不思議な本ですね。以前一度読んだいたはずなのに完全に失念しておりました。

 私はこの度 再読するまで本書は水俣病に関するルポルタージュの文学だとばかり思い込んでいたのですね。巻末に添えられて渡辺京二氏の卓越せる解説を読んで あらためて迂闊さ 胡乱さを教えられて密かに恥入りました。

 石牟礼道子の『苦海浄土』は いずれの章句や章節も まるで医学的所見の引き写しであるかのような 紋切り口調の無機質の漢文体と 儚げな仮名混じりの語り文の著しい対比が特徴的な その異化的表現 異化的構成が印象的です。血の気の通った語りの幽玄とも言える朦朧態の文体と 威圧的で権威主義的な四角四面の医学学術的且つ行政公文書的文体の著しい対比 対角 言語論的対峙が、水俣病の悲惨さ 無惨さ 残酷さを 語り以前の視覚的表現としても文体的表現としても語ることなく見させてしまうのです。言語は他面 権威主義的脅迫的文体として 或いはあからさまな権力として 字面全体において物言わぬ文体として 視覚に訴えるものとして表現させているのです。

 結局 昭和の棄民としての彼らを語るにはこのような文体 このような方法しかなかったのでしょう。文体とは、語りうる内容や素材だけでなく、置かれた状況をも反映するのです。

 お話ししたかったのは、『苦海浄土』が現代文学として持つ 文体論のことがひとつありました。

 

 書き忘れたように思われてもいけないので渡辺京二氏から示された読み方の教示の典型例は、最後の章節「満ち潮」に於いて際立っているように思われました。

 それは国の水俣病の認定がようやく出て 窒素の社長以下が被害者宅を謝罪のために訪れる場面なのですが、その中で被害者家庭の女性が徐に口を開く劇的な場面ですが、よぉく読んでみると 肝心の場面には語り手の石牟礼道子が居合わせなかった事が明瞭であるような書き方がなされているのですね。

 

 遅れてきた石牟礼に、その女性はこう言っているからです。

「惜しかった!」「まちょっとはよ来ればよかったて、今帰らした」

 

 つまり 本書の中の経緯を描き感動が臨界点を迎えた最も劇的な場面を描いた後で 「その直後にわたしが飛び込んだ」つまり 同席していなかった事が明かされるのです。

 つまり、事後に聞いたか聴き出した事を そのままではなく 彼女のシンパシー用いて 換言すれば彼女の内面の心の浄化装置で濾過して 想像力の中に再現させる と言う 本書の中で普遍的に用いられた手法の一端を種明かしをしているのですね。

 水俣病の苦しんでいる患者に、学者や行政のある者たちのあるものように、不躾に 即物的に 人の内面に土足で踏み込むようなあり方で 聴きただす、と言う事はできなかったのでしょう。相手が問わず語りに語る言葉の端々 言葉の断片から、再現してみようとしたのだとも、或いはここぞと言う場面では患者たちが言えなかった言葉を 患者だから言えなかったことを 代弁して語る、あるいは憑依されたように自ずから語った と言う事はなかったのでしょうか。それほどにもこれほどにも この場面は 珍しく控えめな石牟礼道子の文体にしては心が瞬間高鳴り 怒りと憤りと心の震えが 震える感情の爆発が 石牟礼固有の節度を持った日本語表現として 日本語表現ならではの含意含蓄 言葉の精華と真髄 控えめであるが故の謙りの語りが天啓の啓示の如く語られるのです。それゆえにこそ 石牟礼の語りは人間の尊厳と言うものを際立たせ、あるいはひととき凪いで途絶えた不知火のため息のように 寄せては返す潮の響きを海なりのなかから 厳にに寄せては返す水沫と波紋の煌めきとともに反芻し 水底に揺らぎ尾を曳く海藻と藻類とが描く菱形が龍神の鱗を思わせる波紋のように その日その時 重苦しい陰鬱の神秘の雲間が途切れるように、その狭間から 光彩陸離たる神々の不知火の荘厳な面影が現れたのです。

 

 出月部落の茨木妙子に神々の面影を垣間見て語り部は語りました。

 

 「草いきれのたつ古代の巫女のように、彼女はゆらりと立ち上がる。」

 

 私が生前に一度見た石牟美智子の映像は静かに揺らぐ、野に咲くそよ風の尾花、野ぐさの風情でした。スローモーションと言うよりも微かに揺すり揺らぐ粗い静止画像の不連続な映像の連なり 揺蕩い震える漣のようでもありました。現のものとは思われない映像の深みに私は心を突かれました。『苦海浄土』を書いた頃の若き石牟礼道子が茨城妙子の中に垣間見た古の神々の面影こそ予言的な意味で、最晩年の石牟礼道子そのものの姿でもあったことを後に我々は了解することになるのです。

 そう、草いきれのたつ古代の巫女のように、彼女はゆらりと立ち上がりました、見捨てられたものたちとの闘いの戦列の場に!

 

(その後の”第二章”)

 水俣病訴訟はこうして司法と行政の判断が下り 加害者である企業のトップが謝罪すると言う出来事を経て一見終わりを迎えたかに見えました。しかし 謝罪の内実は、いざ蓋を開けてみると 既に過去 昭和34年の誓約書を盾に「解決済み」とするものでした。土下座してもいいから金はだしたくないと言う、行政側の上から指示された冷徹な意思表示の開陳でした。頭は下げるけれども謝罪は幕引きの儀式である、と言いたいわけですね。

 この問題は、企業の不誠実さだけでなく、水俣病認定基準を今後はいっそう厳しく運用する事に於いて有名無実化し空無化すると言う官僚と行政側が企み編み出した高等戦術?を相手に闘わねばならないと言う 新たな水俣病訴訟の局面を迎える事になったのです。

 以後の水俣病訴訟の経緯に就いては 日本資本主義の主義の闇と日本の民主主義の恥部に迫る、あからさまな百鬼夜行じみた恥ずべき日本人の化け物たちとの闘争、博物的標本学との闘争の場と化したのです。

 その経緯の一端に就いては、例えば以下をご参照ください。