次の日は、学校を休んだ。
もうこれ以上休んだら留年するかもしれない、担任にそう言われていたのに、何だかもうどうでもよくなっていた。
あんなに、夏喜も頑張れよ、って応援してくれてたのに、それすらも私は、裏切った。
夏喜の家に来て、ずいぶん自分がましな人間になった気がしていたけど、やっぱり底辺は底辺な人生しか歩めない。
あそこにいた時間が、夢のようだったんだ。
夢は、覚めるものだ。
もう、あそこには戻れない。
ヒロトの家に外泊した昨日は、小夜子さんにだけラインを入れておいた。
"今日は帰れないけど心配しないでください"
"お弁当作れなくてごめんなさい"
と、二言だけ。
夏喜には、連絡することが出来なかった。
小夜子さんからは、
"分かりました。何かあったら、遠慮なく連絡してね"
と返信があった。
夏喜からは何の連絡もない。
もしかしたら私がいないことも気付いてないかもしれない。
いつも顔を合わせるのだって、夕方のほんのちょっとの時間と、学校に行く前の、支度の時間だけなのだから。
だから私は、夏喜が学校から帰ってくる時間よりももっと前に、その家へ帰った。
荷物を取りに行くためだ。
そして、数日分の食事を作っていこうと思った。
あとは出ていきます、と置き手紙でも書けば十分だ。
もともと、ほんのちょっとの間の居候のつもりだったのだから。
いくら優しくして貰えたとしても、赤の他人が同じ屋根の下に住むのは、気を遣うだろう。
きっと小夜子さんも夏喜も、せいせいするはずだ。
午後三時、三つ目のおかずを作り上げた頃だ。
タッパに入れて、熱を冷まそうと思っていた瞬間。
玄関の鍵がガチャ、と開く音がした。
ドキ、として肩をすくめる。
まさか、小夜子さんは仕事に行っているはずだし、夏喜もこんなに早く学校が終わるはずがない。
だけど、大股で廊下に響く足音は夏喜のものだ。
いつもより、急いている感じがその足音からも伝わってくる。
身をすくめて固まっている傍から、今度はリビングのドアが勢いよく開いた。
「お前…」
夏喜の細い眉がつり上がっているのが分かる。
怒っている。
「昨日どこ行ってた?」
答えられずに、固まる。
「まさか、あいつんとこじゃねぇだろうな?」
「……」
なんて答えよう。
「おい、藍」
夏喜が私の腕を取る。
びっくりして、心臓が跳ね上がった。
こんな夏喜は見たことがない。
怖い。
「い…痛い」
何とかそう声を振り絞ると、夏喜の手はすっと私の腕から離れた。
「悪い」
ふるふる、と頭を振る。
「あいつんとこ行ってたの?」
こくん、と頷く。
「何で…どうせ脅されてんだろ?写真ばらまくとか何とか言って」
「違う…」
「あ?」
「そんなんじゃ、ない」
「じゃあ何で?」
夏喜の視線が変わる。
今、私の目の前にある調理途中のもの。
まな板の上に切った野菜、使いかけのフライパン、そしてその次にはダイニングの上に並べられたタッパたちにと、次々に視線が移っていく。
「お前、何してんの?」
これじゃあまるで、出ていくための準備を進めているのが丸分かりだ。
リビングには、もうすでに大きな荷物を詰めたボストンバッグも置きっぱなしだ。
「出て行くつもり?」
「…ヒロトのとこに、戻ろうと思う」
「は?お前、あいつんとこにはもう戻りたくないって言ってたじゃねぇかよ?」
「でも、ここにこれ以上お世話になるわけにもいかないし」
「だからってあいつんとこ戻んの?ちげぇだろ?あんなやつ、もう一緒にいたくないんじゃねぇのかよ?」
「でも…私にはもうそうするしか…」
「家ならずっといていいって言ってんじゃねぇか!俺も、母ちゃんも。どうせ脅されてるだけだろ?言ってみろよ?」
「…違う」
「何で…」
「だって…」
ここにいたい。
ずっと、私だってここにいたい。
でも、もうこれ以上夏喜に情けないところは見せたくない。
「藍!」
ずるい。
こんな時にだけ、こんな風に目を見て私の名前を呼ぶなんて。
夏喜の瞳はいつも凛としていて、強い。
こんな弱い私を、飲み込んでしまうみたいだ。
涙が溢れそうになる。
ギュッともう一度腕を取られた。
だけどさっきみたいに強く強引なそれとは違う。
「だってどうしたらいいの?もう、分からないよ…
どうしたらこんな生活から抜け出せるのか分からない」
夏喜と繋がっている右腕が熱い。
「分かった…」
静かに夏喜が言う。
「あいつの連絡先、教えろ」
「え?」
あいつって、まさか。
「俺が行って話つけてくる」
「何言ってんの?やめてよ、無理だよ」
そんなことしたら、夏喜に何されるか。
「いいから。教えろ」
そう言った夏喜の瞳には、有無を言わせないような深い闇があった。