目の前が真っ暗になったような気がした。
「その頃夏喜は中学生。どんな思いだったのかしらねぇ?今思えば、小夜子さんもすぐ離婚してればよかったんだろうけど、そんな簡単じゃないのよ。
一度好きになった男のことなんか、簡単に切り捨てられない。
こればっかりは大人の事情になっちゃうけど、ごめんなさいね、藍ちゃん。
あたしはしたことないけど、結婚して籍を入れてたら、なおさらだと思うの」
「ううん」
そんなの、私だって何となく分かっている。
大人の事情があることくらい。
「夏喜は多分後悔してるんじゃないかしら。小夜子さんを助けられなかったこと。
自分にもっと経済力や力があったらとか、思ってるんじゃないかしら。
あの子が変に体鍛えてるの知ってる?」
「ううん知らない」
でも確かに、背中はすごく大きくて筋肉質だった。
「きっともう自分のせいで大切な人を守れないような思いをしたくないのね」
そういうこと、と妙に納得するものが、たくさんあった。
点と点が一つの線に繋がったような。
「ねぇ、じゃあ、あの背中の傷は?」
まだ一つ分かっていないこと。
きっとその延長線上にあるんだろうけど、今日の最大の疑問はこれだ。
「藍ちゃんの想像してる通りよ。そのお父さんから傷つけられたの。
ある日、いつもみたいに酒に寄ったお父さんが、小夜子さんに手を上げたらしいの。
それを止めようとした夏喜も一緒になって、もみ合いになったらしくて。
割れたビール瓶で、」
その時の痛みを想像して、一瞬目を閉じた。
嫌な汗が滲んでくる。
「結構、深かったらしいわ。しばらく夏喜も入院してたって」
「…そのお父さんは、どうなったの?」
悔しい。
夏喜にそんな傷を負わせた人が、今もどこかで生きているのだったら。
「今は、傷害罪で罪を償ってる途中らしいわ。夏喜が、中学三年生の時よ」
「そっか…」
夏喜は私なんかよりも、もっと深い、消えない傷を負ってるんだった。
「離婚は、今でもしてないらしいの」
「え?」
驚いて翔さんを見たら、彼も困ったような顔をしていた。
「分からないものよね?小夜子さんの思いだから、あたしはどうすることも出来ない。夏喜が、どう思ってるかも知らない。
でも、癒えない傷を負ってるのは確かよね。
今では少しマシになったけど、あたしが知り合った時は、夏喜、今よりもっとひどかったのよ?」
「翔さんと夏喜は、いつ知り合ったの?」
「その事件があって、多分そんなに経ってない時だと思う。
あの子は高校に上がったばっかりで、街の片隅で、小さく体操座りして丸まってたところを、あたしが拾ったの。
あの頃のあいつの瞳は、何も信じたくないって色をしてた。
どうしたの?って聞いたら、帰りたくないって言うから、うちの店に連れてきて、ご飯食べさせてやったの」
「それからここで働くようになったの?」
「その時に少し、夏喜から家庭の事情は聞いたの。母親のことを信じられないけど、でも彼女を守れるのは自分しかいないとも言ってたわ」
夏喜らしい、と思った。
「理解できないんでしょうね。自分をここまでした男と、どうして離婚しないのか。
だけど、捨てられないのよ、家族だもの。
あの子が必死に働くのも、きっと小夜子さんを支えたいためね」
「……」
「あたしが知ってるのはそのくらい。憶測でものを言っちゃったから、本人たちの本当の想いは知らないわ。
知りたいんだったら、後は本人に聞いてちょうだい」
翔さんの店を出て、ようやく緊張の糸が解けたようにほっとした。
張りつめていた波が、どっと押し寄せてくるような。
空を見上げて上を向くのに、涙が止まらない。
誰かのためにこうして涙を流すのは、初めての事だ。
もうすぐ夏喜がここにやってくる。
その前に私はここから去らなければならない。
夏喜のために、そして自分のために、私には一体何が出来るだろう。
そんなことを思った。