牛島辰熊、木村政彦、岩釣兼生、石井慧 | 覚書き

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牛島 辰熊

(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月10日 - 1985年(昭和60年)5月26日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。

明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。柔道史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪であった。

来歴
古流柔術で命を賭けた稽古

第2回全日本選士権を制し優勝旗を持つ牛島辰熊(1931年)
熊本県熊本市の製油業者の家に生まれる。元々は剣道を修行していたが、15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門した[1]。熊本では講道館柔道よりも、まだ古流柔術の方が盛んであった。

この肥後柔術三道場の対抗戦は、判定勝利はなく「参った」のみで勝負を決するもので、時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った[2]。これら古流柔術は柔(やわら)をあくまで武士の戦場での殺人武術だと位置づけていた。

まだ全日本選士権がない頃、実質的な日本一決定戦だった明治神宮大会を1925年から3連覇した。

第1回天覧試合で惜敗し準優勝
1929年に開かれた第1回天覧試合では予選リーグを得意の寝技でオール一本勝ち、決勝を武道専門学校教授の栗原民雄(後の十段)と争い、25分の激闘の末、惜しくも判定で敗れる[3]。

天覧試合は毎年開催されるものではなく、皇室の記念行事なのでいつ次の天覧試合が開かれるか分からないため、牛島は次に開催される天覧試合の雪辱を期し上京、皇宮警察、警視庁、東京商科大学(現・一橋大学)、学習院、拓殖大学の師範となった。

そしてこの年の夏から東京での更なる猛稽古が始まった。あちこちに出稽古に回り、1日最低でも40本の乱取りをこなした。稽古後は消耗して階段も昇れず、食事は粥しか喉を通らない。朝起きると手の指が固く縮こまって開かず、湯につけて暖めながら少しずつ伸ばすほどの凄まじい稽古量をこなしたという[2]。

当時最強の柔道家

引退の7年後、北京で中国相撲の王者に異種格闘技戦を挑みこれを破った(1941年)
これらの激しい稽古でさらに実力を伸ばし、全日本選士権ができてからも第1回大会(1930年)こそ東京府予選の決勝で曽根幸蔵の大外刈に苦杯を嘗めたものの、本大会出場を果たした第2回(1931年)・第3回(1932年)大会では連覇を達成。先の明治神宮大会と合わせ、現在で言えば全日本選手権を5度制した事になる、この時代を代表する最強の柔道家だった。

1934年、皇太子生誕記念の第2回天覧試合に出場。予選リーグで遠藤清に勝ったが菊池揚二と大谷晃に敗れ、リーグ敗退した。この時の牛島の敗戦は肝吸虫により体が衰弱しきっていた事が原因だったという。

「負けは死と同義」と公言していた牛島は即引退し、その後は私塾「牛島塾」を開いて木村政彦、船山辰幸、甲斐利之、平野時男らを育てる名伯楽となった。

人物
柔道スタイル
得意技は内股、背負い投げ、横四方固。特に寝技を得意とした。

当時、高専大会で連覇を続けていた高専柔道の強豪・旧制第六高等学校に通ってその寝技技術を磨いた。「柔道はあくまで武術である。武士が戦場で刀折れ矢尽きたあとは、最後は寝技によって生死を決するのだ」と語ったとされる。

鬼の牛島
その柔道の荒々しさ、性格の豪放さは語り草で、「鬼の牛島」「不敗の牛島」と謳われ[1]、対戦相手からは「猛虎」と恐れられた[4]。鷲のような鋭い眼光で、睨まれるだけで射すくめられたという。

朝は60kgあるローラーを牽きながら走り込み、夜は裸で大石を抱え上げて筋肉を鍛えた。さらに茶の葉を噛んで自身を奮い立たせ、大木に体当たりを繰り返した。そして仕上げはその大木に帯を縛り付けて背負い投げ千本の打ち込みをした。

試合前夜にはスッポンの血を飲み、当日はマムシの粉を口に含んで試合場に上がる。開始の合図と同時に突進して相手に躍りかかり、徹頭徹尾、攻めて攻めて攻め続ける。この攻撃精神が牛島柔道の信条であり、愛弟子の木村政彦にも受け継がれている。

1934年の皇太子生誕記念天覧試合では試合前から肝吸虫に体を冒され、体重が9kgも減って歩く事すらままならない状態だったが、精神力でカバーするために洞窟に籠もって1カ月間そこで坐禅し、宮本武蔵の『五輪書』を朗唱して試合に備えた。体が動かぬのを精神で補おうという決意であったが、結局牛島は敗れてしまった。この病気さえなければ間違いなく優勝は彼だったとも言われている。

木村政彦の師として

牛島辰熊と木村政彦
牛島は自身が叶えられなかった天覧試合制覇を制すために有望な選手を探す。見つけたのが母校の旧制鎮西中学校の後輩木村政彦であった。

木村を拓殖大学予科に引っぱり自宅で衣食住の面倒をみながら激しい稽古をつけ、不世出の柔道王・木村政彦を育てた[注釈 1]。

1940年の第3回天覧試合に向けて、木村は毎日10時間をこえる稽古を繰り返し、牛島も木村の優勝を願って毎夜水垢離をして、牛島の悲願であった天覧試合制覇がなされた。その激しい師弟愛は「師弟の鑑」と賞賛された。

「鬼の木村」の称号は、師匠牛島から受け継がれたもので、牛島も木村の事を晩年まで気に掛けていた。“昭和の巌流島”と呼ばれた木村と力道山との戦いでは、木村が敗れると真っ先にリングに駆け上がり、また、会場を去る木村に寄り添う牛島の映像が残されている。妻や娘に「なぜあの時リングに上がったのですか」と聞かれ、「木村の骨を拾えるのは俺しかいない」と目を潤ませながら語った[2][5]。

東條英機暗殺計画
思想家としての顔も持ち、戦中、石原莞爾、加藤完治、浅原健三らと交遊を持つ。

牛島と木村政彦は東條英機暗殺、東條内閣打倒を企てた陸軍の津野田知重少佐の計画に参加する。これには石原莞爾も大いに賛同する。計画は、東條が乗っているオープンカーに向けて、皇居二重橋前の松の樹上から青酸ガス爆弾を投げ付けて東條を暗殺するというものであった。しかし、賛同していた三笠宮崇仁親王に津野田が計画の詳細を打ち明けたところ、東條の暗殺までは容認できなかった三笠宮が憲兵隊に通報したため津野田と牛島は逮捕された。両名は軍法会議によって裁かれたが、結審が東條内閣崩壊後である1945年3月であったため、津野田は陸軍から免官のうえ、禁固5年、執行猶予2年で釈放。牛島は不起訴。石原は軍法会議に召喚されて始末書の提出のみで終わった。

後に空手家の大山倍達が牛島を慕うようになる[注釈 2]。

プロ柔道旗揚げ
戦後、東亜聯盟の役員のため公職追放となる[6]。牛島は、GHQによる武道禁止で武道が廃れていくのを嘆き、柔道家が生活できる基盤をつくるために1950年、国際柔道協会(いわゆるプロ柔道)を旗揚げした(のち解散)。

晩年もその力は衰える事はなく、50歳を越えた牛島が寝業の出稽古で明治大学に赴いた際も、同大学のエース的存在であった神永昭夫を子供扱いしたといわれる[7]。

亡くなる前年の1984年に講道館100周年を記念して九段に昇段したが、柔道殿堂においても十分な実績を残していることからすれば、実質的な最高段位である十段に昇っても不思議はなかったという声もある[注釈 3]。

脚注

ウィキメディア・コモンズには、牛島辰熊に関連するカテゴリがあります。
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注釈
^ 木村政彦著『わが柔道』によれば、講道館の紅白試合で8人抜きし技量抜群で5段に昇段した木村が、喜び勇んで牛島にこれを報告すると「試合は武士の真剣勝負と同じだ。貴様は戦場で8人倒し、9人目で殺されたのだ」と怒鳴りつけ、木村に鉄拳制裁を加える程だったようである。
^ 木村政彦の師である牛島は、思想家としての顔があり、大山は牛島の極右思想に惹かれていた。
^ 牛島と同年代で、福岡・熊本県対抗団体戦では同じ熊本県代表メンバーとして活躍した小谷澄之は、晩年に十段に列せられている。
出典
^ a b 『唯我独創の国から』 第4章 時代の波にのまれながら -刀折れ矢尽き、なお闘う 柔道家牛島辰熊-(西日本新聞文化部、2000年10月)
^ a b c 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也(新潮社)
^ 『昭和天覧試合』講談社
^ TV特番『君は木村政彦を知っているか』
^ 『君は木村政彦を知っているか』(2000年にテレビ東京で放映されたドキュメント番組)
^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、705頁。NDLJP:1276156。
^ 『続・柔道一代』近代柔道2006年2月号、今村春夫(ベースボール・マガジン社)
参考文献
宮内省監修『皇太子殿下御誕生奉祝 昭和天覧試合』、大日本雄弁会講談社編
増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)
「ゴング格闘技」で連載された、牛島と木村の師弟愛を描いたノンフィクション小説。戦前・戦中・戦後と、歴史に翻弄されていく鬼の師弟。しかしそこには強い師弟の絆があった。
『君は木村政彦を知っているか』
2000年に毎日放送が制作した約90分のドキュメンタリー番組。オープニングはヒクソン・グレイシーと船木誠勝の試合。そして木村とエリオ・グレイシーの試合。

 

・木村 政彦

(きむら まさひこ、1917年(大正6年)9月10日 - 1993年(平成5年)4月18日)は、日本の柔道家・プロレスラー。段位は講道館柔道七段。「鬼の木村」の異名を持つ。

全日本選手権13年連続保持[注釈 1]、天覧試合優勝も含め、15年間不敗のまま引退[注釈 2]。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」[注釈 3]と讃えられ、後々にも史上最強の柔道家と称されることが多い。身長170 cm、体重85 kgと小兵ながら、トレーニングにより鍛え抜かれた強靭な肉体、爆発的な瞬発力、得意技である切れ味鋭い大外刈りのスピードとパワー、高専柔道で身につけた寝技技術、またこれらを支える一日10時間を越える練習量と柔道に命を賭す強靭な精神力を武器に15年間不敗を成し遂げた[1]。


幼少時からの来歴
柔道家時代
10歳から竹内三統流柔術を修行
熊本県飽託郡川尻町(現・熊本市南区川尻)出身。幼少のころより、父親の仕事場である加勢川の激流の中で、ザルを使っての砂利取り作業を手伝い、強靱な足腰を育てたとされる。

10歳で古流柔術の竹内三統流柔術道場に通い始め、出稽古も含め1日に5時間を超える練習量で実力をつける。段位は四段まで大日本武徳会から受けた。旧制鎮西中学(のちの鎮西高等学校)4年(戦後の高校1年の年齢)には講道館四段を取得。全国大会では大将として鎮西を率い、各種大会で圧倒的な強さで優勝に導き、「熊本の怪童」「九州の怪物」と全国にその名を轟かすようになる。

牛島辰熊に見いだされ拓大へ

木村の師匠の牛島辰熊
1935年、同じ旧制鎮西中学OBであり、拓殖大学の師範を務めていた「鬼の牛島」の異名を持つ牛島辰熊の東京の自宅「牛島塾」に引き取られて激しい稽古を受ける。さらに1人で出稽古に回り1日10時間という練習量をこなし強さを磨いた。牛島は寝技が強く、また、乱取り中頻繁に当身(パンチ)を使ったという[注釈 4]。牛島は全日本を5回制覇したが、天覧試合には病気で勝てなかった。そのため、弟子の木村にその夢を託したという。

右翼としての顔を持っていた牛島は東條内閣に批判的な石原莞爾と親交があり、1941年、石原が賛同していた津野田知重の東條英機暗殺計画に参加する。木村はその実行を担当する予定だった。しかし倒閣に賛成していた三笠宮崇仁親王が、計画の過激化を恐れ密告したことにより失敗に終わった。

1936年、学生柔道の団体戦として最もレベルの高い高専柔道[注釈 5]大会に大将として出場し、拓大予科を全国優勝に導いた。また、木村は非常に研究熱心であり、拓大予科時代に「相手の腕を帯や道着を使って縛って抑える」という当時としては斬新的な技術を開発した[要出典]。世界中でこの技術は活用されている。また寝技だけでなく、立技から引き込み返しを掛けながらの腕緘、相手が自分の帯を握って頑張っている時に一度逆に振って腕緘に極める方法も木村が考案した[要出典]。

全日本選手権連覇と天覧試合優勝
全日本選手権の前身ともいえる日本選士権を1937年から3連覇し、さらに1940年に行なわれた紀元二千六百年奉祝天覧武道大会でも5試合をすべて一本勝ち[2]という圧倒的な強さで優勝した(決勝戦の相手は石川隆彦)。この後も大小大会含め無敗だったものの、第二次世界大戦勃発後の1942年に兵役で柔道を離れざるを得なくなった。しかし終戦後は、1947年7月1日に開催された西日本柔道選手権大会に出場するや、決勝リーグで吉松義彦、松本安市を破り優勝を飾って“木村の不敗常勝”を見せつけたほか、翌1948年3月15日の全関西対全九州の試合でも、全九州軍の一員として優勝に貢献した[注釈 6]。1949年の全日本選手権[注釈 7]でも、ブランクを感じさせず圧倒的な強さで優勝。全日本選手権13年連続保持という驚異的な記録を残している[注釈 8]。

木村の練習量

木村政彦23歳の全盛時代(1941年)
木村の練習量にはその激しさから、様々な逸話定評がある。

元々木村は他の選手の倍の6時間から7時間練習していたが、絶対に勝利するために辿り着いた結論が「3倍努力」である[1]。
拓大に入ってからの木村の練習量は10時間を超えた。拓大での稽古だけではなく、他大学や警視庁、皇宮警察などを回って乱取り稽古をしていた。乱取り(スパーリング)だけで毎日百本をこなした。その後バーベルを使ったウェイトトレーニング、巻き藁突きを左右千回ずつした[1]。
夜になると、師の牛島にならい大木に帯を巻いて一日1000回打ち込みをし、遂にはその大木を一本枯らしてしまった。打ち込みを繰り返すうちに木村の背中の皮は擦り剥けては治るの繰り返しで踵のように分厚くなったという。
「寝ている時は練習をしていない」と考え、睡眠時間を3時間にし、しかも睡眠中にもイメージトレーニングをしていた。睡眠不足のぶんは授業中に寝ていたという[3]。
剛柔流空手と松濤館空手の道場にも通い打撃技を習っていた。特に剛柔流空手においては、師範代を務めるほどの腕だった。
戦後は米兵のヘビー級ボクサーとスパーリング中心の練習をこなしてボクシング習得にも挑戦した。
桁外れのパワー
木村は師の牛島と共に、本格的にウエイトトレーニングを行い抜群の筋量とパワーを誇った[注釈 9]。そのトレーニング方法は、単に高重量を扱うだけではなく、例えば100 kgのベンチプレスを1時間1セットで何度も繰り返す、仕上げに腕立て伏せを1000回行うなどといった非常に激しいものだった[注釈 10]。その鍛え抜いたパワーは、障子の桟の両端を持って潰すことができ、太い鉛の棒を簡単に曲げたという。また、夏の暑い日、師匠の牛島が木村に団扇で扇いでくれと言うと、木村はその場にあった畳を持ち上げ、それを扇のように仰いで牛島を驚かせた。そして両腕を伸ばした状態で肩から手首に掛けて100 kgのバーベルを転がすこともできたという[注釈 11]。 また、都電に乗った際、悪戯で吊革のプラスチック製の丸い輪を五指で鷲掴みにし、端から順に割っていくことがあった[1]。 その他に乗り遅れた弟子のために走り始めた都電の後ろにある牽引用の取っ手を掴んで引っ張り、電車を停車位置に戻してしまったこともある。弟子たちはそれを見て唖然としたという[1]。

柔道スタイルと得意技
立技の得意技は強烈な大外刈で[注釈 12]、寝技ではあらゆる体勢から取ることができる腕緘であった。講道館での出稽古ではあまりに失神者が続出するので木村の大外刈は禁じられ、後には脱臼者が続出するという理由で腕緘も禁じられたという。木村の大外刈は、自分の踵で相手のふくらはぎを打つように掛けるもので、一種の打撃技、蹴り技の風体をなしていた。170 cmで85 kgの体格は当時としても柔道家としては大きな方ではなかったが、長身選手の得意技とされる大外刈を実戦的な技として駆使した。また、高専柔道で培った寝技も大きな武器としており、絞め技・抑込技も得意としていた[1]。

負けたら腹を切る
木村の精神力の強さには定評があるが、その最たるものとして「負けたら腹を切る」がある。試合前夜には短刀で切腹の練習をしてから試合に臨んだとされ、決死の覚悟で勝負に挑んだという。最終的に15年間無敗でプロに転向したため、切腹は免れた。

プロ柔道家時代
牛島が国際柔道協会旗揚げ
1950年2月、内定していた警視庁の柔道師範の話を断り、師匠の牛島辰熊が旗揚げした国際柔道協会いわゆるプロ柔道へ山口利夫、遠藤幸吉らと共に参加する。4月16日には後楽園でプロ柔道としての初試合を行い、トーナメントを勝ち抜き優勝する。プロでも木村は1度として敗れず、連勝を重ねていった。

その後プロ柔道は地方巡業に出るが、客足は次第に衰え、またスポンサーの経営不振も重なり、給料も未払いの状態が続いた。時を同じくし、妻が肺病に侵されたため、治療費を稼ぐ必要に迫られた木村は、告訴される事も承知で国際プロ柔道協会を脱退し、夜逃げ同然にハワイへと渡航した。これは現地の日系実業家によるハワイ諸島での柔道巡業の要請に応じてのものであり、高額の報酬が目的であった。なお、協会の主力選手であった坂部保幸と山口利夫が木村に同調し脱退したため、国際プロ柔道協会はすぐ後に消滅している。ハワイでの巡業では、腕自慢の飛び入りを相手にしたり、10人掛けといったものであったが、現地ではこの興行が人気を博した。そして契約の3か月任期満了の近く、この人気に目をつけたプロレスのプロモーターに誘われ、木村と山口はプロレスラーに転身した。

エリオ・グレイシーとの死闘

袈裟固めでエリオの首を締め付ける木村。
1951年、サンパウロの新聞社の招待で、山口利夫、加藤幸夫とともにブラジルへ渡る。プロレス興行と並行して現地で柔道指導をし、昇段審査も行った。

同年9月23日、加藤幸夫が現地の柔術家エリオ・グレイシー(ヒクソン・グレイシーやホイス・グレイシーの父)に試合を挑まれ、絞め落とされ敗北する。エリオは兄のカーロス・グレイシーが前田光世より受け継いだ柔道に独自の改良を加え寝技に特化させたブラジリアン柔術の使い手であった。エリオは加藤だけではなく、木村がブラジルに来る前から日系人柔道家たちを次々と破り、ブラジル格闘技界の雄となっていた。その結果を受けて、木村は10月23日にリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムでエリオと対戦した。ルールは以下。

投技での一本勝ちは無し。ポイント無し。抑え込み30秒の一本も無し。決着は「参った」(タップ)か絞め落とすこと。
木村はエリオの細身の体格を見て「3分持てばあちらの勝ちでもよい」といいのけるほどの余裕を持って試合に臨んでいた。エリオも木村との圧倒的な実力差を承知しており、兄のカーロスも弟に試合前に関節技が極まったらすぐにタップするようにと念を押して約束させ、棺桶まで用意したという決死の覚悟で挑んだ。木村は2Rで得意の大外刈から腕緘に極め、エリオの腕を折った(脱臼等の暗喩ではなく紛れもなく「骨折」である)。しかしエリオはカーロスとの約束を無視して強靭な精神力でギブアップせず、木村も骨折したエリオの腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた。会場が騒然とする中ついに試合開始から13分後、セコンドのカーロスがリングに駆け上がりギブアップをしないエリオの代わりに木村の体をタップ。代理のタップのため審判と揉めるも、既に決着は付いていると双方認めたため木村の一本勝ちで決着となった。また、木村の柔道の試合の映像は残っていないので木村の真剣勝負で映像が残っているのはこの試合が唯一である[4]。後年に木村はエリオの事を「何という闘魂の持ち主であろう。腕が折れ、骨が砕けても闘う。試合には勝ったが、勝負への執念は…私の完敗であった」とその精神力と、武道家としての態度を絶賛している。なお、腕緘がブラジルやアメリカで「キムラロック」あるいは単に「キムラ」と呼ばれるのは、この試合が由来である。エリオが木村の強さに敬意を払い名付けたとされる。

激闘から半世紀の歳月が流れた1999年の秋、エリオは『PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦』に出場する息子ホイスと共に記者会見に出席するため初来日を果たした。その際、講道館を訪問して資料室を見学し、既に故人となっていた木村の写真を見て目に涙を浮かべ、「日本に来られて本当に良かった」と語ったという[5]。2009年、エリオは95歳でその生涯を終えたが、晩年には「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家・木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある」と語っている。グレイシー博物館には、木村と戦った時に着た道衣が飾られている[6]。

プロレスラーへの本格的転身
木村 政彦
プロフィール
リングネーム    木村 政彦
マサ・キムラ
(Masa Kimura)[7]
本名    木村 政彦
ニックネーム    柔道の鬼[8]
身長    172cm[8]
体重    92kg[8]
誕生日    1917年9月10日[7]
死亡日    1993年4月18日(75歳没)[7]
出身地    日本の旗 日本
熊本県飽託郡川尻町
スポーツ歴    柔道
デビュー    1950年[8]
引退    1957年[8]
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帰国した木村はプロレスラーとして力道山とタッグを組み、1954年2月19日にはシャープ兄弟と全国を14連戦した[注釈 13]。試合は日本テレビ、NHKによって初めてテレビ中継された。しかし、このシャープ兄弟とのタッグ戦において、木村は毎回フォールを取られるなど引き立て役とされたことに不満を募らせ、朝日新聞紙上で「(力道山相手にも)真剣勝負なら負けない」と発言した。この記事に力道山は激怒して結果としてプロレス日本一をかけ「昭和の巌流島」と称して両者が戦うこととなった。だが、この戦いで木村政彦は謎のKO負けとなり一線を退くこととなる。

力道山との試合、謎のKO負け
この試合は、力道山側によるレフェリー「ハロルド登喜」の選定、木村側のみ当身禁止(力道山は空手チョップのみ使用可)という力道山側に有利なルールで行われた[1]。 木村側の証言[注釈 14]によれば、本来この試合は、あくまで勝敗の決まったプロレスであり、東京をはじめ、大会場で両者勝敗を繰り返しながら全国を巡業する予定であった。しかし、初戦で力道山がその約束を反故にして突如と殴りかかり、戸惑った木村がKOされたとされる[9]。

現存しているビデオ映像(木村有利の場面はカットされている)[1]では、以下の流れが確認できる。

力道山が金的蹴りをアピールした後、右ストレートで木村の顎に見舞う。その後、張り手を連打するが、木村がタックルに行ってそれを防ぐ。
タックルによるクリンチをロープブレイクで分けられた後、レフリーに金的蹴りの注意を受け、試合再開の合図前に力道山が攻勢に入る。
力道山、顔面に左掌底、テンプルに右張り手、右前蹴りをみまい、再度木村がレフリーに向かって抗議している間にも力道山が再び前蹴り。これを木村が両手で防御するが、頭部が開いたところにテンプルへの張り手が入り最初のダウン。
座り込んだ木村に力道山がフロントチョークを狙うが決まらずも、顔面キック2発を当てて木村が四つ這いになったところ、後頭部から頸部当たりを踏みつける。
木村、何とか持ち直すも、力道山の右張り手が頚部に、続けて左張り手が顎に入ったところで昏倒。
この試合においての木村の敗北は、「プロレスを甘く見ていた結果」と「力道山側の騙し討ち」といった両方の見方がある。その後、木村と力道山の再試合が組まれることは無かった。さらに後日、それぞれの後ろ盾の暴力団同士の仲介[注釈 15]で、手打ちが決まり和解することとなった。後に木村は、プロレスラーとしての活動は乗り気ではなく、力道山の引き立て役を嫌がっていたことを証言している。また、屈辱的な敗戦の後に力道山と金銭で和解したのは、すべて妻の結核が理由であり、アメリカ製の高価な薬ストレプトマイシンの費用を捻出するためであると語っている。なお、この薬のおかげで妻は命を取り留めた。作家時代の猪瀬直樹は、晩年の木村を取材した結果、本人から「力道山は俺が呪い殺した」という趣旨のコメントを得ることができた[10]。

エリオ・グレイシーの元弟子とバーリトゥードで対戦
1959年、ブラジルの先輩(矢野武雄)からの手紙で、グレイシーの弟子との対戦のためブラジルに旅立つ。 エリオ・グレイシーの元弟子であるヴァルデマー・サンタナ(英語版)と、決着は「参った」(タップ)か絞め落とす、の柔道ジャケットマッチで二試合戦い二連勝[1]。 サンタナに裸でバーリトゥード(グローブ無しの打撃あり)で戦いたいと要求され戦う。前々日に左膝を痛めてまともに歩けない状態だった。しかし、試合内容で圧倒し、逃げるサンタナを叩き続けたが、結局40分引き分け。翌日の地元新聞各紙は「サンタナは片脚の木村に負けた」と揶揄する論調だった[1]。

再び柔道家に
1961年、再び柔道界に戻り、拓殖大学柔道部監督に就任。のちに全日本柔道選手権大会覇者となる岩釣兼生らを育て、1966年には全日本学生柔道優勝大会で拓殖大学を優勝に導いた。

1983年、拓殖大学柔道部監督を勇退する。

1985年出版の著書『わが柔道』の山下泰裕との対談では、物議を醸した1980年の山下と遠藤純男との試合は「明らかに君(山下)の負け」としたうえで、「強いんだから全日本選手権を10連覇しなさい」と述べる。

1993年4月18日、大腸がんのため75歳で死去。墓地は、故郷熊本市南区野田の大慈禅寺にある。

死後の評価
戦後、食べていけない時代にプロ柔道に参戦したこと、さらにプロレスラーに転向して力道山と不可解な謎の試合を行い、これに敗れたため、講道館をはじめ戦後の柔道界は木村の存在そのものを柔道史から抹殺し、柔道・プロレス・及び格闘技マニア以外にその名を知る者はいなくなっていった。

しかし、2011年に出版された評伝『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)で木村の名前は一気に一般世間に知られるようになった。さらにこの作品は原田久仁信の作画により漫画化され、幅広い層の読者たちが木村政彦の存在を知るようになってきている[注釈 16]。

また海外では1993年の第一回UFC以降、総合格闘技やブラジリアン柔術の世界的に普及し、寝技技術においてキムラロック(柔道における腕絡み)はグローバルにネーミングとして定着しており、世界の格闘技史に名を刻んでいる。

史上最強の称号
15年間不敗、また関係者からの圧倒的な評から、木村はしばしば史上最強の柔道家と評価される。

同じく、史上最強と評価されることもある山下泰裕と木村両方の全盛時代を知る広瀬巌(1941年の日本選士権覇者)は、「今、山下君が騒がれているけれど、木村の強さはあんなものじゃなかったよ」と言い、1948年の全日本選手権を制し東京五輪監督も務めた松本安市は「絶対に木村が史上最強だ。人間離れした強さがあった。ヘーシンクも山下も含めて相手にならない」と語っている[11]。

前三角絞めの開発者として有名な高専柔道出身の早川勝(旧制六高OB)は「比べものにならない。山下君もたしかに強いけども、僕らの時代は木村先生と何十秒間試合できるかというのが話のタネだった」と語っている[11]。同じく両者の全盛時を見ている柔道新聞主幹の工藤雷介は「技の切れ、凄さからすればやはり木村君だ」と評している。直木賞作家の寺内大吉も「戦中の木村柔道をぼくはほんの二試合ほどしか見ていないが、それでも『鬼の政彦』を実証する強さだった。もちろん比較はできないが山下泰裕より遙かに上位をゆく豪力であったと思う」と語っている。

拓大に留学経験があり、四十歳代の木村と乱取りもしているダグ・ロジャース(東京五輪重量級銀メダリスト)は、「今の柔道家では木村先生に勝てません」「ヘーシンクとルスカですか。彼らでも無理ですね」と語る[1]。木村の愛弟子で全日本選手権覇者でもある岩釣兼生は、現役時代に50歳の木村とやっても寝技ではまったく歯が立たなかったとし、「木村先生のパワーにはぜんぜん敵わないと思いますよ。山下君にも間違いなく腕緘を極めるでしょう。これは断言できます。私でもロジャースでも寝技でぼろぼろにやられましたから」と発言している。

同じく木村に稽古をつけてもらった弟子蔵本孝二(モントリオール五輪軽中量級銀メダリスト)は「(山下とは)ぜんぜん問題にならないです。立っても寝ても腕緘一発です」としている。 蔵本はほかに「僕が五輪や世界選手権で戦った選手たちより五十代の木村先生のパワー、圧力のほうが ずっと強かったですから。現役時代の強さは想像もできないですよ」と述べている[1]。

拓殖大学の後輩で[注釈 17]極真空手の創始者である大山倍達も実際に木村の試合を観戦しているが「木村の全盛期であればヘーシンクもルスカも3分ももたないと断言できる」と述べている[12][注釈 18]。

木村自身の著作
『柔道とレスリング』 鷺ノ宮書房、1955年。
『スポーツグラフィック -柔道教室-』 鶴書房、1968年。
『ワイドスポーツ -柔道の技-』 鶴書房、1968年。
『鬼の柔道 -猛烈修行の記録-』 講談社、1969年。
『柔道の技 基本技に立返ろう』 鶴書房、1976年12月。
『柔道 実践に役立つ技の研究』 鶴書房、1978年11月。
『柔道教室 基本動作と技の変化』 柏書房、1985年1月。
『わが柔道』 ベースボール・マガジン社、1985年1月。 ISBN 4583024576
『わが柔道 - グレイシー柔術を倒した男』学習研究社、2001年11月16日。 ISBN 4059020540
その他
木村は酒豪であり、晩酌には最低三升、多いときには五升から六升も飲んだという。

ブラジルにkimuraという柔術衣メーカーがあった。衿の硬いことで知られる。

注釈
[脚注の使い方]
^ 昭和12年 - 昭和14年の全日本選士権優勝。翌15年は全日本選士権の代替として開催された昭和天覧試合優勝。戦中戦後に全日本選手権は中止され昭和24年の全日本選手権で優勝し、全日本選手権を1度も明け渡すことなく13年間連続保持した。
^ 昭和11年の阿部謙四郎戦以来、プロに転向する昭和25年まで1度も負けていない。
^ 言葉の発祥には白崎秀雄か富田常雄か両者の説がある。
^ 牛島は木村に馬乗りになり「もっと強くなれ」と泣きながら鉄拳を振り下ろし、木村が亀になると絞め技で落としたという。
^ 当時、高専柔道の寝技のレベルは非常に高かったとされる。後の木村の寝技の強さは、この高専柔道で磨かれた。
^ 個人戦では、決勝戦で松本安市と九州同士の顔合わせとなり、松本の流血により痛み分け(無勝負)となった。
^ 大会は太平洋戦争の影響で戦中と戦後の数年間中止されている
^ この1949年の全日本選手権では他の選手たちは猛稽古を重ねて打倒木村を目指していたが、木村の方は家族を食わせるために闇屋などをやり、練習不足中での優勝だった。
^ 上半身裸の写真にも逞しい肉体が確認できる。
^ のちにこのようなトレーニング方法はオーバーワークとして否定されている。
^ ベンチプレスは250 kgに達し、スナッチでもオリンピックの重量挙げ代表より重い重量を扱えたとさえされる。
^ その強烈さに、食らえば相手が畳に後頭部を打って必ず失神したという。
^ リングサイドで木村を見守る牛島の姿も確認されている。
^ 晩年、木村はNHK福岡の取材に応じて「最初の試合は引き分けで、次回からは順番で勝敗を決めるという話だった。」と証言している。
^ この試合が行われた1950年代当時の日本では、暴対法のような暴力団に毅然とした態度で臨むような法整備も不十分であった。また太平洋戦争終結からまだ10年しか経過していないため、戦後の混乱に乗じた暴力団が表社会で堂々と影響力を行使できた世相でもあった。
^ 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』は、朝日新聞や日本経済新聞、読売新聞、週刊文春や週刊新潮などが書評で取り上げた。
^ ただし、拓大学務課や学友会によれば大山が拓大に在籍していた形跡はないという(大山倍達正伝 新潮社 2006年 p.116)
^ ただし、この発言が梶原の創作か大山の発言かは不明。
出典
[脚注の使い方]
^ a b c d e f g h i j k l 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社
^ 皇紀2600年記念奉祝天覧武道大会における木村政彦七段について
^ 『KARATE』1987年12月号塩田剛三との対談
^ 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、日本(原著2011年9月30日)。
^ 近藤隆夫『グレイシー一族の真実 すべては敬愛する工リオのために』文庫版あとがき
^ “グレイシー博物館”. グレイシー柔術アカデミー. 2015年8月5日閲覧。
^ a b c “Masahiko Kimura”. Wrestlingdata.com. 2023年8月15日閲覧。
^ a b c d e 『THE WRESTLER BEST 1000』P320(1996年、日本スポーツ出版社)
^ 報知新聞12月23日付、スポニチ12月23日付には力道山が突如木村の胴へ右足裏での飛び蹴りを浴びせた旨が記されている。
^ 猪瀬直樹『禁忌の領域・ニュースの考古学2』(文藝春秋)
^ a b 増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」『ゴング格闘技』 2008年11月号
^ 梶原一騎『空手バカ一代』7巻、講談社
参考文献
木村政彦『わが柔道』ベースボール・マガジン社、1985年1月。ISBN 4583024576
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社) - 木村政彦の伝記。2012年4月、第43回大宅壮一賞を受賞
関連項目
柔道家一覧
国際プロレス団

外部リンク
君は木村政彦を知っているか - 60分を超える長編テレビドキュメント(2000年放送)。木村の栄光の前半生と力道山戦後の人生を追った作品。牛島辰熊、大山倍達、力道山、ヒクソン、エリオ、ホイス、船木誠勝らが出てくる。証言者として遠藤幸吉や真樹日佐夫らも登場。
木村政彦 - JudoInside.com のプロフィール(英語)

 

・岩釣 兼生(いわつり かねお、1944年3月25日 - 2011年1月27日)は、日本の柔道家。七段。身長182 cm、体重105 kg(全盛期)。熊本県出身。晩年、雑誌などでは岩釣 兼旺を名乗ることが多かった。

来歴
柔道家として
熊本県立鹿本高等学校時代、木村政彦にスカウトされ拓殖大学に入学。当時の木村の指導方法は、気が向いたら真夜中だろうと部員を叩き起こすというもので、1日のうち24時間が練習時間と言っても過言ではないくらい厳しいものであったとされる。

岩釣は師匠ゆずりの独特の大外刈や腕緘(キムラロック)を身につけて、1965年の大学4年時、キャプテンとして部を率い、全日本学生柔道優勝大会決勝でそれまで4連覇していた明治大学を破って拓殖大学を戦後団体戦初優勝に導く。そのレギュラーメンバーの中には東京オリンピック重量級銀メダリストのロジャースらがいた。

大学卒業後は兵庫県警に入り、下宿の庭に電柱を立てて毎晩1000本の打ち込みをするなど猛練習を重ね、各種警察大会で何度も優勝したほか、1971年の全日本選手権では、3回目の出場にて初制覇を果たした。世界選手権チャンピオンの佐藤宣践や後のオリンピック金メダリスト関根忍、二宮和弘らを退けての優勝であった。この優勝は拓殖大学としては木村政彦以来の快挙である。

同じく1971年の9月に開催された世界選手権では、岩田久和(明治大)と共に重量級代表として出場するも、3回戦でイギリスのキース・レムフリーに敗れ、メダル獲得はならなかった。

翌1972年の全日本選手権では、2回戦で村井正芳に敗れ連覇ならず。

プロ格闘技との関わり
1976年、全日本プロレス入りが決まっていたが、契約書にサインする段階になって社長のジャイアント馬場と拓殖大学側の要求にずれがあり決裂、全日本プロレス入りは幻に終わった。

このとき、岩釣は師匠木村政彦とともに裸でのスパーリング、空手、ボクシング、脚関節などを含めた真剣勝負(いわゆるバーリトゥード)を前提にした一日7時間に及ぶ秘密特訓を続けていた。1954年の木村政彦vs力道山の復讐をしようとしていたのだ。この試合は通常のプロレスで、結果は引き分けで終わるはずだったが、突如力道山が本気で殴りかかって木村が流血、失神KO負けを喫している。

拓殖大学側は「力道山にだまし討ちにあった木村政彦先生の敵を討ちたい」という考えで、社長の馬場に「デビュー戦はジャイアント馬場とやり、プロレスのアングルとして岩釣を勝たせる。その要求を呑めないならばリング上で真剣勝負に持ち込み馬場を潰す」という条件を突きつけた。

馬場はこの拓殖大学側の要求に怒り、「もしそういうことになったらウチの若いレスラーたちが岩釣君をリングから降ろさないが、そういう覚悟があるのか」と応じた。それに対して岩釣に付き添っていた拓殖大学の先輩が「この野郎っ! 拓大をなめるんじゃねえ! 貴様こそリングから降ろさんぞ!」と激怒、契約は白紙に戻された。

後に岩釣は「命をかけて木村先生の敵討ちをするつもりでした」と語っている。

作家の増田俊也によると、昭和50年代(1975~1984年)、日本のある地方都市である胴元のもと、岩釣は地下格闘技の大会に出てチャンピオンベルトを巻いていた。賭博の対象となったバーリトゥードの違法大会であった。各界の大物たちが自身がタニマチの自慢の格闘家を連れてきては戦わせていた。岩釣はプロレスへの復讐のために磨いた技術で打撃をしのぎ、寝技で仕留め、勝ち続けた[1]。

指導者として
現役引退後は母校の拓殖大学でコーチや監督を歴任。1988年のソウルオリンピックではその指導力を買われ、エジプト代表チームの監督を務める。ロサンゼルスオリンピック決勝で山下泰裕と戦ったモハメド・ラシュワン(エジプト)は岩釣の愛弟子にあたる。その後、講道館での指導員を経て、坂口征二の主宰する坂口道場にて後進の指導に当たった。

なお柔道修行の一環としてサンボも経験しており、1969年にモスクワで開催されたサンボ国際トーナメントでは優勝を果たす。また第20回世界サンボ選手権大会(女子68 kg級)で優勝した武田美智子は岩釣の教え子にあたる。

坂口道場コーチ時代から悪性リンパ腫で闘病していたが、2011年1月27日に死去した[2]。66歳没。

著書など
「木村政彦伝 鬼の柔道」(技術解説DVD、クエスト)
脚注
^ 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、日本(原著2011年9月30日)、689頁。
^ 岩釣兼生氏死去 時事通信 2011年1月31日閲覧
関連項目
柔道家一覧

 

・石井 慧

(いしい さとし、1986年12月19日 - )は、男性総合格闘家、キックボクサー、プロボクサー、柔道家(六段)。北京オリンピック柔道男子100kg超級金メダリスト。大阪府茨木市出身。チーム・クロコップ所属。ブラジリアン柔術黒帯。紫綬褒章受章。血液型はO型。出身道場は修道館(大阪府)。元妻は歌手の林明日香。2019年にクロアチア国籍を取得するまでは、日本国籍保有者であった[1]。

来歴
柔道家
茨木市立大池小学校5年生の頃、父親の指導で柔道を始め、本格的に取り組むべく清風中学に入学。高校1年生の時に、より柔道の強い環境を求め国士舘高校へ志願編入。その後、国士舘大学体育学部武道学科に入学。

2004年に講道館杯全日本柔道体重別選手権大会100kg級で優勝した。高校生の優勝は1998年の鈴木桂治、翌99年の高松正裕に次ぐ史上3人目で、翌年には連覇を果たした。2006年、全日本選手権に初出場ながら鈴木を破り、19歳4か月の史上最年少で優勝した(それまでの最年少優勝記録は山下泰裕の19歳10か月)。同年アジア競技大会(ドーハ)では100kg級で準優勝。
2007年の全日本選手権では準決勝で井上康生に勝利したが、決勝で鈴木に敗れた。同年嘉納治五郎杯東京国際柔道大会より100kg超級に転向し優勝。以後無敗で引退した。
2008年2月のオーストリア国際で優勝を果たした。4月29日、全日本選手権決勝で三度鈴木と対戦し、優勢勝ちで2年ぶり2度目の優勝をすると共に北京オリンピック柔道男子100kg超級日本代表選手に選出された。
8月15日、北京オリンピック柔道男子100kg超級に出場、準決勝までの4試合はすべて一本勝ち、決勝ではアブドゥロ・タングリエフ(ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン)と対戦、指導2つの優勢勝ちで金メダルを獲得、五輪での最重量級最年少王者となった。優勝直後のインタビューで石井は、「オリンピックのプレッシャーなんて斉藤先生のプレッシャーに比べたら、屁の突っ張りにもなりません」と発言し、新語・流行語大賞の候補60語にノミネートされた。
 

総合格闘家への転向
2008年10月6日、石井のプロ総合格闘技への転向がスポーツ報知の一面で報じられ、明らかになった。また、出場予定だった当日の世界選手権団体も調整不足を理由に辞退した。翌日の10月7日の会見で石井は、「卒業のことで頭がいっぱい。焦らずゆっくり考えたい」と進退の明言を避けた。10月31日、全日本柔道連盟に対して強化指定選手辞退届を提出[2]。11月3日に記者会見で「11月3日をもって柔道家をやめ、プロ転向を決めました。総合格闘技のチャンピオンになれるようにがんばります」 と、正式にプロ転向を表明した。このころから柔道選手時代のトレードマークであったスキンヘッド(写真)から、スポーツ刈りにヘアスタイルを変えている。
11月17日に個人事務所「Twill33」(ミーサン)を設立し、取締役である(マネジメントはケイダッシュ)。
12月16日に世界最大の総合格闘技団体UFCへの参戦意志を明言。同年12月27日にアメリカ合衆国で開催されたUFC 92を観戦し、同日深夜にUFCを主催するズッファ社と独占交渉契約を交わした(2009年1月末で独占交渉期限切れとなった。)。渡米中には現役選手にしてUFC殿堂入りしているランディ・クートゥアらの指導を受けた。その後はアメリカン・トップチームで練習を積んだ。
2009年1月4日、戦極の乱2009のリングにUFCのTシャツ姿で上がり「これからアメリカで試合をすることになりましたが、いつか大きなお土産を持ってこのリングに立ちたい」と発言した[3]。
6月1日、記者会見で戦極(現SRC)と同日に仮契約したことを発表する。戦極と契約した理由について石井は「日本で育ち、日本で生まれた柔道に生かされてきた。その結果、オリンピック金メダルを手にしました。まずは、日本の格闘技界を盛り上げ、恩返しすることが私の宿命だと思った。自分の祖母は半分、片足を棺桶に突っ込んで、いつ亡くなってもおかしくない状況なので、祖母に生で試合を見せてあげたい」「日本にある団体の中で、『戦極』では、自分が最も尊敬する、世界のヘビー級で一番強い選手・エメリヤーエンコ・ヒョードルと(当時)対戦予定のジョシュ・バーネット選手がいます。もし、ジョシュ・バーネット選手が勝てば、最強はジョシュ・バーネット選手になるので、そういう選手がいるのが『戦極』なので、そういう面でも『戦極』に惹かれました。」と語った[4]。「本契約はファンの前でしたい」とし、6月4日に新宿ステーションスクエアにて本契約の公開調印式が行われた[5]。
3月から2か月半の間、ブラジルのパラー州ベレンにある、リョート・マチダの道場で武者修行を敢行した。
2009年9月、同年大晦日に行われるSRC(戦極)にて吉田秀彦との対戦が正式決定[6]。
9月、国士舘大学を卒業(単位が足らず、同年3月での卒業はできなかった。)[7]。
11月25日、K-1とDREAMを主催するFEGとSRC(戦極)を主催するWVRが大晦日の格闘技大会を合同開催することを発表し、SRCの大晦日大会は中止となり、同大会で予定されていた石井慧vs吉田秀彦戦はFEG主催のDynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜で行われたが、判定負けを喫した[8]。
2010年3月20日、練習先であるハワイの興行「X-1 Champions 2」でササエ・パオゴフィーとエキシビションマッチ[9] で対戦し、1R2分50秒アームロックで一本勝ち[10]。
4月8日、4歳年下の女子大学生と結婚した。同年1月にハワイで初めて知り合ってから3か月での結婚となった[11]。2011年1月、結婚から9か月で離婚した。
5月15日、ニュージーランド・オークランドで開催されたXplosionでタファ"タンパー"ミシパティと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち[12]。
6月4日、ハワイ・ホノルルで行なわれたX-1: Nations Collideでマイルス・ティナネスと対戦。石井も1R終了間際に左フックでダウンを奪い追撃のパウンドを繰り出すも、1R終了後の攻撃だったとして反則負けと裁定されたが[13]、その後ノーコンテストと裁定が変更された。
9月25日、DREAM初参戦となったDREAM.16でミノワマンと対戦し、3-0の判定勝ちで格闘家としての日本初勝利を収めた[14]。大会3日前の9月22日に参戦が発表されるほどの緊急参戦となった[15]。
11月8日、K-1 WORLD MAX 2010 FINALに参戦。当初はアンズ・"ノトリアス"・ナンセンとDREAMルールで対戦予定だったが、試合2日前のドクターチェックでナンセンの古傷が治っていないことが発覚し、ドクターストップになったため、試合前日に相手が柴田勝頼に変更された[16]。試合ではアームロックで一本勝ちを収めた。
12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜 にてK-1ファイターのジェロム・レ・バンナと総合格闘技ルールで対戦。K-1が本職で4年間総合格闘技ルールの試合をしていなかったバンナ相手に寝技で関節技を極めきれず、スタンドでパンチと膝蹴りを浴びるなど苦戦。3Rに抑え込んで判定勝ちを収めたものの、バンナからパウンドを浴びた際には、石井が日本人でありながら、日本の観客からバンナへの歓声と掛け声があがり、逆に判定で石井の勝利が告げられた際には観客から石井へのブーイングが飛んだ。試合後、石井は「バンナ選手の寝技が予想以上にうまかった。プロデビュー戦では負けはしたが、吉田秀彦さんからパスガードしてサイドポジションを奪うことは出来たし、今回の試合に備えてエメリヤーエンコ・ヒョードルに一本勝ちした柔術世界王者ファブリシオ・ヴェウドゥムと練習してきて、寝技スパーリングで僕はファブリシオからパスガードしてサイドポジションを奪って抑え込めていたから寝技には自信があった。しかし、バンナは寝技でもファブリシオと同じくらい足が利いていて、今までで一番パスガードするのが難しい相手だったし、アキレス腱固めやヒールホールドの防御のやり方も出来ていて、寝技で下から打ってくるパンチも強かった[17]」「ブーイングは応援の裏返しだと思うし、それだけ期待していただいていることだと思う。次は一本、KOで勝ちたいと思っています」と語った[18]。
2011年4月1日にカリフォルニアで開催のStrikeforce Challengers 15でスコット・ライティと対戦予定だったが、東日本大震災の影響でビザの取得が遅れるなど試合に必要な手続きが出来ないため欠場となり、Strikeforce参戦は頓挫した[19]。
9月14日、Amazon Forest Combat 1でパウロ・フィリオとライトヘビー級契約で対戦したが、判定ドローに終わる。
12月31日、元気ですか!! 大晦日!! 2011でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦したが、1Rに失神KO負けを喫した
2012年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2012で元UFC世界ヘビー級王者のティム・シルビアと対戦。1Rはテイクダウンからサイドポジションを奪い、肘打ちで出血させるなど優勢に進めたが、2R以降はシルビアの首相撲に掴まり苦戦する。判定勝ちするも、膠着し続けた試合に観客からのブーイングが飛んだ。相手のシルビアは試合前に、「右膝を負傷しており、リアルファイトをするのは難しい。」と話していたことを同大会出場者が語っている。
2013年2月23日、IGF GENOME24で元UFCファイターのショーン・マッコークルと対戦。1Rにアームロックで一本勝ちを収めた。ただし、この試合は当初、石井がジェフ・モンソンと戦う予定であったが、モンソンが試合直前に怪我で欠場したため、セコンドとして来日していたマッコークルにIGFスタッフが交渉をして試合1日前に急遽決まった試合であり、マッコークルは準備期間たった1日で試合に臨んでいた。
3月21日、IGF GENOME25でケリー・ショールと対戦。左フックでダウンを奪い、腕ひしぎ十字固め(IGFの公式記録はアームロック)で一本勝ち。
5月26日、ペドロ・ヒーゾに判定勝ち。ストライカーのヒーゾとスタンドで互角以上に渡り合い、課題だった打撃技術の向上を見せた。
7月4日、歌手の林明日香と再婚していた事が発覚した。林のファンだった石井は2012年8月に知人の紹介で知り合い、その後、交際がスタートした。3月末にプロポーズし、大安だった7月3日に都内の区役所に婚姻届を提出した[20]。
10月21日、M-1 Challenge 42でジェフ・モンソンと対戦。1Rと2Rはスタンドで主導権を握りつつ、テイクダウンを奪うなど優勢に試合を進め、3Rにはモンソンのクリンチアッパーを中心とした攻めで盛り返されるも判定勝ち。
12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2013のIGFチャンピオンシップで藤田和之と対戦。判定勝ちを収め、王座を獲得した。
2014年4月5日のINOKI GENOME FIGHT 1でフィリップ・デ・フライと対戦。スタンドではデ・フライのパンチや膝蹴りに苦しんだが、再三テイクダウンを奪い判定勝ち。
8月23日のINOKI GENOME FIGHT 2でミルコ・クロコップと対戦。テイクダウンを奪うも、下からの肘打ちを受け出血。石井もその後、スタンドでミルコと互角に打ち合ったものの流血が激しくなり、ドクターストップ負け。IGF王座から陥落した[21]。
12月31日大晦日のINOKI BOM-BA-YE 2014でミルコ・クロコップと再戦。リベンジを狙う石井だったが、2R終了間際にミルコの左ハイキックを側頭部に受けた後、打撃のラッシュを受けダウン。直後に2R終了のゴングが鳴らされたが出血が酷く、インターバルの最中も立ち上がれなかった為、石井のTKO負けとなった[22]。
2015年12月29日、RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2015 さいたま3DAYSのヘビー級(-100kg)トーナメント1回戦でイリー・プロハースカと対戦し、グラウンドでの膝蹴りでKO負け。
2016年6月24日、Bellator 157でクイントン・"ランペイジ"・ジャクソンと対戦。序盤はテイクダウンして優勢に立つものの、徐々にジャクソンの首相撲やクリンチアッパーに捕まり、巻き返されて1-2で判定負け。
8月7日放送の行列のできる法律相談所にて、林明日香と離婚したことを発表した[23]。
12月16日、Bellator 169のメインイベントでキング・モーと対戦。終始モーが試合を支配し、0-3の判定負けとなった。
2017年2月より、練習拠点をクロアチアのチーム・クロコップに移した[24]。
2018年4月11日、桜庭和志が旗揚げしたグラップリング大会・QUINTET.1に「JUDO DREAM TEAM」の大将として参戦。1回戦で「HALEO DREAM TEAM」の副将マルコス・ソウザと対戦したが、時間切れドローに終わり、チームは1回戦敗退となった[25]。
7月16日、QUINTET.2に「TEAM VAGABOND」の中堅として参戦。1回戦で「TEAM 10th Planet」の中堅ジオ・マルティネスと対戦し、時間切れドロー。
10月5日、QUINTET.3のスペシャルシングルマッチで元UFCヘビー級王者のフランク・ミアと対戦、サドンデスラウンドで3度目の指導が入ったミアが失格となり、勝利を収めた[26]。
11月20日、中井祐樹よりブラジリアン柔術黒帯を授与されたことをTwitter上で報告した[27]。
12月1日、セルビアの総合格闘技団体「SBC(Serbian Battle Championship)」のヘビー級王座決定戦でトニー・ロペスと対戦し、1Rに洗濯ばさみで一本勝ち。王座獲得に成功した[28]。
2019年2月16日、SBCヘビー級タイトルマッチで挑戦者のホドリコ・カルロスと対戦し、1RにパウンドでTKO勝ち。初防衛に成功した[29]。
3月2日、HEAT 44の総合ルールヘビー級タイトルマッチで王者のカルリ・ギブレインと対戦し、2RにV1アームロックで一本勝ち。王座獲得に成功した[30]。
3月23日、ポーランドの総合格闘技団体「KSW」に初参戦し、元ヘビー級王者のフェルナンド・ロドリゲス・ジュニアと対戦。2-1の判定勝ちを収めた[31]。
8月8日、PFL 6: 2019 Regular Seasonで元UFCファイターのジャレッド・ロショルトと対戦し、0-3の判定負け。約2年ぶりの黒星を喫した。
10月31日、PFL 9: 2019 Season PFL Playoffs 3でデニス・ゴルゾフと対戦し、0-2の判定負け。連敗を喫した。
12月31日、RIZIN.20でジェイク・ヒューンと対戦し、1R1分24秒右アッパーでKO負け。
2020年1月19日、HEAT 46の総合ルールヘビー級タイトルマッチでクレベル・ソウザと対戦し、1R3分24秒にアームロックで一本勝ち。王座防衛に成功した。
柔道界への復帰
2011年4月30日、石井はアメリカ・フロリダ州オーランドで行われた全米体重別選手権のオープン参加クラスに参加し、全試合一本勝ちで優勝を果たした。試合後のインタビューで「全日本王者の鈴木桂治選手と闘いたい。彼にその度胸があればの話ですけど」と話した。アメリカ柔道連盟のナディング会長は石井について、「将来的にアメリカ代表になる気持ちがあるなら、可能な範囲でサポートしていきたい」と話した[32]。全日本柔道連盟の規定により、プロ格闘家に転向した選手は、プロ格闘家を引退してから選手は3年、指導者は1年経たなければ日本柔道界に再登録することができないが、アメリカ柔道連盟はプロ格闘家にも柔道の試合への出場を許可しているため、石井は「アメリカの永住権と市民権を取って、2016年リオデジャネイロオリンピックにアメリカ代表として出場して金メダルを取る」と公言していた[33]。
2013年4月14日には全米選手権の無差別に出場したが、決勝では現地で柔道指導に当たっている元全日本強化選手の高橋徳三を相手に指導2を先取して優勢に試合を進めていたものの、高橋が内股を放った際に右脚を右手甲で防御したことにより石井の反則負けとなり、2007年の全日本選手権決勝で鈴木に敗れて以来、柔道では約6年ぶりの敗戦を喫することになった。石井も帯から下に触れることが全面禁止になった新ルールに対応できず、「マジでむかつくし、訳が分からない。おかしいよ」と不満をぶちまけた[34][35]。
7月にはアメリカ柔道連盟からの申請を受けた国際柔道連盟より、六段を授与されることになった[36]。
2014年5月5日、全米選手権の無差別級に出場したが、準々決勝でまたも高橋に反則負けを喫した。試合後には「高橋先輩は強かった。全然柔道をさせてもらえなかった。優勝して帰りたかったけど、両者指導の後、もう1回僕だけ指導を取られ気持ちが切れてしまった」と無念そうに語った[37]。
ファイトスタイル 
100kg以下級であったが、2007年秋に100kg超級へ転向した。左利きで超級のクラスでは上背はないものの、その筋肉量、スタミナはトップクラスである。パワーとスタミナの強さから受けが非常に強い選手で、また試合の駆け引きが上手い。よって、旗判定が行われる国内試合に強い選手といえる。北京オリンピックにおいては金メダルばかりがクローズアップされるが、特筆すべきはその試合内容で、特に5試合通して失点ゼロである部分である。相手の技による失点だけではなく、反則ポイントも全く受けていない。これは反則が取られやすい国際ルールでは稀なことであり、石井の試合運びの上手さが体現されたと言える。

得意技は大内刈で、世界トップクラスの切れ味を持つ。全日本選手権決勝で鈴木を2度破ったのも大内刈である。他に技が少ないことが弱点となっていたが、2007年あたりからは体落としを、2008年から大外刈や内股も出すようになってきた。寝技も得意とした。

石井は練習の虫としても知られ、特にウエイトトレーニングは寝る間を惜しむほど行い、ベンチプレス200kg以上を挙げることができる。非常に努力家であり、オーバーワークによる怪我を恐れてコーチが練習を止めると、泣いて「練習させてくれ」と懇願することもあったという。自身を「一本をとる技はない」「才能はない」と認めており、その分を人一倍の努力(練習による筋力増強と研究熱心さ)で補っている。全日本男子監督の斉藤仁も「世界一」と認める練習の虫である。その練習量の多さから、史上最強を謳われる柔道家木村政彦の弟子である岩釣兼生は「(木村の)鬼の柔道を継げるのはあいつしかいない。山下泰裕君クラスに成長していく可能性がある。絶対に勝ってやるという、そのための努力の量と質が人とは違う」(『ゴング格闘技』2008年12月号)と発言している。

柔道だけではなく、レスリングやブラジリアン柔術の道場にも1人で出かけて腕を磨いた。積極的に、他競技の技術も学んでいる。ブラジリアン柔術では2018年にパラエストラ東京代表の中井裕樹から黒帯を授与されている。

石井は、一本勝ちにこだわるよりも確実に勝利することを信条としており、寝技の習得にも熱心である。立ち技での投げによる一本勝ちを狙うことを称賛する日本柔道界においては、その姿勢に対して前述のように全日本選手権で優勝した際にブーイングを浴びたこともあったが、「美しい柔道って言いますが柔道は芸術ですか?そんなに美しいものを求めるのなら体操でもやればいい」と発言した。迎えた北京オリンピックでは、決勝戦以外は全て一本勝ちで優勝し金メダルを獲得した。