墳』から

出土した女性の胸飾り

『wikipedia』File:Фрагменты Пекторали.jpg 




精緻な細工を施された黄金製品が

彼らの技術の高さを物語ります。









シルクロードの北側

ユーラシアの森林地帯に沿って

(鉄鍛冶には、炉を燃やすための

「森林資源」が不可欠であり)





『ユーラシア・ステップ』
『wikipedia』Eurasian steppe belt.jpg 




この長大な領域と馬を利用することによって
起きた『移動革命』は、不可分の関係だと思います。
また地球は「球体」なので、緯度が上がれば

横の移動距離は、赤道付近より短くなります。







彼らスキタイによって

はからずも同じ緯度に沿って



ユーラシア東部へと鉄鍛冶技術が

運ばれます。



その伝播の道は



「アイアンロード(鉄の道)」



と呼ばれ


おそらく、その道は

日本にもつながっているでしょう。



『稲荷山古墳出土鉄剣』
(いなりやまこふんしゅつどてっけん)






埼玉県、埼玉古墳群より出土した国宝。

115の文字が刻まれた、有名な「鉄剣」です。

文字部分は、金で造形されています。

博物館の方は、5世紀の文字が刻まれた

疑いようのない「(明確な)文献」が出土した。

古代の歴史を知る上で、絶大な価値があると

語られていました。





日本は脊梁山脈が通り

降水量が多く、森林資源が豊かで

火山性由来の(砂)鉄資源の豊富な国です。







そして技術が運ばれるということは

当然、その担い手である人の移動も伴います。



鉄鍛冶とともに

その技術をもった人びと(子孫)が来着し



おそらくはその際に

「馬」と、その「馬術」周辺も

伝わったのでしょう。




『埼玉古墳群・将軍山古墳』





レプリカ像は、サラブレッドのような大型種ですが

当時の馬は、実際には木曽馬のような小型種です。









馬を操る「馬銜(はみ)」は

ユーラシア草原地帯の遊牧民の発明品と

いわれます。



現在、発掘によって



中央アジアの僻地とされた場所に

巨大な「鉄の国」があったことが

判明しつつあります。



そこには「王家の谷」ともいえる



40基以上の古墳(クルガン)が

密集する地帯があります。



『クルガン(кургáн, kurgan)』

ユーラシア大陸中緯度、ステップ帯に分布します。

『wikipedia』Cmentarzysko Jacwingow, Suwalszczyzna 





 

『鉄』は











・青銅の鎧や剣を砕く強靭な「剣」や「矢」であり


・農耕生産を飛躍的に増大させる

荒れ地を掘り起こす農耕具「鋤(スキ)」であり


・かつて金の8倍、銀の40倍の価値を

持つといわれた「交易品」、富の源泉であり



 



「鉄」鍛冶技術とは、国を勃興させる

強力な「手段」となるのではないでしょうか。




じっさいに

ヒッタイト帝国は、鉄の威力をもって



当時の超大国エジプトの侵攻を

退けています。





『wikipedia』All Gizah Pyramids.jpg 




この鉄鍛冶技術をもつのが

「天孫族」である




・日本列島に広範に分布した

 「スクナヒコナ」諸族


・剣神を奉祭する「物部(モノノベ)」氏






などであり



宝賀氏が「製鉄神」といわれる神に



「天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)」



があります。



神名にある「目一」とは

片目の比喩で、『片目の神』とされます。

(また、ギリシャ神話に登場する単眼の巨人

『キュクロープス』は、鍛冶技術をもつ神です。)



『wikipedia』Libr0328 





この「片目」とは、どういうことかというと



火の勢い・火の色から

製鉄炉内の温度を読み取るために

一方の目を閉じ、片目で炉の火を見ること







もしくは、炉の火を恒常的に見ることで

片目の視力を失う、鍛冶の職業病の比喩と

いわれます。




宝賀氏は、この「天目一箇神」の別名を

「天津魔羅(あまつまら)」などとし



さらには



「経津主神(フツヌシノカミ)」とします。

(そして、その息子が

「饒速日命(ニギハヤヒ)」とするのが妥当で

母は「山祇族」系紀伊国造族の出か、とも。)



『七支刀(しちしとう)』
『wikipedia』Seven-Branched Sword.jpg 

「石上神宮(いそのかみじんぐう)」
(奈良県天理市布留町384) に伝わる鉄剣。




経津主命は、「剣」の神であり

物部氏の遠祖神です。




それにしても



・「騎馬民族」

・「鉄鍛冶技術」




この二つの親和性は、何に起因するのか。



妻と話していたところ

妻曰く「荒野の風」を知っていた









そして「風」求めて「移動」したからでは

ないかとのこと。







「野たたら」ということでしょうか。





実際に、ヒッタイトの町のほとんどが

山ぎわにあり、山の斜面に製鉄の痕跡が

見つかっています。



製鉄において、重要なことは

炉の温度を長時間高温に保つことであり





製鉄炉に風を送る

「ふいご」が発明される以前は





たたら製鉄、踏み鞴(ふいご)による送風作業
『wikipedia』Japanischer Tatara-Ofen mit 




映画『もののけ姫』でも
この踏み鞴による、たたら製鉄の場面が出てきますね










厳しい自然環境の中で、自然風を利用して

いたのでしょう。ビル風のようなものですね。



そう考えると

群馬県の冬期にみられる、強烈な



『wikipedia』MountAkagi 





「上州空っ風(からっかぜ)」

(別名「赤城おろし」)は



野たたらに最適な環境では

あると思いました。




目が開けられないくらい

強烈な風らしいです。



 


『コトバンク』より

『野だたら』(読み)のだたら

(世界大百科事典内の野だたらの言及)


[民俗]

たたら製鉄は初め採鉄などの適地を求め,露天で自然の通風を利用して銑鉄を得るという形で行われ,野だたらといわれたように移動性,漂泊性の強い集団であった。それがしだいに高殿と記される炉をもった作業施設がつくられ,定着するようになった。…


 



今回、最後に私の先祖の居住した

群馬県吉井町の歴史について



『天孫族・スクナヒコナ』諸族という

視点から、少し書かせて頂きたいと

思います。



『玉(たま)』がテーマです。





宝賀寿男氏は

製鉄技術を携えた『天孫族』

『スクナヒコナ』諸族として





『鴨(カモ)族』のほかに



・『伊豆国造』

・『知々夫(秩父)国造』

・『忌部』氏

 (祖神「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」)

・『三島県主』

・『鳥取』氏



などを挙げられます。





『知々夫国造』を挙げられていることに

とても驚いたのですが





・『三峰神社』
 (埼玉県秩父市三峰298-1)







宝賀氏は、埼玉古墳古墳群は

地理的に考えて、武蔵国造ではなく



知々夫国造が領域としていた可能性が高い



とします。





武蔵国造の領域には、同国が奉祭する

氷川神社が荒川流域に多く分布しますが





埼玉古墳群周辺の元荒川流域には

『久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)』が

多く分布し




・『玉敷神社(たましきじんじゃ)』
      (埼玉県加須市騎西552)

『wikipedia』Tamashiki-jinja 




元荒川流域の「久伊豆神社」の総本社的存在で

かつて、『玉敷神社(たましきじんじゃ)』と

呼ばれていました。









そもそも、武蔵国造と信仰圏を異にし

社名に『伊豆』が

あることも興味深いと思います。

(※宝賀氏は「伊豆国造」は、スクナヒコナ諸族と

指摘されます。)







また埼玉古墳群で既に発掘された

石槨(せっかく)の蓋石は、殆どが秩父青石

とも書かれます。











埼玉古墳群のある行田市一帯は

「のぼうの城」で有名な『成田』氏が

勢力を持っていました。



『wikipedia』Oshi-jo 





この成田氏については

埼玉県郷土史家・茂木和平氏が

もっとも力を入れて調べられた

氏族の一つで





成田氏は、『羊(ひつじ)族』であり

本名は『小野里(おのさと)』と言われます。





埼玉苗字辞典・第5巻 関東甲信越』が刊行され

朝日新聞に紹介されました。



 『埼玉苗字辞典』メディア掲載



私の師に当たります。





また、宝賀寿男氏は



行田市一帯を支配した成田一族は

その祭祀から考えて、伊豆や少名彦神後裔の

色彩が濃いと指摘し







古代氏族の研究③

『阿倍氏』四道将軍の後裔たち (宝賀寿男 著)より



古埼玉古墳群の中にある

式内社・『前玉(さきたま)神社』





この神社の祭神

「サキタマヒメ(前玉比売)」が



伊豆国賀茂郡の式内社

『佐伎多麻比咩命神社』でも祀られ



三島大神の妃神という

位置にいることに注目され



地元の『行田市史』(1963年刊)の執筆者

山口平八氏も埼玉古墳群が

知々夫国造奥津城だという説を主張していると



書かれます。







『前玉(サキタマ)』は






「埼玉(さいたま)」の地名由来と

なったともいわれますが

『玉』がとても重要な意味を

持つようです。

(刀の原料となる、砂鉄から生産される最上質の鋼を

「玉鋼(たまはがね)」といいます。

そこにヒントの一つがあるようにも思えます。)







そして『スクナヒコナ』諸族とも

関係するのではないでしょうか。





群馬県吉井町・埼玉県秩父一帯には



『羊太夫(ひつじだゆう・ようだゆう)』

伝承が残り、羊太夫の事績を記したとされる



ユネスコ、世界の記憶に指定された

『多胡碑(たごひ)』のある字「池」に





『大宮神社』があり

(群馬県高崎市吉井町大字池1226)





『上野国神名帳の研究』では
この「大宮神社」について


『上野国神名帳』多胡郡に見える

「正五位上郡御玉明神」は、御門鎮座の大宮神社に

比定できよう。







『御玉明神』に比定できる、と記します。







私は、この神社名にある「大宮」は



「多胡郡衙」~かつて

多胡郡の「宮」があったことに





由来するのではと思っていましたが





宝賀寿男氏は、この「大宮」は





女性の御食津神「豊受大神(とようけおおかみ)」

の別名『大宮売(おおみやめ)』に通じる

(酒・食物や織物・養蚕の神でもあります)





と唱えられます。



また他に

・『新撰姓氏録』に、酒の神は

 「宮能売(みやのめ)神」として見えます。





群馬郡桃井郷の総鎮守としても

大宮神社(北群馬郡榛東村長岡)があります。



『越と出雲の夜明け』より

(-日本海沿岸地域の創世史-) 宝賀寿男 著







吉井町の「大宮神社」の現在の祭神は

(『吉井町誌』より)



・「天宇受売命(アメノウズメ)」

・「建御名方命(タケミナカタ)」

・「猿田昆古命(サルタヒコノミコト)」

・「伊邪那美命(イザナミ)」

・「須佐之男命(スサノオ)」





絹笠神社、熊野神社、諏訪神社、八坂神社、石神社

この五社を合併祀しているので、本来の祭神は

不明ですが、「多胡碑」とともに地元の人びとに

「羊さま」と呼ばれ、厚い崇敬を受けてきました。

筆頭に「アメノウズメ」、女性神が記されることは

興味深いです。





本来の祭神は

鎮座地の字(あざ)・「大宮」にある通り



「大宮売」ではないでしょうか。



宝賀氏は、「豊受大神(大宮売)」は



「瀬織津姫(せおりつひめ)」に通じると

しています。(「織」は、織物の神格を示唆します)







私は、群馬県吉井町には



・天孫族『スクナヒコナ』諸族

・土着の縄文の民『山祇族』





この二つの『族』の混淆がみられ

その融合の中でも、比較的

縄文の色彩が強かったと考えています。





この「大宮神社」にかつて祀られていた

『女神』とは、当ブログで『月』を

テーマに書いてきた

『大地母神』的な存在で





世界の生成、生と死、すべてを統括する

永遠に循環する『円環の女神』であった。





そんな想像をしています。





続きます。