【対B-29総集編】日本の空を守ったパイロット4選【ずん | 覚書き

覚書き

ブログの説明を入力します。

 

 

 

・遠藤 幸男

(えんどう さちお[1][2], 1915年9月9日 - 1945年1月14日)は大日本帝国海軍の軍人、最終階級は中佐(没後進級)。

海軍飛行予科練習生(予科練)の第1期生として日本海軍に入り、海軍航空の道を歩む。太平洋戦争では、前期から中期にかけては当初は遠距離戦闘機として開発された「月光」の開発と改修に参加し、ラバウルに進出後は「月光」を駆使して迎撃戦に活躍。日本本土に帰還後は第三〇二海軍航空隊に所属し、日本本土空襲で来襲するB-29迎撃で奮闘したが、名古屋空襲の迎撃戦で戦死した[3]。B-29撃墜破数16機[4][5][注釈 1][6][7](うち撃墜は公認8機[8][9][注釈 2][3])を記録して「B-29撃墜王」と呼ばれて国民的英雄となった[10]。予科練出身で中佐まで進級した唯一の人物でもある[11]。

 

・黒鳥 四朗

(くろとり しろう、1923年(大正12年)2月 - 2012年(平成24年)2月4日 )は、大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員(偵察員・銃手)。夜間戦闘機(丙戦)月光に搭乗し、倉本十三飛曹長(操縦士)とのペアで本土防空戦を戦い、B-29を6機撃墜した。最終階級は海軍中尉。

経歴
東京高等農林学校(現在の東京農工大学農学部)に在学中、航空機メーカーでの木材の研究を志し、川西航空機株式会社に就職が決まったが、海軍への志願により辞退(休職扱い)。

1943年(昭和18年)9月10日、土浦航空隊へ飛行科予備学生として入隊。2ヶ月の基礎教育を受ける。同11月29日、鈴鹿航空隊へ偵察員として配属される。偵察専修教程を学ぶ。教程の終了頃に、偵察員の中で実際に敵機を追い、攻撃できる機種は夜間戦闘機しかなかったため、夜間戦闘機を熱望した。

1944年5月、少尉に任官。横須賀航空隊の第一飛行隊第十三分隊に夜間戦闘機搭乗員として配属された。ラバウル帰りの工藤重敏飛曹長らに教えを乞い、その後席で偵察員としての技量を磨いていった。夜間戦闘機「月光」は、前席が操縦や銃撃を行う操縦手、後席に偵察や航法を担当する偵察員が座る。1944年の秋から初冬にかけて、同じく東京出身の倉本十三上飛曹とペアを組みはじめ、以後はこのペアによる出撃が頻度を増した。1945年に入ると第十三分隊は第七飛行隊に昇格し、黒鳥少尉は飛行隊士に指名された。ただし装備機材に拡充は無く、名前のみの変更だった。

戦況としては1944年11月からアメリカ軍の首都圏空襲が開始されており、1945年3月10日には昼間の高高度爆撃から夜間の低高度爆撃へと戦術を一変させた。第七飛行隊は夜間邀撃に参加。黒鳥少尉は4月1日から夜間空戦に出撃した。4月後半から6月ごろ、「暗視ホルモン」と呼ばれる薬物の投与を受ける。1945年6月1日、黒鳥少尉は中尉に進級した。1945年8月15日に終戦。

・樫出 勇

(かしいで いさむ、1915年〈大正4年〉2月 - 2004年〈平成16年〉6月)は、陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍大尉。新潟県刈羽郡北条村(現・柏崎市)出身。

ノモンハン事件および太平洋戦争末期の本土防空戦において活躍し、B-29爆撃機に対する通算最多撃墜記録を有する。陸軍のエースパイロットである。

経歴
1934年(昭和9年)2月、陸軍少年飛行兵第1期生として所沢陸軍飛行学校入校。
1935年(昭和10年)11月、所沢陸軍飛行学校卒業、明野陸軍飛行学校に入校[1]。
1936年(昭和11年)2月、飛行第1連隊に配属[1]。
1938年(昭和13年)7月、飛行第59戦隊に転属[1]。
1939年(昭和14年)9月、ノモンハン航空戦に参戦。
1940年(昭和15年)、飛行第4戦隊に転属[1]。12月、少尉候補者第21期学生として陸軍航空士官学校入校。
1941年(昭和16年)7月、陸軍航空士官学校卒業。10月、少尉任官。任官後原隊復帰[1]。
1943年(昭和18年)4月、中尉進級。
1945年(昭和20年)5月、武功徽章乙種受章[1]。
1945年(昭和20年)6月、大尉進級。
ノモンハン航空戦 
日本陸軍とソ連空軍の間に起こったノモンハン航空戦に樫出は参戦しており、5機以上を撃墜する戦果を挙げた。20機以上を撃墜したノモンハンエースは23名おり、その中で篠原弘道准尉、井上重俊大尉、西原吾郎軍曹、3名は九七式戦闘機を駆り戦った撃墜王として有名である。篠原弘道准尉は戦死したが、3ヶ月で58機を撃墜した。

本土防空戦のB-29撃墜王 
屠龍部隊
二式複座戦闘機(愛称「屠龍」)を駆り、1944年(昭和19年)6月16日のB-29による初来襲(八幡空襲)の空戦から終戦までに樫出は北九州に来襲したB-29を26機撃墜したとされる(日本側発表のみによる)。当初は二式複座戦闘機には「屠龍」という愛称は冠されていなかったが、北九州を防衛する防空隊の活躍が日本の一般市民に知られた結果、樫出が所属していた小月の飛行第4戦隊(複戦)と芦屋の飛行第13戦隊を「屠龍部隊」と皆が呼ぶようになり、この名が定着した。また彼らには被撃墜時には必ず敵機を道づれとする信念があったという。

樫出とともに戦った搭乗員の活躍も目覚ましかったとされ、日本側の記録によれば1945年(昭和20年)3月の時点で樫出中尉、木村准尉ともにB-29を18機撃墜、西尾准尉が11機撃墜、藤本軍曹が6機撃墜、佐々大尉、河野軍曹ともに3~4機撃墜、小川中尉、鈴木少尉、馬場曹長、内田曹長、西村軍曹、岩井伍長、辻伍長、横田伍長、筒井伍長ら2機撃墜、4機撃破というものであった。木村少尉は1945年7月14日に戦死してしまったが、樫出は木村少尉のことを自分を上回る技量の持ち主であると評価しており、(B-29撃墜数22機とされる)木村少尉が生きていれば自分を越す撃墜数を挙げていたと語っている。

・二式複座戦闘機

(にしきふくざせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。計画名称(試作名称、キ番号)はキ45改。愛称は屠龍(とりゅう)。略称・呼称は二式複戦、二式双戦など。連合軍のコードネームはNick(ニック)。開発・製造は川崎航空機。

開発の背景と経緯
1930年代半ばから1940年(昭和15年)頃にかけ、航空先進国である欧米の航空技術者たちの間では「双発万能戦闘機」なる機体の開発が盛んに行われていた。双発機は単発機より航続距離が長く、爆撃機に目的地まで随伴して護衛することができる。機動性は単発機に劣るが、二発のエンジンによる大出力で単発機を上回る高速を狙い、これをカバーする。武装(機関銃/機関砲)は機首部分に集中装備するが、これをカメラに変えれば写真偵察機に早変わりする。大出力と大柄な機体により、搭載力が大きいので攻撃機として多くの爆弾やロケット弾を搭載することができる。搭載力を活かして航法装置や強力な通信機を積載した上で、複座として後部乗員を航法士・通信士とすることで嚮導機・指揮機とすることもできる。結果、一機種で戦闘・爆撃・偵察・指揮など何役もこなせる効率的な機種として、P-38 ライトニング、メッサーシュミット Bf110やポテ 631といった機体が次々と現れた。

この流れに影響を受けた日本陸軍は1937年(昭和12年)、主要航空機メーカーに対して双発複座戦闘機の研究開発を命令、川崎造船所(のちの川崎航空機)にはキ38の名で開発を命じた。モックアップで止まったキ38に引き続き同年12月、陸軍は実物の試作機を作る目的で川崎に対し、あらためてキ45の開発を命じた。川崎は井町勇技師を設計主務者に据えて作業に着手、1939年(昭和14年)1月に試作1号機が完成した。しかしながら、キ45の性能は遠く要求に及ばなかった。装備されたハ20乙エンジンは馬力不足なうえに故障が続出し、機体にもナセルストール[注釈 1]を引き起こすという問題がつきまとった。
戦果
1944年(昭和19年)8月20日、2度目のB-29大挙来襲に対する邀撃戦において、屠龍戦隊は来襲した80機のうち23機撃墜を報じた。これに対して屠龍戦隊の損害は3機未帰還、5機が被弾という損害であった。一方、アメリカ側の記録では爆撃機61機のうち14機喪失(損耗率23%。交戦以外による損失を含む)で、そのうち航空機による損失が4機(空対空爆撃による1機と体当りによる1機を含む)、対空砲火による損失が1機としており、逆に日本機17機撃墜を報じている[2]。
戦後、運輸省の技官として技術研究所に勤務し、枕木の防腐処置について研究した。しかし、戦争中に投与された「暗視ホルモン」の副作用による異常感覚と体調の不良に悩まされる。体調は好転せず、昭和25年に技官を辞職、九州の民間会社に就職した。

 

・〇〇式重爆撃機

(ひゃくしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の重爆撃機。キ番号(試作名称)はキ49。愛称は呑龍(どんりゅう)。略称・呼称は一〇〇式重爆、百式重爆、一〇〇重、百重、ヨンキュウなど。連合軍のコードネームはHelen(ヘレン)。開発・製造は中島飛行機。

開発
機名の由来
開発年は皇紀2600年にあたる1940年で、陸軍に制式採用されたのは1941年である。原則的には制式採用年に因み、一式重爆撃機と命名するのが慣例だが、1940年はめでたい年で全国的に祝賀ムードだったこともあり、皇紀2600年の数字を冠して一〇〇式重爆撃機と命名された。「呑む龍」とは勇ましい愛称だが、実際には江戸時代に貧乏人の子弟を養育した心優しい浄土宗の僧「呑龍」の名前からとったものである。これは製造会社の中島飛行機の工場があった群馬県太田市に「子育て呑龍」と呼ばれた大光院があったことから名づけられたという。

開発思想
九七式重爆撃機の後継にあたる本機は、戦闘機の護衛を必要としない高速性能と重武装を併せ持った重爆撃機として設計された。対ソ戦において、敵飛行場を攻撃する航空撃滅戦に用いる構想であった[1]。しかし、結果として同時期に出現した敵戦闘機に比較して高速と言える程の性能を持つには至らず、実戦においては常に味方戦闘機の護衛を必要とした。

 

・ボーイング B-29 スーパーフォートレス

(Boeing B-29 Superfortress。日本での通称「ビーにじゅうく」)は、アメリカのボーイングが開発した大型戦略爆撃機[2]。

特徴
B-29は、中型爆撃機から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定した設計である。B-29による日本本土空襲は、日本の継戦能力を喪失させる大きな要因となった。

愛称は「スーパーフォートレス」[3]。戦時中の文献ではスーパーフォートレスという愛称を「超てう空の要塞」と説明したものがあり[4]、当時のニュース映像では「超空の要塞(ちょうそらのようさい)」と呼んでもいる[5]。朝日新聞が選定した名称は「ビイ公」(1945年5月12日)[6]。

B-29は専門の航空機関士を置く初めての機体にもなった。B-17までの従来の軍用機は、操縦席の計器盤に飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器が取付けられており、パイロットは飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器類を監視しなければならなかったが、B-29ではそれらが全て航空機関士の前に置かれ、パイロットは飛行に専念することができるようになり、飛行機操縦の分業化が図られている[7]。

 

・ボーイング B-52 ストラトフォートレス

(Boeing B-52 Stratofortress)は、ボーイング社が開発した、アメリカ空軍の戦略爆撃機。愛称のストラトフォートレス(stratofortress)は「成層圏の要塞」を意味する。

1955年に運用が開始されて以降、アメリカ空軍の戦略爆撃機戦力の一翼を担っており、各種改修を行いつつ2024年現在でも運用が行われている。

概要
技術的には、先行するボーイングB-47で実証された諸要素を踏まえ大陸間爆撃機(ten ten Bomber)の航続力と兵装搭載力、亜音速の速度性能の機体である。ソ連圏内の目標を自由落下型核爆弾で攻撃するために作られたが、ベトナム戦争では、第二次世界大戦で投下された爆弾を大きく上回る量の絨毯爆撃を行い「死の鳥」と恐れられた[1][2]。

戦略核攻撃に使用するため、機体中央部は爆弾倉となっており、大型で大重量の初期の核爆弾を搭載可能。初期型は大型の水素爆弾のみの搭載だったが、ベトナム戦争の頃から一部の機体は、通常の自由落下爆弾も搭載可能に改造された。後期型のG型・H型においては、空中発射型の巡航ミサイル(当初はAGM-28 ハウンド・ドッグ、後にSRAMやALCM。いずれも核弾頭装備)を主要兵装としていた。兵器は胴体内の爆弾倉のほか、主翼内側下のパイロンに追加搭載も可能である。また、初期型はターボジェットエンジンを装備していたが、後期型はターボファンエンジンに換装し燃費が向上、航続距離の延長を図った。

降着装置はB-47から踏襲したタンデム式の変形である。機体下部に複列タンデムに並んだ4つの主脚と翼端を支えるアウトリガーを備えている。B-52の主脚はそれぞれがステアリング可能だという点で特徴的である。これは慣性航法装置により計算され、風上を向いている機首方向とは別に主脚を実際の進行方向(滑走路の向き)に自動的に合わせることにより横風着陸(クラブランディング)を容易にし、着陸時の横滑りによるタイヤの損傷(カット・コード)を防止するように工夫されている。

機内は二階建て構造で、操縦席に行くためには梯子を用いる。更に電子機器を多数配置したため非常に狭くなりトイレなどに仕切りはついていない。更に廊下も次第に細くなり天井にもスイッチや機材が占有したため狭くなったため、搭乗員に選ばれる兵士は基本的に低身長で小柄な人が多くなる。射出座席も装備されており上と下にそれぞれ発射されるようになる。初期のB-52は防御銃座は後部に人が座れるように作られていたが、次第に電子機器の更新に伴い全ての乗員が機体前部に集中配置されるようになった[1]。

冷戦の激化とソ連による奇襲核攻撃を恐れたアメリカは、複数のB-52を常に滞空させることにより敵の核攻撃による全滅を防ぎ、いつでも共産圏への報復核攻撃を可能とした「戦略パトロール」(Chrome Dome)を1962年から実施していたが、実弾頭の核兵器搭載によるパトロールは、複数回の墜落による放射能汚染事故を起こし、1968年のチューレ空軍基地米軍機墜落事故を契機に取りやめられた。

一層の攻撃力強化のための空中発射弾道ミサイル「スカイボルト」搭載計画もあったが、技術的困難から1962年に中止された。以後潜水艦発射弾道ミサイルや巡航ミサイルの発展により、この種の計画の検討は行われていない。

なお、冷戦時においてもイギリスや日本、ドイツなどの西側諸国や、革命前のイランなどの友好国の空軍への導入実績はなく、現在に至るまでアメリカ空軍以外で導入、運用実績はない。

2022年時点において、過去数度の近代化改装を施した上でも3-4世代前の古い技術による機体ではあるが、いわゆる「枯れた技術」を基礎としていることから兵器として最も重要な信頼性に結びついており、兵器の搭載能力・米軍再編による戦力再評価などの諸要因もあり戦略・戦術両面における評価が高く、1962年に最終号機を納入し終えてから半世紀以上経つが未だに運用中で、これからも適宜改修し2045年までの運用を予定している。2021年現在、76機保有している[3]。

 

・ヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルド 

(Henry Harley "Hap" Arnold, 1886年6月25日 - 1950年1月15日) は、アメリカの陸軍軍人、空軍軍人。最終階級は陸軍元帥および空軍元帥。

 

1945年2月、アメリカは焼夷弾などを使用した無差別爆撃であるドレスデン爆撃を実施。2万5000人とも15万人とも言われる一般市民を虐殺した。同爆撃の非人道性が問題になった際、アーノルドは「ソフトになってはいけない。戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」と語っている[8]。 3月、東京大空襲のためにサイパン島でB29に焼夷弾を積む式典でアーノルドは「私からのメッセージとして聞いてくれ。東京を空襲する意義をみんなに伝えたい。第20爆撃集団は中国からすでに東京へ出撃したが、日本との距離が遠すぎてたとえB29とはいえごく一部しか到達できずに苦労している。今君たちは日本に最も近い基地にいる。もっとたくさんの爆弾を運び北海道から九州まで日本の軍事産業拠点をすべて攻撃できる。君たちが日本を攻撃する時に日本人に伝えてほしいメッセージがある。そのメッセージを爆弾の腹に書いてほしい。日本の兵士たちめ。私たちはパールハーバーを忘れはしない。B29はそれを何度もお前たちに思い知らせるだろう。何度も何度も覚悟しろ」と演説した[9]。ルメイが東京空襲に成功すると、3月10日にアーノルドは「おめでとう。この任務で君の部下はどんなことでもやってのける度胸があることを証明した」とメッセージを送った[10]。またルメイに「空軍は太平洋戦争に主要な貢献をなしうる機会を手にした」と賛辞を送った[11]。

1945年5月7日-8日、イタリアに本拠を置いていた第456爆撃航空群を訪問していた際にドイツ降伏の知らせを受けた。

アーノルドは1945年6月16日の日記に「アメリカでは日本人の蛮行が全く知られていない」「ジャップを生かしておく気など全くない。男だろうが女だろうがたとえ子供であろうともだ。ガスを使ってでも火を使ってでも日本人という民族が完全に駆除されるのであれば何を使ってもいいのだ」と書いている。6月17日の日記には「マッカーサーはさらなる日本攻撃にB29を使う我々の計画への理解が足りていなかった。ジャップの30か所の都市部と産業地域を破壊したうえで侵攻地域となる場所には一か月ごとに20万トンの爆弾を投下し侵攻する日には8万トンを投下することをちゃんと説明したらマッカーサーも気に入ったようだ」とある。7月23日には「スターリンとチャーチルに『現在のペースでB29が飛び続ければ東京には何も残っていないことでしょう。そこで会議することになりますね』と言った」とある[12]。民間人を無差別に虐殺した汚名を後世に残すことになった。

 

・カーチス・エマーソン・ルメイ

(英語: Curtis Emerson LeMay、カーティス・ルメイ[1]またはカーチス・E・ルメイ[2]、1906年11月15日 - 1990年10月1日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人、空軍軍人。最終階級は空軍大将。第二次世界大戦中は第20空軍隷下の第21爆撃集団司令官に赴任し、東京大空襲を指揮。1957年7月から1965年2月まで第5代空軍参謀総長を務め、在任中はキューバ危機の間にキューバのミサイルサイトの爆撃を呼びかけ、ベトナム戦争の間に持続的な北ベトナム爆撃キャンペーンを求めた。

 

対日戦

空襲を受ける東京市街(1945年5月25日)
1944年にルメイはポール・ティベッツたちからB-29の操縦法を学んだ課程の終わりに「この飛行機で戦争に勝てるぞ」と予言している[6]。

1944年8月20日にイギリス領インド帝国のカラグプル(英語版)に司令部を置く第20爆撃集団司令官に赴任し、同じ連合国のイギリスや中華民国と共同で行う対日作戦として、中華民国の成都に設けられた基地からの八幡製鉄所爆撃に携わった。ルメイは中国北部を実効支配していた毛沢東と交渉し、物資と引き換えに中国北部に気象観測所を設置させて定期的に情報提供させた。この情報は中国からの爆撃で役に立ち、ルメイは後にマリアナに移ってからも毛沢東から情報を得ていた[7]。蔣介石の実効支配する中国南部と同じようなB-29の飛行場の建設も毛沢東はルメイに提案していた[8]。

ルメイは精密爆撃の技術改良に力を入れ飛行機工場を目標にした昼間精密爆撃で成果を上げていった。1944年10月25日に大村第21海軍航空廠を目視で爆撃させその大半を破壊した。第21爆撃集団司令ヘイウッド・ハンセルがよくて14パーセントの精度だったのに対し、ルメイは41パーセントを目標300メートル以内の高精度で投下している。またルメイはハンセルと違い兵站上の難問にも対処しなければならなかったが、空襲成果を上回って全く言い訳をせず、延期も無く問題を解決していった[9][10]。

第20空軍隷下の第21爆撃集団司令官に赴任した。アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年11月13日の時点でルメイの異動を検討していた[10]。1944年12月9日、ルメイに対して「B-29ならどんな飛行機も成し遂げられなかったすばらしい爆撃を遂行できると思っていたがあなたこそそれを実証できる人間だ」と手紙を送った。アーノルドは中国からの爆撃をやめさせてルメイをマリアナに合流させると、1945年1月20日にルメイを司令官に任命した[注 1]。

3月10日に東京大空襲を指揮し、ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8500メートルから9500メートルの昼間爆撃を行っていたが、高度1500メートルから3000メートルに変更した。理由はまず、ジェット気流により機体が進まなかったり正確に狙っても爆弾が流されたりする影響を避けることにより、エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積載できる爆撃の命中精度が上げられるなどの効果が期待できる。また、低空であれば雲の影響をあまり受けずに地上を視認できるため、作戦計画への天候の影響の減衰・命中精度の上昇・目標地区への着弾密度の上昇が期待できる。しかし低空では敵の迎撃機・対空砲があるため夜間爆撃にした。また機銃・弾薬・機銃手をB-29から取り除き一機当たり爆弾を200キロ増やせるようにした。また飛行法を低空単直列にし先頭の投下誘導機の着弾火炎から後続機が目標地点を把握しやすいようにした。ルメイの変更に乗員は恐怖したが、結果的にB-29の損害は軽微であった[13]。誘導機を務めたトム・パワー参謀長は「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。地上砲火は散発的。戦闘機の反撃なし」と実況報告した。3時間で、日本は死者行方不明含め10万人以上、被災者100万人以上、約6平方マイル内で25万戸の家屋が焼失した。一方、ルメイの部隊は325機中14機を損失した[14]。

ルメイが東京の空襲に成功すると、3月10日にアーノルドは「おめでとう。この任務で君の部下はどんなことでもやってのける度胸があることを証明した」とメッセージを送る[15]。またルメイに「空軍は太平洋戦争に主要な貢献をなしうる機会を手にした」と賛辞を送った[16]。戦後のルメイは「我々は東京を焼いたとき、たくさんの女・子供を殺していることを知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮することは(中略)ふざけるな」と語った[17]。

焦土作戦は東京・大阪・名古屋などの大都市を焼き払った後は、富山市・郡山市などの地方の中小都市も対象となった[注 2]。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と渾名された[注 4]。

戦後のルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについて大して悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに我々は勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた[19]。また自著で「焼夷弾空襲での民間人の死傷者を思うと、私は幸せな気分にはなれなかったが、とりわけ心配していた訳でも無かった。私の決心を何ら鈍らせなかったのは、フィリピンなどで捕虜になったアメリカ人―民間人と軍人の両方―を、日本人がどんなふうに扱ったのか知っていたからだ[20]」と述べている。

日本本土爆撃に関して、ルメイは人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し、現場で効果的な戦術を考案し実行した責任がある。しかし爆撃はアーノルドに命じられた任務であり、ルメイの役割が誇大に語られる傾向がある。ルメイの就任でB-29の攻撃法が夜間中心に変わったが、都市爆撃の枠組みは統合参謀本部の決定・焼夷弾攻撃の準備・東京や名古屋でのハンセルによる無差別爆撃の試行など、ルメイの就任前から進められていた[21][22]。

1945年5月に原爆投下部隊である第509混成部隊が準備を終えて、ルメイの部隊に移動してきた。ルメイは投下部隊の要望を最優先事項として便宜を図るように命令されていた。当時のルメイは空襲に絶対的な自信を持っていたため、日本への原子爆弾投下が必要とは考えていなかった。指揮官のポール・ティベッツ大佐が立案した原爆投下命令書草案をもとに、8月2日にティベッツらはルメイ司令部で細目の決定を行った。ルメイは「京都は大した軍事的目標ではない。神社みたいなものがいっぱいあるだけだ。それに普通の市民を爆撃してみたって何の役にも立ちはしない。(中略)引き合わんよ」と京都市への投下には反対した。一方で多くの軍隊と軍需工場がある広島市には賛成した[23]。その後ルメイはティベッツが作成した草案をほぼそのまま命令書第13号としてティベッツに渡した[24]。

1945年8月15日に終戦となり、9月20日に記者会見でルメイは「戦争はソ連の参戦が無くても、原爆が無くても2週間以内に終わっていたでしょう。原爆投下は戦争終結とは何ら関係ありません。」と答えている。しかし晩年の1988年には著書で「原爆を使用せずに戦争を終わらせることができたとしても、私は原爆投下は賢明な決定だったと思います。何故なら原爆投下が降伏交渉を早めたのです。」と語り、原爆投下は上陸作戦前に日本を降伏させ、百万のアメリカ兵の命を救った(=ダウンフォール作戦を決行せずに済んだ)というアメリカ政府の公式説明を支持している[25]。終戦後、ルメイは北海道からシカゴまでノンストップ記録でB-29を操縦して帰国した[3]。戦争が終わったため1946年6月22日に准将に降格している。

 

・坂井 三郎

(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年9月22日)は、日本の海軍軍人。

ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。

著書『大空のサムライ』で有名。撃墜数は自称64機だが、後述のように公認撃墜数は28機である。

経歴
佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外1523番地(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)で農家の三男だった父・坂井晴市と母ヒデの次男として生まれる。名前は祖父の勝三郎に由来している。

 

・篠原 弘道

(しのはら ひろみち、1913年(大正2年)8月15日 - 1939年(昭和14年)8月27日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者[1]。最終階級は陸軍少尉。通り名・異名は「東洋のリヒトホーフェン」。

日本陸軍のトップ・エースの一人として総撃墜数58機を誇り、これは1939年5月27日の初陣から同年8月27日に戦死するまでのわずか3か月の間に達成された。また、1日で11機の敵機を撃墜した記録をもつ。

生涯

1913年8月15日栃木県河内郡雀宮村大字東谷(現:宇都宮市東谷町[2])生まれ。父庄蔵、母はる。雀宮尋常小学校東校(現:宇都宮市立雀宮東小学校)を経て1931年(昭和6年)下野中学校卒業後、12月に騎兵の現役志願兵として[3]羅南の騎兵第27連隊に入営。同月満州事変に動員され錦西城の戦いに参加。のちに航空兵に転科し、1933年(昭和8年)6月に所沢陸軍飛行学校に入校。翌1934年(昭和9年)1月に戦闘機操縦者として卒業し、2月に飛行第11大隊第1中隊(亀山計衛大尉)に配属され、満州のハルビンに赴任する。1938年(昭和13年)に飛行第11大隊は飛行第11戦隊となり、後年部隊マークとして垂直尾翼に稲妻を描き「稲妻部隊」と呼ばれる事になる。同年陸軍航空兵准尉に昇進し、1939年5月にノモンハン事件が勃発したときには25歳で既に6年の飛行経験があった。

1939年5月27日、九七式戦闘機に搭乗した篠原は第1中隊長・島田健二大尉、鈴木栄作曹長とともに出撃、初めての敵戦闘機との交戦でソ連軍のI-16単葉戦闘機4機を撃墜した。翌28日には第3中隊とともに出撃(篠原の列機は島田大尉と吉山文治曹長)しRZ複葉偵察機1機とI-15複葉戦闘機5機を撃墜し、たった1日でエース・パイロットとなった。史上初陣から1日で10機の撃墜を記録したパイロットは篠原の他にいない。特筆すべきは同年6月27日、日本軍がモンゴルの後方基地タムスクに大規模な空襲を行った際に、11機の敵機を撃墜したことである[4][5]。この記録を上回るのはドイツ空軍のエーリヒ・ハルトマン(1日に12機を撃墜)だけである。篠原は撃墜マークとして愛機の操縦席側面に星を描いていた。

しかし武運は長くは続かず、1939年8月27日、爆撃機護衛の際に交戦となり敵機3機を撃墜したが、I-16戦闘機に撃墜され戦死した[6]。その功績により同日附で准尉から少尉に特進した。1940年9月26日、第21回論功行賞に選ばれる[7]。

その活躍から「東洋のリヒトホーフェン」と呼ばれ[4][8]、またノモンハン航空戦における操縦者達の活躍は「ホロンバイルの荒鷲」としてマスメディア上でも大々的に取り上げられており、中でも篠原は屈指のエースとして国民の知るところとなった。また敵編隊に殴りこみをかけ撃墜するという、迫力ある空戦模様を記録した日記を残していたことでも知られる。

 

 

・舩坂 弘

(ふなさか ひろし、1920年〈大正9年〉10月30日 - 2006年〈平成18年〉2月11日)は、日本の陸軍軍人、剣道家、実業家。最終階級は陸軍軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。戦後は大盛堂書店を開き、代表取締役会長を務めた。全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主。

特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道教士六段、居合道錬士、銃剣道錬士など、武道・射撃の技能に習熟していた。

生涯
生い立ち
栃木県上都賀郡西方村で農家の三男として生まれて育つ。幼少期からきかん坊で近所のガキ大将であった。小学校と尋常高等小学校を終えて公民学校を卒業すると、さらに早稲田中学講義録で独学し、専門学校入学者検定試験[1]に合格する。1939年に満蒙学校専門部へ入学して3年間学ぶ。

陸軍に入隊
1941年3月に宇都宮第36部隊へ現役で入隊し、直後に満洲へ渡り斉斉哈爾(チチハル)第219部隊に配属される。斉斉哈爾第219部隊は宇都宮歩兵第59連隊を主体とした部隊で、仮想敵のソ連軍侵入に備えてノモンハン付近、アルシャン、ノンジャン、ハイラル一帯の国境警備隊として活躍する。弘は第59連隊第1大隊第1中隊(通称石原中隊)擲弾筒分隊に配属され、アンガウル戦時は15人を率いる擲弾筒分隊長として指揮する。

当時から剣道と銃剣術の有段者で、特に銃剣術に秀でた。チチハルの営庭で訓練中に陸軍戸山学校出身の准尉から、「お前の銃剣術は腰だけでも3段に匹敵する」と保証される腕前だった[2]。舩坂は擲弾筒分隊長であったが、中隊随一の名小銃手として入隊以来射撃で賞状と感状を30回受けていた。斉斉哈爾第219部隊で「射撃徽章と銃剣術徽章の2つを同時に授けられたのは後にも先にも舩坂だけだ」と専ら有名であった[2]。

戦況が悪化して1944年3月1日に第59連隊へ南方作戦動員令が下命され、4月28日にアンガウル島へ到着する。南方動員令の下命時に舩坂は除隊の目前であったが、大隊主力と共にアンガウル島に上陸する。舩坂は23歳[注 1]で、中隊では一番の模範兵と目されて部下から人望も篤かった。

アメリカパラオ・アンガウル島での戦い
アンガウルの戦い (Battle of Angaur) は第二次世界大戦におけるパラオ - マリアナ戦役最後の戦いで、舩坂は多大な戦果を上げる。擲弾筒と臼砲で米兵を100人以上殺傷する。水際作戦で中隊が壊滅する中、舩坂は筒身が真っ赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、退却後は大隊残存兵らと島の北西の洞窟に籠城、ゲリラ戦へと移行した。

3日目に舩坂は米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置されたのちに、ようやく軍医が訪れるも、傷口を一目観て自決用の手榴弾を手渡して立ち去る。

瀕死の重傷を負いながらも舩坂は包帯代わりに日章旗で足を縛り止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復した。その後も瀕死クラスの傷を負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、数日で回復しているのが常であった。 これについて舩坂は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と述べる。

舩坂は絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で米兵を倒し、米兵から鹵獲した短機関銃で2人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺すなど、奮戦を続ける。舩坂の姿を見た部隊員らは不死身の分隊長と形容した[3]。

食料も水もない戦場の戦いは日本兵を徐々に追い詰め、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相となる。弘も腹部盲貫銃創の重傷で這うことのみが可能で、傷口に蛆虫が涌くありさまを見て、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまで、と思い自決を図るも手榴弾は不発する。舩坂はしばらく茫然として自決未遂の現実に「なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのか」と、深い絶望感を味わう[注 2][注 3]。

戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片で、幽鬼か亡霊の如き風貌であった。

舩坂は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。舩坂はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかった。

米軍の動揺を尻目に船坂は司令部目掛け突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、左頸部[4]を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている[5]。当初船坂は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で話題となった。舩坂の無謀な計画に対し、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈る。

捕虜収容所
その後、数日の捕虜訊問を経て、舩坂はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に“グンソー・フクダ[注 4]”の言動には注意しろと、要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし俘虜となっても舩坂の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。さらに、船坂は2回にわたって飛行場を炎上させることを計画するが、同収容所で勤務していたF.V.クレンショー伍長(F. V. CRENSHAW, 生没年不詳)に阻止され失敗。グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国する。

帰国
アンガウル島守備隊は1944年10月19日に玉砕し、戦死公報が12月30日に実家へ届く。舩坂は1946年に帰国するまでの1年3か月の間は戸籍上で死亡扱いされる。故郷では、当然戦死したものと思われており、舩坂は帰郷後真っ先に「舩坂弘之墓」と記された墓標を抜く。しばらくの間は、周囲の人々から「幽霊ではないか」と噂をされる。ボロボロの軍衣で生家に戻り、先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌すると、真新しい位牌に「大勇南海弘院殿鉄武居士」と記されており驚いた、と『殉国の炎』に記す。

大盛堂書店を開業
戦後復興の中、戦争での強烈な体験から舩坂は、この眼で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、日本の産業、文化、教育を豊かにすることではなかろうかとの思いから、書店経営を思い立つ。弘は渋谷駅前の養父の書店の地所に僅か一坪の店を開き、帰って来た戦死者としての余生を、書店経営で社会に捧げたいとの思いにぶつけた。これは日本で初めての試みとなる、建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」の創設へ繋がった。

剣道家として
戦後、舩坂は剣道教士六段まで昇段した。剣道五段の作家・三島由紀夫とは剣道を通じて親交があり、弘の自叙伝である『英霊の絶叫-玉砕島アンガウル』の序文は三島が寄せている。1970年の三島自決の際、介錯に使われた三島自慢の愛刀・関の孫六(後代)は弘が贈ったものであった。この経緯を自著『関ノ孫六』に詳しく記している。

舩坂は当時80歳で範士十段の持田盛二と稽古する機会を得て、初めて持田に挑んだが、太刀打ちできなかった。この体験を自著『昭和の剣聖・持田盛二』で、「不思議であった。範士の前で竹刀を構えてからまだわずかの時間しか経過していないのに、私の顔面には汗がしたたり落ち、全身が熱くなっていた。息はもう途切れはじめていた……」と述べる。

慰霊碑を建立
弘は『英霊の絶叫』のあとがきに、アンガウル島に鎮魂の慰霊碑を建立することが自らの生涯を賭けた使命と記した。これは後に同書を読んだ人々からの義援金の助力もあって実現し、以後、戦記を書いてはその印税を投じ、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。慰霊碑の慰文には、「尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます」と、刻み込まれている。慰霊碑を建立後、今までの著作や後に執筆した本から更なる印税を得るも、「世界の人々に役立ててもらいたい」との考えから、自分では使うことなく、全額を国際赤十字社に寄付している。

書店経営の忙しさの中でも、アンガウル島での収骨慰霊を毎年欠かさなかった。後年に遺族を募り慰霊団を組織し、現地墓参へ引率し、パラオ諸島原住民に対する援助や、現地と日本間の交流開発に尽力する。長年のあいだ戦没者の調査と遺族らへ連絡など、精力的に活動して人生を捧げた。舩坂を知る人たちは「生きている英霊」と称して業績を称揚している。

2006年2月11日、腎不全のため85歳で死去[6]する。墓所は東京都港区の長谷寺[7]に所在する。

 

・栗林 忠道

(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日[1][注釈 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)[注釈 2]。陸士26期・陸大35期。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。

第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」[4]と評された。

 

・牛島 満

(うしじま みつる、旧字体:牛島 滿、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進[1])。鹿児島県鹿児島市出身。日本陸軍の大将に昇進した最後の軍人。 温厚な性格で知られ教育畑を歴任したが、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として南京、漢口攻略戦に参加した。 沖縄戦においては、第32軍を指揮し自決した。これをもって日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日は、沖縄県の慰霊の日に制定されている。

 

沖縄侵攻作戦の最高司令官 サイモン・B・バックナー中将が牛島に向けて送った降伏勧告文が牛島の手元に届いたが、牛島は一笑に付して、これを黙殺している[87]。翌18日に牛島は長と共に自決を決意し、大本営と第10方面軍に訣別電報を打電した後、各部隊に

「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」
と最後の命令を出した。この命令文は参謀の長野が作成し、最後の「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」の一項を長が付け加え、牛島がいつもの通り黙って裁可したが、この最後の命令が、結果的に終戦まで多くの日本兵や沖縄県民を縛ることとなってしまった[88]。

同じ18日に、最高司令官サイモン・B・バックナー中将が前線視察中に日本軍の砲撃により戦死しており[89]、21日にこの知らせを大本営経由で知った第32軍司令部は、長や八原をはじめとして全員があたかも戦争に勝利したかのような喜びを覚えたが[90]、牛島はその中でただ一人喜ぶこともなく、「惜しい人物をなくした」とつぶやき、哀悼の情を捧げるようにうなだれていたため、歓喜していた参謀らは牛島の高潔な人柄に感銘し、襟を正している[91]。

喜屋武撤退後の戦いで、連合軍はバックナーと第96師団副師団長クラウディウス・M・イーズリー准将の戦死を含む、8,157人の死傷者という大きな損害を被り[92]、戦後に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが戦死したバックナーを「(大損害を受けた)沖縄南部への侵攻は必要なかった。牛島を島の一部に封じ込めておくだけで十分だった」と非難するほどであった[93]。

6月22日、牛島らが立て籠もっている摩文仁洞窟の司令部壕に対する連合軍の攻撃が激化し司令部衛兵隊も壊滅したため、牛島は自刃を決意した。まずは司令部壕から外に出て山頂で割腹をしようとしたが、すでに山頂はアメリカ軍の勢力圏下であり、司令部の残存部隊が山頂奪還するため事前に偵察したが、奪還は困難と判明したため、23日未明に山頂での自刃を断念し司令部壕内で切腹することとした。

午前3時、牛島は八原ら参謀にスコッチ・ウイスキーのキングオブキングスとパイナップルの缶詰をすすめた[94]。牛島の他に参謀長の長と第32軍の経理部長佐藤三代治大佐も共に自決することになった。長が自決の寸前に「軍司令官閣下、あなたは死なれても極楽でしょう。わたしは、きょうまでの悪業でどうせ地獄落ちです。高橋お伝などがおりましょうから、彼女の番頭にでもなりましょう。三途の川でお別れしなければなりませんな。わっははは」と豪快に笑うと、牛島は「いやいや、わたしは日華事変以来、多数の兵士を失い、この度の沖縄戦でも多数の犠牲者を出しましたから、どうせあなたといっしょに地獄ゆきですよ」と答え、長が「それでは、三途の川では、わたしが閣下をせおっておわたししましょう」といって笑った。まず佐藤が「わたしは年輩だから、お先に楽にゆかせてもらいましょう」といって、司令部壕の入り口で海が見えるところに設けられた3つの自決用の座(地面に白いシーツを敷いているのみ)のうちの一つに座ると拳銃で自決した。

その後、午前4時頃、牛島と長は戦闘に汚れた服から陸軍中将の制服に着替えて姿を現し、自決用の座に正座した。長が上着をとると、白地の肌着の背中には“忠則尽命、尽忠報国、長勇”と墨で黒々と自書してあった。長は古式に則った作法で割腹し、牛島も同様に古式に則り銘刀「来国俊」を腹に突き立てた。そして、以前より介錯を頼んでいた次級副官で剣道5段の坂口勝大尉が軍刀で介錯した。時刻は午前4時15分であった。[95]。

軍司令部で軍属として勤務していた大迫亘の回想によると、介錯した両名の首は、軍司令部専属副官吉野敏中尉と当番兵の高橋兵長が抱いたまま手榴弾で自爆した。遺体は鍾乳洞の自然の穴に埋めた。奇しくもこの6月23日は牛島の長女麗子が東京で結婚した日であった[96]。

一方、32軍管理部付衛兵司令を務めていた濱川昌也軍曹は自身の手記の中で、牛島と長が自決した日付は6月22日午前4時30分ごろであるとし、6月23日自決説は間違いであると主張している。また、両名の首の行方についても、高橋兵長と魚住豊明軍属が洞窟外へと運び去ったが、二人とも米軍の捕虜となり、牛島と長の首の在処も判明。6月26日に米軍によって発見されたと記している[97]。

これに対し、研究者として沖縄戦の歴史的研究に取り組み沖縄県知事も歴任した大田昌秀は、米国立公文書館から牛島と長勇の最期の様子を記録した文書と二人の遺骸の写真を発見したと主張し、二人の遺骸とされる写真を見る限り、切腹や介錯した後は確認できなかったとしている。この文書には、牛島と長は青酸カリを含んだ注射器によって服毒自殺したと記されているという[98]。濱川軍曹も、牛島と長が自決前、事前に青酸カリを服用されていたようだと自著に記している[97]。しかし、自決現場に立ち合っていた濱川は両者が古式に則った切腹で自害したと証言しており、アメリカ合衆国陸軍省の公式報告書『United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle』でも牛島と長の死因は「Hara-kiri(切腹)」とされている[99]。

沖縄憲兵隊の副官だった人物の証言によると、牛島の遺体を確認したいという米軍の要請により摩文仁の軍司令部壕跡に向かうと、司令部壕の下方30〜40メートルのところにあるくぼ地に、同じ場所に並べるように石を積んで埋葬されていた牛島と長参謀長の遺体を確認したという。遺体には首が無く、略章をつけた軍服に白い手袋をしていたとされる[100]。

また、第32軍司令部の専属理髪師として最後まで牛島らに同行した軍属の比嘉仁才によれば、比嘉は牛島らの自決には立ち会っていなかったものの、第32軍高級副官葛野隆一中佐の当番兵から、牛島が腹に短刀を突き立てたときに坂口が介錯したが、坂口は流れ弾で腕を負傷していたため仕損じり、その後に藤田曹長が刀をとって介錯したという話を聞いている[101]。自決に立ち合っていた濱川軍曹も、坂口大尉が右手を負傷しており、介錯する際に手許が狂ったようだと回想している[97]。享年58歳(満57歳)。

牛島は自決の直前に軍司令部の事務員の女性に「この革財布を、遺品として、できたらわたしの家族に渡してください」と二つ折りの革財布を託した。女性事務員は1952年に、郡山市に転居していた牛島の家族を探し出すと、遺品の革財布を君子夫人に届けて夫人を感激させている[102]。