"俺んち、来るか?"
何でそんな言葉が出てきたのか分からない。
思えば最初から、どうしてあの時藍のことを助けてしまったのか、自分でも分からない。
人の心にずかずか入り込んできて、デリカシーがなくて、家出しては男に頼るしか脳のない女、俺には理解できない。
自立したいのなら働けばいい。
帰る家があるんだったら、ちゃんと学校くらい行って、就職先を見つけてから独り立ちすればいい。
どっちも中途半端だから何にも身に付けられていないのだ。
そんなんじゃ将来男に捨てられた時に自分がぼろぼろになって泣くだけだ。
俺の母親のように。
だけど分かっていた。
藍にだってちゃんと事情があることを。
どうしても、帰りたくない理由があるってことを。
女に暴力を振るう男が俺は一番嫌いだ。
強い力や権力を使って、弱いものをひれ伏す大人が、一番許せない。
俺も藍も、その被害者だ。
だから俺はきっとあの時、男に絡まれてる藍を、放っておくことが出来なかったんだろう。
俺の父親の記憶は、あまりない。
居なくなったのは小学校に上がるかどうかくらいだったから、思い出はあるはずなのに、そこだけがずっと健忘している。
その後の、ずっと泣きっぱなしで家のこともままならなくなっていた母親の記憶が、あまりにも鮮明すぎるからなんじゃないだろうかと、俺は思っている。
それまで母は、仕事といったら近所のスーパーでパートくらいしかしたことがなく、父親がいなくなってしまったことで、これから先どうしたらいいのかと、よく嘆いていた。
小さかったけど、俺なりに感じるものがあった。
俺さえいなければ、って、母は俺のことをお荷物に思っていたんじゃないかって。
それまでいつもきれいだった部屋は荒れ放題になったし、食事が出てこないことも増えた。
俺はせめて、自分のことは自分でしようって、子供なりに必死だった。
何年くらいそんな生活が続いたんだろう。
もしかしたら、記憶が強烈すぎるせいで、ものすごく長く感じていたその時代も、実はほんのちょっとだったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。
いつの間にか、だんだん、何とか生活できるようになって、母親も仕事を見つけて、働くようになって、俺たちの間にも穏やかな毎日が流れるようになっていた。
母は以前のように、よく笑うようになった。
仕事で親が夜家にいなくったって、全然平気だった。
だって幸せだったから。
母の気持ちが伝わって、俺のことを大切に思ってくれていて、そんな思いが伝わり合っていれば、それ以上のものは何もいらなかったんだ。
藍があの時言った気持ちが、俺には、痛いほど分かった。
それなのに、どうしてこんなにも俺の人生を狂わせるんだろう。
神様は意地悪だ。
六年生の時に、新しい父親が来た。
いつの間に、母親にそんな相手がいたんだろうと思った。
夜勤だと言って出掛けた夜、本当はその男と会っていたんだろうか。
仕事だと俺に嘘をついて。
そんなことを思うと、絶望した。
俺のことだけを見てくれていたと思っていたのに。
二人だけで、ずっとこうして穏やかに、楽しく生きていけるって思っていたのに。
他人が入ってくるなんて、想像できなかったのだ。
でも反対なんか出来なかった。
母の嬉しそうな顔を見たら。
そんなことをしたら、俺がのけ者にされてしまう気がしたんだ。
大事なのは俺じゃない。
その男だ。
俺の方が、付属品なのだ。
二人の間に俺が入らせてもらう、そんな形でしか、俺はもう生きていけないんだと思った。
捨てられないために。