権書 | 覚書き

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権書
目次
1 心術2 法制3 強弱4 攻守5 用間6 孫武7 子貢8 六国9 項籍10 高祖
権書序
ある人は、こう言っています。儒学者は軍事を語るべきではありません。仁
義のある軍隊は戦術を用いなくても勝つからです。しかし、そうであるなら武
王はどうして太公望を任用したのでしょうか。しかも、牧野の戦いにおいて、
「四回と攻め、五回、六回、七回と戦ったなら、いったん止まって隊列を整え
よ」というようなことを命じたのでしょうか。『権書』は兵書ですが、仁を役
立て、義を促進するためのものです。私は世の人たちが本末をはっきりさせな
いで、みだりに私を孫武の弟子(兵家)と卑しんでいるのを嫌に思っています。
そもそも孫子の言葉は普通に軍事を語っているものですが、私の『権書』はや
むをえず軍事を語ったものです。ですから、仁義だけでは問題を解決できなく
なってから、私の『権書』は軍事を用いることにしているのです。そのように
『権書』は、仁義がゆきづまったときのために書かれたものです。
1 心術
優秀な将軍になる道は、まず心を安定させるべきで、泰山が目の前で崩壊し
ても顔色を変えず、鹿が横から飛び出しても目をつぶらないというようでなけ
ればなりません。このようであってこそ、利害を正確に計算でき、敵に対処で
きます。
およそ軍事は道義を尊び、不義であれば利益があっても行動してはいけませ
ん。その一回の行動の害となるだけでなく、その後において手足の置き場がな
くなったようになって、どうしようもなくなるでしょう。ただ道義だけが兵士
を発憤させられます。兵士は道義によって発憤し、何度も戦いを共にできます。
およそ戦いの原則は、いまだ戦っていないときは味方の財を養い、戦おうと
しているときは味方の力を養い、戦っているときには味方の気を養い、勝った
ときには味方の心を養います。のろし台(警戒通信施設)をきちんとし、偵察
をしっかりし、耕す人(労働者)を安心させることが、味方の財を養う方法で
す。恩賞を手厚くして、ゆったりさせることが、味方の力を養う方法です。小
さく勝ったら、さらに戦い、小さく負けたら、さらに励ますことが、味方の気
を養う方法です。兵士を使うときは兵士の意欲を完全に満足させないようにす
るのが、味方の心を養う方法です。ですから、兵士はつねに発憤を蓄え、意欲
を抱いてなくさないのです。発憤がなくならなければ非常に勇ましくなります
し、意欲がなくならなければ非常に先を争うようになりますので、天下を統一
しても兵士は軍事を厭わなくなります。以上が、黄帝が七十戦しても兵士が弱
まらなかった理由です。
およそ将軍は知恵があって厳格であったほうがよいですし、およそ兵士は愚
直であったほうがよいです。知恵があれば計り知れませんし、厳格であれば侮
れません。ですから、兵士はだれもが将軍に身を委ねて、その命令に従うわけ
ですが、愚直でなければ、そうはいきません。そもそも兵士は愚直であってこ
そ、将軍と生死を共にできるのです。
およそ軍事活動が行われるときは、敵の君主を知り、敵の将軍を知ってこそ、
危険なことをできます。鄧艾は蜀漢帝国を攻めるときに兵士を危険なところに
行かせましたが、蜀漢帝国の黄帝の劉禅が凡庸でなければ、百万人の大軍すべ
てが捕虜になっていました。鄧艾は相手が大したことのないことを知っていた
ので、そのようなことをしたのです。ですから、古代の賢明な将軍は、兵士に
敵の実力を探らせ、さらに敵を通して自己の実力を探ったので、どう行動すべ
きかを正しく判断できたのです。
およそ優秀な主将(最高司令官)になる方法は、道理を知ってから兵を挙げ、
勢いを知ってから兵を加え、節度を知ってから兵を用いることです。道理を知
っていれば敗れませんし、勢いを知っていれば阻まれませんし、節度を知って
いればゆきづまりません。小さな利益を見ても動きませんし、小さな憂患を見
ても避けません。小さな利益・小さな憂患は、そのためにこちらの技量のすべ
てをつぎこむべきものではなく、そうしてこそ大きな利益・大きな憂患に対処
できます。そもそもただ技量を養って自分を大切にする人であってこそ、天下
無敵となります。ですから、一の忍耐が百の勇気を支えることができ、一の冷
静が百の行動を制することができるのです。
軍隊に長短があるのは、敵もこちらも一緒です。では、こちらが長所を使お
うとしても、それを察して敵が戦おうとせず、こちらが短所を隠そうとしても、
それを察して敵が攻めてくるなら、どうしたらよいのでしょうか。答えは、こ
うです。こちらが短所をさらけ出すなら、敵はワナかと疑って退きますし、こ
ちらが長所を隠してとっておくなら、敵は油断して攻めて来ます。これが長短
を使う方法です。
用兵のプロは、兵士の心配をなくさせ、兵士に自信をもたせます。心配がな
ければ死んでも惜しくないと思いますし、自信があれば必ず負けることはない
と思います。たとえば、棍棒を持っていれば、どう猛な虎と出くわしても、怒
鳴りながら棍棒で殴りかかりますが、素手であれば、トカゲと出会っても、顔
色を変えて後ずさります。これが人情というものです。これを理解している人
は、優秀な将軍となれます。たとえば、裸でも剣を握っていれば、強い力士の
鳥獲でも戦いを挑もうとはしませんし、ヨロイを身につけ、武器を持っていて
も熟睡していれば、子供でも弓を引いて殺せます。ですから、用兵のプロは態
勢を堅固にし、そもそも態勢を堅固にできていれば、力に余裕が出ます。
2 法制
戦おうとするときには敵将の賢愚を知らねばなりません。賢明な敵将と戦う
ときには、対峙します。愚鈍な敵将と戦うときには、つけこみます。対峙する
ときには、チャンスをうかがって、策略にはめます。つけこむときには、一気
にたたみかけて、士気をそぎます。しかし、愚鈍な将軍でなければ、つけこん
ではいけません。つけこんで成功しなければ、こちらが損失を受けます。兵を
分けて数隊で進軍するのが、対峙するための方法です。力を合わせて一気に戦
うのが、つけこむための方法です。
古代の軍隊の指揮がうまかった人は、刑罰を用いて人を使い、恩賞を用いて
人を使い、怒気を用いて人を使いました。そして、そうしながら必ず信義を用
いて兵士をなつけるようにしました。攻撃せずとも、略奪せずとも、それによ
って緊急の災難を防ぎました。ですから、越王の勾践には六千名ほどの勇者が
いましたが、彼らは人から立派な人と言われたのです。また、韓原の戦いのと
き、秦国の兵士は晋国の数倍でしたが、秦国の君主の穆公を危機から救ったの
は、秦公の馬を盗んで食べたけれども罰せられなかった一部の兵士でした。
(訳注:紀元前645年、秦国と晋国は韓原において戦いました。戦いが始ま
るや、晋軍は不利となりました。秦国の君主の穆公は、晋国の君主の恵公を追
撃したのですが、反対に包囲されてしまいました。穆公は右から左から攻めた
のですが、包囲を突破できませんでした。そのとき、いきなり、晋軍の後方で
騒ぎが起こり、数百名の秦兵が鬼のような勢いで切り込んできて、穆公を救出
しました。その後、穆公は救ってくれた数百名の兵士たちに、どうしてあのよ
うなすぐれて勇敢なことができたのかを尋ねました。すると彼らが答えて言う
には、「数年前、私たちはあなた様の名馬を盗んで食べたのですが、それを知
っても、あなた様は私たちを罰しないばかりか、食料をめぐんでくださいまし
た。私たちはいたく感動し、このたびの戦争に参加して、あなた様に恩返しを
する機会を待っていました。あなた様が包囲されたと聞き、どうして自分の命
の心配などできましょうか」とのことでした)。
兵士が少ないときには危うくなりやすいですし、多いときには背きやすいで
すし、多数を使うことより難しいものはありませんし、少数を使うことより危
ういものはありません。多数を管理するには法律が緻密であったほうがよく、
緻密であれば兵士は動きにくくなります。少数を管理するには法律が簡単であ
ったほうがよく、簡単であれば兵士は分かりやすくなります。そうでなければ、
兵士は戦いに役立ちません。ただ兵士が多数で法律が緻密であれば、わずらわ
しくても、損傷を受けることはなく、強くなります。
大軍を率いて険しいところに入るときは、必ず軍を分けて、まばらになって
進みます。そもそも険しいところには伏兵があり、伏兵には事前の打ち合わせ
があります。軍が分かれていれば、伏兵はどこを攻撃すればよいのか分からな
くて、事前の打ち合わせどおりにいかなくなります。険しいところは狭くなっ
ていて広く展開できないところが恐ろしく、まばらになって進むことで兵士の
気持ちをゆったりさせられます。
軍事は、攻めよりも危ないものはありませんし、守りよりも難しいものはあ
りませんが、攻守の勢いからそうなっています。ですから、守れない場合が二
つあります。兵士が少なくて城の守り手が足りない場合と、城が小さくて守り
につく兵士が十分に城に入りきれない場合です。そもそもただ賢明な将軍だけ
が、少数で多数をカバーし、小で大をカバーすることができます。敵の攻撃を
受けたとき、人は守らないことはありませんが、私は大軍がいるように擬装し
ます。敵は恐れて攻めてこず、「城内に兵士はいません」と言う人がいても、
信じません。こちらは、敵が襲ってくるであろうポイントを推測し、そこを兵
士にこっそり守らせます。すると、敵はこちらの実情を把握できず、(攻めて
も撃退されるので)こちらは兵士が多くて、兵士の足りない心配がないと思い
ます。さらに、こちらは、旗を伏せ、太鼓を休め、ひっそりとして人がいない
かのようにし、兵士をしっかり隠れさせ、喧嘩をしたりする者がいれば処刑し
ます。そして、ときどき老兵や弱兵を城壁の上に立たせて怯えているかのよう
に見せかけます。それから、敵が油断したところに乗じて突撃します。すると、
敵が多くても撃退でき、城の小さいことを心配する必要はありません。
城を背にして戦うときは、陣形は方・踞・密・緩であることが必要です。
(訳注:方とは、中間の兵力が多いこと。踞とは、後方に多数の予備部隊を配
置すること。密とは、隊列が密集していること。緩とは、行軍速度がゆったり
していること)。そもそも方・踞・密・緩であれば兵士の心は堅固になり、堅
固なときには恐れません。城を背にして戦うときは、兵士が恐れないことが必
要です。城に向かって戦うときは、陣形は直・鋭・疏・速であることが必要で
す。(訳注:直とは、薄く広く兵力を展開すること。鋭とは、前方に多数の兵
力を配置すること。疏とは、隊列が散開していること。速とは、行軍速度がす
ばやいこと)。そもそも直・鋭・疏・速であれば兵士の心は危機を感じ、危機
を感じれば必死になります。城に向かって戦うときは、兵士が必死になること
が必要です。
そもそも冷静に自分を分析できる人は、人を使えます。自分は、どうして怒
るのか、どうして喜ぶのか。自分は、どんなときに勇ましいのか、どんなとき
に怯えるのか。そもそも人はどこが自分と違うのか。世間の人で、だれが自身
を分析できていないのか。こうして以上の道理を理解すれば、ただの一般人で
も優秀な将軍となれます。
ふだん人と世間話をしていて、一つでも情理に合わない話があれば、人を邪
推するものです。敵が自分の実情をこちらにあらわにしてきても、見て見ない
ふりをすれば、自分をしっかり守れます。そういうわけで、智者は、敵が理由
もなく実情をあらわにしてきたら、必ず慎重にそれを分析します。軽率に動い
てはなりません。疑うべき情況が二つあります。一つは心のなかに生じる疑わ
しさで、このときにはすぐに対策を講じるべきであり、心は真実を直感してい
るのです。もう一つは目に見える疑わしさで、疑うまでもなく、これは敵がこ
ちらをたぶらかそうとしているのです。そういうわけで、心に疑わしく感じる
ときはすぐに対策を講じるようにし、目に疑わしく見えるときは落ち着いて対
処します。もし敵が本当にこちらを陥れようと思っているなら、それがこちら
の目に見えないようにするものです。
3 強弱
何が大事であるかを知り、何が大事でないかを知ってこそ、兵を用いること
ができます。ですから名将は大事でないものを使って大事なものを養うのです。
兵士はすべてが精鋭ではありえず、軍馬はすべてが駿馬ではありえず、兵器
はすべてが優秀ではありえないのは、当然であり、容認せざるをえません。軍
隊に上・中・下があることにより、軍隊には三つの方略があります。孫臏は、
こう言っています。「閣下の下等の馬を相手の上等の馬と競わせて負け、閣下
の上等の馬を相手の中等の馬と競わせて勝ち、閣下の中等の馬を相手の下等の
馬と競わせて勝ちます」と。これは軍事について語っているのであり、競馬に
ついて語っているのではありません。下等のものでは相手の上等のものに歯が
たたないことは明白であり、下等のものは捨てます。しかし、相手の中等のも
のは自分の上等のものには歯がたたず、相手の下等のものは自分の中等のもの
には歯がたたず、自分は二勝します。これは勝利が敗北よりも多いということ
で、そこで私はこの方略を採用します。相手の上等のものは、相手の中等のも
のと下等のものの支援を受けられないのであり、それで立ち行かなくなります。
ですから、「軍隊に上・中・下があることにより、軍隊には三つの方略があり
ます」と言うのです。三つの方略は、一つの働きが三つに分かれて機能してい
るにすぎません。
管仲は、こう言っています。「強いところを攻めれば、弱い敵も強くなる。
弱いところを攻めれば、強い敵も弱くなる」と。ああ、敵の弱いところを選ん
で攻めるようにしないなら、天下は強敵だらけです。漢の高祖こと劉邦が苦慮
したのは項羽でしたが、劉邦みずから兵を率いて項羽と正面から戦うことはわ
ずかでした。劉邦は、随何を使って九江を取り、韓信を使って魏国・代国・趙
国・斉国を取り、それから劉邦みずから出陣して項羽を討ち取りました。そも
そも劉邦は苦慮するところを何とかしようとあせったりしないで、苦慮しない
ですむところから処理していき、項羽を孤立させました。秦国が苦慮したのは
六国(韓国・魏国・趙国・燕国・楚国・斉国)であり、蜀は最小で最初に取ら
れ、楚は最強で最後に取られましたが、秦国が苦慮したのは蜀ではありません
でした。諸葛孔明は何度も出兵して、最強の魏国と戦ったわけですが、滅亡す
るのも当然です。天下を取るにしろ、一国を取るにしろ、一陣を取るにしろ、
以上のように弱いところから攻めなければ失敗します。
范蠡は、こう言っています。「布陣の原則は、右側を弱くし、左側を強くす
る」と。春秋時代、楚国が隋国を攻撃したとき、季梁は隋国の君主に言いまし
た。「楚人は左を尊び、君主はきっと左軍にいるので、楚王の精鋭とあたらな
いように左を避けます。そして、楚軍の右側を攻撃すれば、右軍は精鋭ではな
いので、きっと楚軍は敗北します。楚軍の一方が敗北すれば、楚軍の全軍の士
気が低下します」と。思うに陣形は、必ず左右のどちらか一方が強く、どちら
か一方が弱いもので、こちらの強兵を使って敵の弱兵を攻めるべきです。唐の
太宗は、こう言っています。「私は挙兵して以来、つねに部隊配置の情況を観
察した。戦うたびに敵を観察し、敵の強兵が左にいるときは、こちらも強兵を
左に配置させたし、敵の弱兵が右にいるときは、こちらも弱兵を右に配置させ
た。こちらの弱兵を敵の強兵にぶつけ、こちらの強兵を敵の弱兵にぶつけた。
敵はこちらの弱兵に襲いかかるが、追撃できるのは数十百歩にすぎない。私は
敵の弱兵を攻撃し、つねに突破して敵の強兵の背後から攻撃をすることで、必
ず勝てた」と。後世の凡庸な将軍は、自軍の強兵を使って敵軍の弱兵を撃破す
ることができていなくて、「我が軍には老人や弱者がまじっており、全軍が精
鋭というわけではないので、勝てないのだ」と言っています。これは老いた兵
士や弱い兵士がいるのは当たり前で、兵家のなくせないものであることを知ら
ないのです。老いた兵士や弱い兵士をなくすことは、敵の強兵を消耗させて自
軍の強い勢いを保つ手段をなくすということであり、敗北するのは時間の問題
です。
ですから、智者は自軍の弱兵をたやすく捨て駒にして、敵が精鋭をそこにた
やすくつぎこむようにさせ、それがわずかに損傷を受けるのを忘れさせます。
そして、全力で大局的な勝利をめざしますが、目的としているのは最終的な勝
利にすぎません。
4 攻守
むかしの攻撃のプロは、全兵力を出さないで堅固な城を攻撃しましたし、守
備のプロは、全兵力を出さないで敵の攻撃を守備しました。そもそも全兵力を
出して攻撃すれば、士気を鈍らせ、物資を費やして、成功に時間がかかります
し、全兵力を出して守備すれば、兵力が分派できなくて、敵のスパイが暗躍し、
こちらの不備を敵が襲撃します。ですから、敵の守らないところを攻め、敵の
攻めないところを守るのです。
攻撃には三つの方法があり、守備には三つの方法があります。三つの方法と
は、一つは正(正攻法)であり、二つは奇(奇策)であり、三つは伏(待ち伏
せ)です。平坦な道を車輪と車輪とがぶつかり、肩と肩とがぶつかるほどの大
軍で行ったり来たりし、自軍が必ず攻めるところは、敵軍が必ず守るところで
あるのが、正道です。主力が敵の南を攻めているとき、精鋭が敵の北を攻めた
り、主力が敵の東を攻めているとき、精鋭が敵の西を攻めたりするのが、奇道
です。大きな山・険しい谷・曲がりくねった小道・荒れた間道に軍隊を潜伏さ
せ、銅鑼を鳴らさず、太鼓を叩かず、いきなり目の前に飛び出して、敵の横っ
腹を攻撃するのが、伏道です。ですから、軍事は、正道を使うなら勝敗が予測
できませんし、奇道を使うなら二分の一の確立で勝利しますし、伏道を使うな
ら必ず勝ちます。その理由は、次の通りです。正道の城は堅固で、正道の兵は
精兵です(攻略地点が明確)。しかし、奇道の城は必ずしも堅固ではなく、奇
道の兵は必ずしも精兵ではありません(捕捉しづらい)。さらに、伏道の場合
には、城もなければ、兵もありません(とらえどころがない)。正道で攻める
だけで奇道と伏道を知らない人は、人形のようなもので、正道で守るだけで奇
道と伏道を知らない人も、人形のようなものです。
今、人から盗もうとする場合、門のスキマからカンヌキを切って入る者があ
り、他のドアの鍵をかけ忘れているところから入る者があり、垣を乗り越えた
り、塀に穴をあけたりして入る者があります。門のスキマからカンヌキを切っ
て入れば、ほとんどの場合、主人から気づかれます。ドアの鍵をかけ忘れてい
るところから入れば、あまり主人に気づかれません。塀を乗り越えて入れば、
決して主人に気づかれることはありません。主人たる者は、『正面の戸締りさ
えしっかりしていれば、他のドアや塀の隙間は心配する必要はない』などと言
ってはいけません。この例で言えば、正道を使う軍隊は、門を破って侵入する
盗賊です。奇道を使う軍隊は、他のドアから侵入する盗賊です。伏道を使う軍
隊は、塀を乗り越えて侵入する盗賊です
いわゆる正道とは、たとえば秦国の涵谷関、呉国の長江、蜀国の剣閣など天
然の要害です。むかし韓国・魏国・趙国・斉国・楚国・燕国の六国が涵谷関に
進攻しましたが、秦軍の将軍はこれを撃退しましたし、曹操は長江に進攻しま
したが、周瑜はこれを敗走させましたし、錘会は剣閣に進行しましたが、姜維
はこれを迎撃しました。そうできたのは、守備するほうが熟練していたからで
す。呉王の劉濞が呉楚七国の乱を起こし、大梁を攻めたとき、反乱軍の総大将
である田禄伯が五万人の軍勢を率いて主力とは別に長江・淮河に沿って進軍し、
淮南・長沙を手に入れ、呉王と武関において軍勢を合流させることを劉濞に求
めたこと。岑彭が公孫述を攻めたとき、江州から都江をさかのぼり、公孫述の
部将である侯丹を撃破し、武陽を制圧し、公孫述の部将である延岑の軍勢の背
後に回りこみ、すばやく精鋭の騎兵を広都に行かせ、公孫述の本拠地である成
都まで三十里の地に至ったこと。唐王朝後期、李愬が蔡州を攻めたとき、蔡州
軍はすべての精鋭をつぎこんで李光顔を迎撃して李愬には備えなかったので、
李愬は文成において張柴を撃破し、そのまま二百里を急進し、夜中に蔡州に到
達し、未明に蔡州を支配していた呉元済を捕虜にしたこと。以上は奇道を用い
たものです。漢の武帝が南越国を攻めたとき、漢の郎中将の地位にあった唐蒙
は夜郎国に軍隊を出してもらい、牂牁江に沿って船で進み、番禺城下に至って、
南越国の不意をついたこと。三国時代、鄧艾が蜀国を攻めたとき、陽平から景
谷を経て木や岩を乗り越え、列をなして進み、江油に至って馬邈を投降させ、
綿竹に至って諸葛瞻を戦死させ、最終的に蜀国の皇帝である劉禅を降伏させた
こと。唐王朝末期、田令孜が黄巣軍の攻撃から潼関を守っていたとき、潼関の
左側は谷が険しくて備えをしていなかったのですが、黄巣軍の部将である林言
と尚譲はそこから侵入し、潼関を挟撃して潼関の守備兵が潰走したこと。以上
は伏道を用いたものです。
私がむかしの用兵のプロを見てみますに、一戦するときには正兵・奇兵・伏
兵の三者をすべて使って勝利しています。ましてや一国を攻め、一国を守って、
国家の安全保障を担う場合、この三者を知らない者を将軍にすることができる
でしょうか。
5 用間
孫武は「五間」(五種類のスパイ)を語ったあと、さらに「殷王朝が興ると
き、伊尹が夏王朝にいましたし、周王朝が興るとき、太公望が殷王朝にいまし
た。ですから、聡明な君主・賢明な将軍は、すぐれた智者をスパイとし、必ず
大きな成功をおさめます。これは軍事の要点であり、これに頼って全軍が行動
します」と言っています。『書経』によると、「伊尹は夏王朝に行きましたが、
夏王朝がよくないのを見て殷王朝の本拠地である豪に行きました」とあります。
『史記』によると、「太公望は紂王に服属していましたが、のちに紂王から離
れて周王朝に帰属しました」とあります。いわゆる「夏王朝にいた」「殷王朝
にいた」というのは本当ですが、伊尹と太公望がそこでスパイしていたとする
のは、どうしてでしょうか。湯王と文王はそれぞれ人を派遣して夏王朝と殷王
朝をスパイさせたのでしょうか。伊尹と太公望は人にかわってスパイとなった
のでしょうか。桀王と紂王はスパイしてから討伐すべきだったのでしょうか。
これは凡庸な人でも、そうじゃないと分かります。しかし、私は天下の存亡は
一人にかかっていたと思います。伊尹が夏王朝にいたとき、殷王朝を興した湯
王は、きっと「桀王は強暴だが、いったん伊尹を用いたなら、民心は再び安ら
ぎ、私はどうしてこれを憂えようか」と言ったはずです。そして、伊尹が湯王
のもとに来るのを待って、さらに「桀王は伊尹を任用できなかったが、桀王は
おしまいである。私は人民が苦しんでいるのに救わないことなどできない」と
言ったはずです。ここで湯王は天下の諸侯と連合して夏王朝を滅ぼしました。
太公望が殷王朝にいたとき、周王朝を興した文王は、きっと「紂王は強暴だが、
いったん太公望を用いたなら、国は再び立ち直り、私はどうしてこれを憂えよ
うか」と言ったはずです。そして、太公望が文王のもとに来るのを待って、さ
らに「紂王は太公望を任用できなかったが、紂王はおしまいである。私は天命
を無視することなどできない」と言ったはずです。ここで文王のあとを継いだ
武王は天下の諸侯を集めて合同で殷王朝を滅ぼしました。そうであれば、夏王
朝と殷王朝の存亡は、伊尹と太公望を用いるかどうかによって決まりました。
今、賢明な将軍に尋ねると、必ず「敵国の勝敗を予測できる」と言います。
その理由を尋ねると、必ず「大金を惜しまないので、人を派遣して死を恐れず
に敵国をスパイするようにさせられる」と言います。あるいは「敵国から使者
の発言から敵国の実情を探ることができる」と言います。ああ、それもわずら
わしいことです。伊尹と太公望がそれぞれ湯王と文王に帰属することで、夏王
朝と殷王朝の滅亡が確定しました。そして、伊尹と太公望は、湯王と武王にス
パイ活動の名とスパイ活動の労をなくさせ、スパイ活動の実を得させました。
これはすぐれた智者でなければ、だれができるでしょうか。
そもそも軍事は、いかに相手をだますかですが、正義にかなっているほうが
最後に必ず勝ちます。今、五種類のスパイを用いるときは、すべてが相手をだ
ますためですが、成功すれば有利になりますが、失敗すれば災難がふりかかり
ます。しかも、こちらが相手をだませば、相手もこちらをだまそうとします。
ですから、スパイによって勝てる人は、スパイによって負けることもあります。
こちらのスパイが不忠であれば、かえって敵に利用されますが、これが第一の
損失です。敵の実情をつかめないで、敵が流したウソの情報をつかんで、それ
を本当と思いこむ場合がありますが、これが第二の損失です。こちらから給料
をもらいながら、こちらの欲しがっている情報を得られないので、ウソの報告
をしてくる可能性もありますが、これが第三の損失です。そもそも正義に意を
注げば、いったん行動を起こしたときにはすべてがうまくいきます。しかし、
だますことに意を注げば、疲れるばかりでうまくいきません。これぐらいの知
恵しかないなら、その者は頼りになりません。
ですから、五種類のスパイは、聡明な君主と賢明な将軍の最上とする者では
ないのです。聡明な君主と賢明な将軍が最上とするのは、すぐれた智者のスパ
イ活動です。そういうわけで、韓信と陳平が義として楚国に仕えないで漢国に
仕えて、漢王の劉邦が楚王の項羽に勝つことが決定しました。また、趙国の部
将である李左車の建議は趙国に用いられず、魏国の将軍である周叔の建議は魏
国に用いられないで、韓信が作戦どおりに行動して成功することが決定しまし
た。ああ、これもまたスパイ活動の結果です。
6 孫武
なにをやらせてもゆきづまらないのは、天下の奇才です。天下の人で、とも
に軍事を語って、私が分かっていないことを言える人は何人いるでしょうか。
言って教えてもらおうとして、それにゆきづまらないで答えて言える人は何人
いるでしょうか。ただゆきづまらずに言えるだけでなく、実際にやってみてゆ
きづまらない人は何人いるでしょうか。ああ、実際にやったときにゆきづまら
ない人を、私はいまだに見たことがありません。
兵家は『孫子』十三篇を「先生」としています。私から言えば、その軍事に
ついての論述は非凡です。今、『孫子』が論じている奇策や密計は、神出鬼没
なものであり、古来より軍事に関する書物を著した人が到達できなかった見地
をもっています。そこから人は孫武の人となりを推測して、「臨機応変に敵に
対処できる才能をもっていた」と断言します。しかし、孫武が兵を用いたとき
には必ず勝てたわけではなく、その実際は書物で述べていることと大きくかけ
離れているということを知りません。呉王の闔閭が楚国を攻撃して、その首都
の郢を制圧したとき、孫武が呉軍の将軍となっていました。しかし、秦軍と楚
軍が連合して呉軍を攻撃して撃破し、越王の勾践が呉国に侵攻し、内憂外患が
まとめて発生しました。そのため、呉王はあわてて逃げ帰り、自分を守るので
手一杯であり、孫武は難局を挽回する妙案を一つも考えつきませんでした。
孫武の著書から孫武の過失を指摘するなら、それは三つあります。「九地」
に「威圧が敵に加えられれば、同盟は結びようがない」と言っていますが、孫
武は秦国に楚国の使者である申包胥の願いを聞いて、楚国への援軍を出すこと
を許しました。秦国は呉国を憎む心はなかったのですが、呉国の威圧が遠く秦
国まで及ばなかった結果です。これが過失の一つ目です。「作戦」に「軍隊を
長く暴れさせれば、兵士を弱らせ、士気を鈍らせる。兵力を消耗し、財政を浪
費すれば、諸侯がそれに乗じて攻めこんでくる」と言っていますが、孫武は闔
閭九年の冬に楚国への侵攻を開始し、闔閭十年の秋に撤退を開始していますが、
これは長く暴れさせたと言えます。越国が乗じるスキは十分にありました。こ
れが過失の二つ目です。さらに「敵を殺すのは、怒りである」と言っています
が、孫武は伍子胥と伯嚭が楚国の平王の墓をあばいて、その死体に鞭打って、
個人的な恨みを晴らすのを放置しました。それによって敵を激怒させ、そのた
め楚国の家臣である司馬戌・子西・子期は命にかえても呉国に報復しようと決
意しました。呉国を滅ぼした勾践は呉国の墓をあばかないことによって呉国の
人民を服属させましたし、斉国の将軍である田単は敵である燕軍を欺いて斉国
の墓をあばかせることによって斉国の国民を怒らせて斉軍の士気を奮い立たせ
ましたが、その智謀は孫武を上回っています。孫武はそこに達しなかったわけ
ですが、これが過失の三番目です。それに最初に呉軍が楚国の首都まで攻めこ
めたのは、伍子胥・伯嚭・唐国・蔡国が楚国に対する怒りを持っており、楚国
の宰相である子常が小国を搾取して恨みを買っていたからであり、孫武の功績
は微々たるものです。そもそも孫武は、みずから書物に著したことを実際に行
うことができないで、敗北を招きました。ましてや孫武の理論を真似するばか
りの人が名将となれるでしょうか。
呉起は孫武と同様の人物で、二人とも兵書を著しており、世間では孫呉と並
び称されています。しかし、呉起の軍事についての論述はと言うと、軍紀を軽
んじ、文脈にはまとまりがなく、孫武の著作が言葉は簡潔で内容は豊富であり、
天下の人が軍事を語るときの基本としているのにはかないません。しかし、呉
起は、最初に魯国で将軍に任用されたときには、斉国を撃破しましたし、次に
魏国に亡命して太守となったときには、秦国の脅威から魏国を守りましたし、
最後に楚国に亡命して宰相となったときには、楚国を再び覇者としました。こ
のように孫武の行為は呉起にかなわず、孫武の著作が十分には信用できないこ
とは明白です。
今、外では奴隷を使役させ、内では愛妾を使役させることは、普通の成人男
性ならだれでもでき、これは人に教えさせるまでもないことです。しかし、そ
の男性に大軍を使役させ、陣地にこもって固く守らせたときには、混乱してし
まうことがあります。そうなったときには、それは兵士の多さに惑わされてい
るのです。ですから、すぐれた将軍は、全軍の兵士を奴隷や愛妾と同じように
見ます。ですから、その心には常に余裕があります。そもそも一人の心で、全
軍の兵士を担任しながら、そのなかでゆったりと余裕を持っていられるという
のが、韓信が「多ければ多いほどよい」と言えた理由です。ですから、そもそ
も用兵には、どうして特別な術策が必要でしょうか。多数であっても気にせず
余裕を失わなければよいのです。
7 子貢
りっぱな人のあり方としては、知恵と信義が難関です。信義とは、知恵を正
しくするためのものですが、知恵は常に正しくないことに使われます。知恵と
は、信義を通じさせるためのものですが、信義は常に通じにくいものです。そ
ういうわけで、りっぱな人は、知恵と信義に対して慎重になります。世の儒学
者は「ただ知恵があるだけで成功できる」と言います。ただ知恵があるだけで
成功できると人が見なせば、一斉に信義を放棄します。私なら「ただ知恵があ
るだけで成功できるが、長続きはしない」と言います。
子貢は、斉国を乱し、呉国を滅ぼし、魯国を守りましたが、私はこれを悲し
く思います。子貢は、遊説家に過ぎず、かりそめに目先の成功だけを考え、や
りっぱなしでした。ですから、それがどのような弊害を引き起こすか分かりま
せんでした。もっとも凡庸な王侯貴族にそのようなことをさせたなら、すぐに
失敗したでしょう。私は、こう聞いています。王者の軍事活動は、万世を考慮
に入れて動きます。覇者の軍事活動は、子や孫の時代を考慮に入れて動きます。
強国の軍事活動は、一生を考慮に入れて動きます。長続きすることを求めてい
るのです。しかし、子貢の軍事活動はそのときだけのものです。
ですから、斉国が魯国を攻撃するのを阻止するために子貢が出発したとき、
魯国を存続させることは可能であり、しかも斉国は乱す必要がありませんでし
たし、呉国は滅ぼす必要がありませんでした。その理由は、こうです。田常は
斉国の王位を簒奪しようと思いましたが、有力者の高氏・国氏・鮑氏・晏氏が
邪魔だったので、彼らに出陣させて魯国を攻撃させることで、その勢力を弱め
させようとしました。このとき子貢は高氏・国氏・鮑氏・晏氏の家に行って哀
悼の意を示すべきで、そうすれば彼らは驚いて理由を尋ねてくるでしょう。そ
のときには、こう答えます。
「田常はあなたの軍勢に魯国を攻撃させようとしていますが、私はあなたの軍
勢が滅びようとしているのを哀悼しているのです」
すると相手は、その理由を必ず聞いてきます。そのときには、こう答えます。
「斉国に田氏がいるのは、ちょうど人が虎を養っているようなものです。そし
て、あなたが斉国にいるのは、ちょうど身体に手足がついているようなもので
す。田氏は長いこと斉国という肉を食べたがっています。しかしながら、いま
だに思い通りにできずにいるのは、手足が防ぐのを恐れているからです。今、
あなたは出陣して魯国を攻めようとしていますが、手足がなくなれば、田氏は
だれを恐れるのでしょうか。身体は食われてしまいますが、こうして身体が滅
べば手足も滅びます。それで私は哀悼しているのです」
これを聞けば相手は心配して対策を尋ねてくるでしょうから、こう教えます。
「あなたはすぐさま軍勢を率いて魯国に進攻して、国境を威圧するだけで軍隊
を停止させてください。私はあなたのために密かに魯国の君主に協力を約束さ
せて、田氏がクーデターを起こすのを待って、魯軍を率い、あなたに従って反
乱軍を討伐します」
相手は田氏のクーデターを心配して、自然の流れとして、こちらの言うこと
を聞かざるを得ません。そして、魯国に帰国して魯国の君主に協力の約束を求
めれば、魯国の君主は斉国の侵攻を恐れて、自然の流れとして、こちらの言う
ことを聞かざるを得ません。協力を決定したなら、兵士を訓練し、車上で査閲
して、時機を待ち、時機が来たら攻めこんで田氏を斬って新しい主人を擁立し
ます。すると、斉国は必ず魯国に感謝して、数世代に渡る利益となるでしょう。
孔子は田常に味方しない斉人が半数であると考え、それで魯国の君主である哀
公にクーデターを起こした田常を討伐するように進言するでしょう。今、本当
に魯軍を高氏・国氏・鮑氏・晏氏に協力させ、さらに斉国の半数を加えたなら、
田常を捕らえて公開処刑できます。この方法が優勢であることは間違いなく、
この方法が大成功することは間違いないのですが、残念なのは子貢がそうしな
かったことです。
前漢の時代、斉王の劉襄が挙兵して呂氏を攻撃しました。そのとき呂氏は灌
嬰を将軍とし、迎撃に行かせたのですが、灌嬰は栄陽に到着するや、すぐさま
斉王と諸侯に連絡を取り、時機を待って、共同で呂氏を討伐しました。今、田
氏の勢いは、これと同じです。このときの魯国は前漢時代の斉国のようなもの
であり、高氏・国氏・鮑氏・晏氏は灌嬰のようなものですが、残念なことは子
貢が私の述べたようにはしなかったことです。
8 六国
韓国・趙国・魏国・楚国・燕国・斉国の六国が秦国に滅ぼされたのは、武器
が不良だったからではなく、戦闘が下手だったからではありません。秦国に領
土や金品を賄賂として与えたのが悪かったのです。秦国に賄賂を贈って平和を
あがなって、六国の国力が削られていったのが、滅ぼされた原因です。
ある人は、こう言っています。六国が次々に滅んだのは、秦国にすべてを賄
賂として与えたということではないだろうか。
私は、こう言います。賄賂を贈っていない国は、賄賂を贈っている国によっ
て滅ぼされます。思うに、強国の支援を失い、独力で防衛できないからです。
ですから、「秦国に賄賂を与えたのが悪かった」と言うのです。秦国は戦争し
て領土を勝ち取る以外に、小さいものでは村を獲得し、大きいものでは城を獲
得しました。秦国が賄賂として手に入れたものと戦争して勝って手に入れたも
のとを比べれば、前者が後者の百倍に相当します。諸侯が賄賂として失ったも
のと戦争して負けて失ったものとを比べれば、前者が後者の百倍に相当します。
となると、秦国の大きな望み、諸侯の大きな憂いは、もちろん戦争ではありま
せん。各諸侯国の始まりを考えるに、諸侯の祖先は、たとえば霜露にさらされ、
イバラを斬るような苦労をして、わずかな領土を獲得しました。しかし、その
子孫は、そんな苦労を知らないで領土を惜しまず、たとえば雑草を捨てるかの
ように、まとめて人に与えています。今日は五の城を与え、明日は十の城を与
え、そうして一日の平和を得ています。しかし、翌朝、目を覚まして四方を見
渡すと、秦軍がさらに迫ってきています。そうであれば、諸侯の領土には限り
があり、暴虐な秦国の貪欲さには際限がありなせんが、秦国の要求にどんどん
応じれば、秦国の侵略はますますひどくなるので、戦わずして秦国が強くなっ
て勝ち、諸侯国が弱くなって負けることは明白です。諸侯国が滅亡に至ったの
も、もっともなことです。古人は、「領土を秦国に与えるのは、薪の束を火に
くべるようなもので、薪はなくなりませんし、火は消えません」と言っていま
すが、この言葉は至極もっともなことです。
斉国は秦国に賄賂を与えなかったのに、最後には五国に続いて滅ぼされたの
は、どうしてでしょうか。それは、斉国が秦国との関係を保って、五国を助け
なかったからです。五国が滅んでしまえば、斉国の滅亡を免れません。燕国と
趙国の君主は、最初は遠謀深慮をもっていて、領土をよく守り、義として秦国
に賄賂を贈りませんでした。そういうわけで、燕国は小国でしたが、滅ぼされ
るのが遅かったのです。これは武力を用いて講和に頼らなかった効果です。し
かし、燕国の公子丹が荊軻を刺客として秦国に送りこんだことから、燕国は秦
国に攻撃の対象とされました。趙国は五回にわたり秦国と戦争したのですが、
二敗して三勝しました。秦国は二回にわたり趙国を攻めたことがありましたが、
どちらとも趙国の名将である李牧によって撃破されました。その後、趙王は秦
国の策略にはまって李牧を処刑したのですが、これによって趙国は秦国に滅ぼ
されました。残念なのは、最後まで武力を使い続けられなかったことです。し
かも、燕国と趙国は、秦国が天下を取る直前にいて、大した力をもっていなか
ったと言え、戦って敗れたのも、当然のことです。もし韓国・趙国・魏国が領
土と引き換えに秦国に和を請うても、斉国が秦国に付き従わず、刺客が送られ
ず、名将が生きていれば、勝負の行方と存亡の決定については、秦国と六国を
比較してみて、どちらが勝ち、どちらが存するかは言いがたくなります。
ああ、領土を秦国に与えるかわりに天下の謀臣を雇用するのに用い、相手に
へりくだる心を秦国につくすかわりに天下の奇才を礼遇するのに用い、力を合
わせて秦国に立ち向かったなら、恐らく秦国は六国に食らいついても飲みこめ
なかったでしょう。悲しむべきことには、このような勢いをもっていながら、
秦国に力をつけさせて脅かされるようになり、日に領土を譲渡し、月に領土を
割譲して、滅亡への道をまっしぐらに進みました。国を治める者は相手に力を
つけさせて脅かされるようになるということがあってはなりません。
そもそも六国と秦国はすべて対等な諸侯の国で、その実力は秦国が一番でし
たが、六国は秦国に賄賂を贈らなくても秦国に勝てる勢いを持っていました。
もし天下をもっていながら、他国の下に立って六国が滅んだように他国に賄賂
を贈って一時の平和を得ようとするなら、六国より始末が悪いです。
9 項籍
私はかつて、こう論じたことがあります。項籍は天下を取る才能をもってい
ましたが、天下をとる思慮をもっていませんでした。曹操は天下を取る思慮を
もっていましたが、天下を取る器量をもっていませんでした。劉備は天下を取
る器量をもっていましたが、天下を取る才能をもっていませんでした。ですか
ら、三人は一生かけても成功できなかったのです。しかも、そもそも捨てるこ
とができなければ、天下の優勢を得られませんし、耐えることができなければ、
天下の利益を得られません。そういうわけで、土地には取ってはならない土地
もあり、城には攻めてはならない城もあり、勝ちには収めてはならない勝ちも
あり、負けには避けてはならない負けもあり、うまくいっても喜ばず、うまく
いかなくても怒らず、敵を天下に横行させて、ゆるやかに敵の背後を制してこ
そ、成功するのです。
ああ、項籍は百戦して百勝できる才能をもちながら、垓下で敗れて死んだの
も、おかしくありません。項籍の鉅鹿での戦いを見るに、項籍には先を考える
思慮もなければ、大きな度量もないことが分かり、あとから垓下で敗れて死ん
だのもうなずけます。項籍と劉邦はともに秦国へ進軍していましたが、項籍が
渡河したときには、劉邦はすでに秦国に入っていました。項籍がこのときにも
し軍を率いて秦国に急行し、士気が旺盛なときに戦ったなら、秦国の首都であ
る咸陽に拠点を置き、天下を制することができたでしょう。しかし、項籍はこ
ういった行動に出るべきことを分からず、一心に秦軍の将軍とつまらぬものを
めぐって戦い、鉅鹿で戦勝したあと、秦軍の掃討すべく河南と新安の間を行っ
たり来たりしました。秦国の国境の関所である涵谷関に着いたときには、劉邦
が咸陽を占領してから数ヶ月が経過していました。しかし、すでに秦人は劉邦
を信頼していて項籍を敵視していました。となると、自然な流れとして秦人を
力ずくで配下とすることは無理でした。ですから、項籍は、劉邦を咸陽から離
れさせて漢中に行かせても、すぐに自身も咸陽を離れて彭城に拠点を置くしか
なく、劉邦が秦国の故地をすべて奪えるようにしました。となると、天下の形
勢は劉邦の漢国に傾いており、項籍の楚国に傾いてはいませんでした。楚国は
百戦して百勝しましたが、それに一体どんなメリットがあったでしょうか。で
すから、「垓下の戦いで敗れる兆候は、すでに鉅鹿の戦いのときにあった」と
言うのです。
ある人が「項籍は必ず秦国に一番乗りできただろうか」と尋ねるなら、私は
こう答えます。項籍の叔父である項梁が戦死すると、秦軍の将軍である章邯は
「楚国はもはや心配するほどのものではない」と言って、それで軍勢を趙国に
向け、楚国を侮る心をもっていて、鉅鹿には優秀な将軍と精悍な兵士は鉅鹿を
去っていました。項籍が本当にもし決死の覚悟の兵士を使い、楚軍を侮ってい
る少なくて弱い敵軍を襲撃したなら、容易に秦国に侵入できました。それに秦
軍が涵谷関を守る場合と、劉邦軍が涵谷関を守る場合とでは、どちらが優勢で
あるかは一目瞭然ですし、劉邦軍が涵谷関を攻める場合と、項籍軍が涵谷関を
攻める場合とでは、どちらが優勢であるかも一目瞭然です。劉邦軍は項籍軍よ
りも弱かったわけですが、秦軍の守る涵谷関を劉邦軍は陥落させ、劉邦軍の守
る涵谷関を項籍軍は陥落させました。そうであるなら、秦軍の守る涵谷関を陥
落させて、項籍が秦国内に侵入するのは難しいでしょうか。
ある人が「秦国に一番乗りしたとしても、どうやって趙国を救援するのか」
と尋ねるなら、私はこう答えます。虎が鹿を捕らえたとき、熊が虎の巣にやっ
て来て、虎の子を襲ったなら、虎はどうして鹿を捨てて帰らないでしょうか。
虎が帰ってきたなら、熊にやられるのは明らかです。これは兵書に言う「敵が
必ず救うところ攻める」というものです。もし項籍が秦国に攻め入ったなら、
秦軍の将軍である王離と渉間は必ず趙国を攻めるのをやめて救援に向かいます。
項籍は秦国に拠点を置いて前から秦軍を攻撃し、趙軍と諸侯の急援軍が背後か
ら追撃すれば、まちがいなく秦軍を撃滅できます。これは項籍が一回の軍事行
動で趙国の包囲を解いて、しかも秦国を占領できるということです。戦国時代、
魏国が趙国を攻撃したとき、斉国が趙国の救援のために出兵しましたが、斉軍
の将軍である田忌は軍を率いて魏国の首都である大梁にまっすぐ攻めこみまし
た。それで趙国の首都である邯鄲を包囲していた魏軍はあわてて帰国し、こう
して趙国は救われました。かの宋義は軍事に精通していると自称していました
が、こういった「敵が必ず救うところ攻める」ということを分かっておらず、
安陽に駐屯して進軍しないで、「秦軍が疲弊するのを待つ」と言いました。し
かし、秦軍が疲弊する前に、劉邦が秦国を占領するのは確実です。項籍と宋義
はともに失態をしでかしたのです。
そういうわけで、昔の天下を取った人は、常にまず守るべきところを考えま
した。諸葛亮は荊州を放棄して蜀を取ったわけですが、それではどうしようも
なくなることは明白です。しかも、諸葛亮は蜀の大変な険しさを見もせずに、
剣閣関を使って守れば滅びないと考えました。私は蜀の険しさを見たことがあ
りますが、守れても攻めに出られず、攻めに出られても補給が続きません。び
くびくして守るだけで、しかもいかんともしがたく、どうして中原に覇を唱え
られるでしょうか。秦王朝から漢王朝の時代にかけての関中一帯は、肥沃な大
地が広がり、まわりを激しい河や大きな山に囲まれていて、本当に天下を制す
るのに有利な土地でも、本当に険しいところは足の置き場のない剣閣関だけは
ありません。
今、金持ちは必ず交通の便のよい都市にいて、その資金を天下に流通させて、
それから天下の利益を収めています。視野の狭い人は、いくばくかの金のもう
けると、家にしまいこんで、しっかりと守ります。ああ、これは失わないよう
にしようとしているだけで、富もうとしているのではありません。どろぼうが
来て、脅して奪っていっても、失ったことをだれも分かりません。
10 高祖
漢の高祖こと劉邦は、計算を行い、策略を用いて、重大な局面にうまく対処
した点では、陳平にはかないませんし、天下の形勢をおしはかり、あたかも指
を挙げ、目を動かすかのようにしてたやすく項羽を追いつめていった点では、
張良にかないません。この二人がいなければ、天下は漢王朝のものとはならな
いで、劉邦はと言うとただの武骨者で終わったでしょう。しかしながら、天下
が平定されたあと、劉邦の次代以降の政権構想については、陳平と張良は関与
せず、劉邦が常に率先して計画して実行しました。そして、それが劉邦の没後
の事件を処理するのに役立ったことは、その事件を劉邦が実際に目で見たかの
ようでした。思うに、劉邦の知恵は、大事には明るいけれど小事には暗いこと
が、今になって分かります。
劉邦は妻の呂后に、こう言ったことがありました。
「周勃は重厚であり、教養は少ないが、劉氏の天下を安泰にしてくれるのは周
没だろう。周勃を太尉(最高軍事長官)に任命せよ」
当時、劉氏の天下は安定しており、周勃はさらにだれを平定すればよかった
のでしょうか。そこで、私が思うに、劉邦が周勃を太尉に任命したのは、のち
に呂氏が反乱することを予知していたのでしょう。
それなのに、劉邦が呂后を退けなかったのは、どうしてでしょうか。昔、武
王が没したとき、あとを継いだ成王が幼少で、管叔・蔡叔・武庚が反乱を起こ
しました。劉邦は自分の死後に大臣や諸侯のなかに管叔・蔡叔・武庚のように
反乱を起こした場合、どうしようもないので、気の強い呂后を残して、強力な
臣下も弱い息子に逆らえないにするほかないと思ったのです。呂后は新皇帝の
恵帝を補佐して天下を安定させ、大臣らは呂后を恐れていたので、これだけで
大臣らの邪心を抑圧できて、恵帝が大人になるのを待ちました。ですから、呂
后を退けなかったのは、恵帝のためを思ってのことでした。
呂后を退けられなくなったので、その派閥を削って、その権力を減らし、呂
后がクーデターを起こしても天下が揺るがないようにしました。そういうわけ
で、呂后の妹の夫である樊噲には功績がありましたが、いったん決心したら、
ためらわずに除いたのです。ああ、劉邦は樊噲にだけ冷たかったのでしょうか。
しかも、樊噲は劉邦とともに挙兵し、敵城を占領し、敵陣を破壊し、その功績
はとても大きなものでした。鴻門の会で、范増が項羽に劉邦を殺させようとし
たとき、樊噲が飛びこんできて命がけで項羽を責めなければ、漢王朝を樹立で
きたかどうか不明です。しかし、劉邦は、樊噲が劉邦の愛人の戚夫人を滅ぼし
たがっていると人から聞くと、そのとき樊噲は出陣して燕国を攻撃していたの
ですが、ただちに陳平と周勃に樊噲を処刑するように命じました。しかし、そ
もそも樊噲の罪はいまだ明白ではなく、樊噲についての報告の真偽はいまだ不
明でした。劉邦が一人の女性のために天下の功臣を処刑できないことも明らか
でした。樊噲は呂氏から妻をもらったのですが、呂氏の一族の呂産や呂禄など
は、すべて凡庸で思慮が足りず、ただ樊噲だけが剛健であり、それは諸将も抑
えられないほどで、呂氏が漢王朝に反乱を起こしたときには樊噲こそが呂氏の
なかで漢王朝にとっての一番の脅威となりうる人物でした。そもそも劉邦は、
医者が菫草を見るような感じで、呂后を見ていて、菫草は毒をもっていますが、
その毒によって人の病気を治して、人を殺したりしません。樊噲が死ねば、呂
后の毒も人を殺せず、劉邦は樊噲が死ねば安心できると思いました。ただ陳平
と周勃は、呂后に憎まれるのを恐れて樊噲を殺さずに劉邦のもとに護送して、
樊噲は呂后によって助命され、劉邦の心配は消えないままで残りました。樊噲
が死んだのは恵王が即位してから六年目で、天寿をまっとうしました。樊噲が
早死にしなければ、呂禄をだまして軍権を奪うこともできず、周勃も北軍を掌
握できなかったでしょう。
ある人は、こう言っています。樊噲は劉邦に最も信任されており、長生きし
ていても、必ずしも呂産や呂禄と一緒に反乱を起こさなかったのではないでし
ょうか。そもそも韓信・黥布・盧綰は全員が王を称しましたが、盧綰も劉邦に
最も信任されていました。しかし、劉邦が死ぬ前に、全員が相次いで反乱を起
こして誅殺されました。だれが劉邦の没後、樊噲のような卑賤の身分から出た
人は、その親戚が勢いに乗じて皇帝の位についたとき、大いに喜んで新皇帝に
従うことはないと言うのでしょうか。ですから私は、陳平と周勃は樊噲を殺さ
ないことによって心配を後世に残したと言うのです