ロンドン五輪真っ只中ですね♪個人的に期待していた男子体操の内村選手が個人総合で金メダル!嬉しい!
男子サッカーも優勝本命のスペインを倒し、グループ首位で突破!OAの吉田選手のキャプテンでの起用は良い!同じOAの徳永選手との最終ディフェンスラインが締まり、攻撃機会が増えた!
水泳の北島選手も注目していたが、結果残念でならない。

オリンピックを見ていると結果を出す人と出せなかった人では何が違うのかと考えてしまう。当然、素人目に技術や審判的な要素などはわからない。だけど、唯一判断できる材料としてあげるなら、それは人間性ではないだろうか。テレビのモニター越しからも伝わる魅力や輝き、気迫があるかないか。

僕があげたい人間的な魅力の要因は「利他の心」です。内村選手はずっと個人より団体で金メダルを取りたいと言って練習を積んできた。自分よりも仲間と一緒に金メダルを取りたいと言う利他の心。自分が何において誉れとするかという動機が利他的なのだ。良くスポーツ選手が言う「応援してくれる人のためにがんばります」というコメントとは違う。それは、自分がその競技をするにあたっての動機を他者に委ねているに過ぎない。もっと言えば責任転嫁だ。利他は、己ではない他者に利するようにする事。そこから湧くモチベーションやパワーは利己的な動機より強い。

特にスポーツ選手や格闘家で特異で優れている能力は、利己的な利他が存在することだろう。自分のために、自分ができることは何かを完全に客観的に捉えられる。だから、甘えがない。ストイックなまでに追い込んだ修練を積み重ね、素晴らしい結果を出す。克己とは言うが、生まれてからまず出会う人格は自分であるという事実を、完全に理解しているのが一流のアスリートだと思う。自分を変えなければ、人は変わらないし、応援してくれないし、サポートもない。自分をどうしたいのか、というセルフプロデュースもある意味、利他の心なのだろう。

アメリカがメダル獲得数が段違いで多いのは、後者のアスリート的な利他の心を叩き込まれるからだろうし、日本がそれに続いてメダルを獲得しているのは前者の利他の心を持った選手が強いからだろう。

オリンピックの出場選手のインタビューはそういう利他の心が垣間見れるかどうかも、個人的に注目している。




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前回の投稿から半年経っていました。12年ももうすでに下半期に突入。時間は万人に平等に与えられはしたが、その有効な使い方までは教えられなかった。。

ブログを放置してしまったのは、言いたいことがあるとTwitterで発散させてしまっていたからです。お暇がありましたら、@KOUYAMIZUMORIを覗いてみて下さい♪

2012年を迎えてからの半年は自分を見つめ直す機会が多かった。ある作家さんが著作のなかで、執筆という作業は業が深いと述べていた。いざ、執筆活動をしているとその意味が分かる。執筆という作業は、普段の生活では見る必要のないもの、いじる必要のないものを、能動的にアプローチする。それは己の心の深層部だ。今まで生きてきて経験したあらゆる心への蓄積の残りかすを撹拌し、追体験してしまう。良いことだけではなく、むしろ悪いこと、嫌な思い出のほうが濾過されず沈殿していて心の深層部に溜まっている。皮肉なことに、その沈殿物が執筆活動のエネルギーとなり財産となる。それを知っているから、あえてその暗部を無理にサーチライトで照らし、かき出し執筆という浄化装置にかけて成仏させる。作品の良し悪しは別としても、僕の場合はそういうことをしないと物語を書くことができない。
日常生活では必要のない作業をするので、ときにひどい自己憐憫に陥り、鬱々とした日々を過ごすこともある。だが、執筆を辞めたいとは思わない。浄化装置を失うわけにはいかないから。

夢ってなんだ。確かに執筆することは夢ではあった。
夢を叶えるために夢を追いかけ、夢に生きる。そうしなければ自分の理想にはならないし、そうしていない人はそうしている人を羨む。そういう人は大事なポイントを忘れている。それは、夢はユメ。寝ている時に見るユメと同じで現実ではないということ。夢を追いかける人を羨む人は、夢を追いかけている人は現実から遠い所で生きていると思い込んでいる。そうじゃない。夢を追いかけるってことはどれだけ現実に直面することか!ユメを具現化することがどれだけ大変か!それでも諦めないのは、夢があるからというより、そうしなきゃ生きられないからであり、衝動であり、エゴを貫く覚悟があるから。他人がなんと言おうが、常識はずれだろうが、知ったことかという怒り。既成のレール、生き方じゃなく自分でレールを埋設する。それがバカならバカでいい。自分を生かすために自分を殺すのなら。




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年の瀬も迫って参りました。巷はX'masで浮かれ始めていますが、自分は元来がやじろべえな性質なので、斜な視線から楽しもうと思います。他人と違う自分を見つける楽しみもあります。


最近の自分は、本気で死に場所を求め考えている。ふと、俺はどこでどう死ぬんだろうと考えたとき、あまりの心の準備のなさに愕然とした。いつか死ぬことはこの世で唯一の絶対であり、わかりきったことなのに、準備が全くできていない。だからまず簡単に遺書の草稿を書いてみた。
決して、自殺したいと考えているのではない。死に場所を求めて生きることと、人生を悲観して自殺したいと思い生きることは、その意味合いも動機も違う。極論を言えば、思うところがあり自らの命を絶つという手段をとれた人を尊敬する。切腹がそうだ。大義のために死すは本望、ときっぱり潔く散れることはすごいし憧れる。死に場所を求め、今こそ死す時だと見極め好機を見逃さず、大義に死ねる。それこそ、生きたといえる。だらだらと、帆を失った船のように行き先もわからず当てもなくさ迷い、自然にまかせて朽ちるのを待つことは耐え難い。

ただ、自殺、切腹ともに自らで自らの命を絶つという行為が、命を自由にできるようになったとは言えないはずだ。切腹は授かった命を全うする究極の手段だ。

怒りを感じるのは、人生の内のちょっとしたつまづきで自殺してしまうことと、自殺願望にとらわれ自傷を繰り返しつつ生きること。前者は、嫌なこと辛いことから逃れるために死を選び、生を放棄することだから。楽な方に逃げたくなることは理解できるし、死ねば惨めな思いをせずにすむって感情もわかる。だが、辛苦は生きてるからこそ得られる賜物だ。
後者は、甘ったれの一言に尽きる。本当に生きるか死ぬかの大病や怪我をしたことがあったり、大切な人を失ったことがないから、死ぬってことがわかってない。わがままだ。自分を傷つける行為、究極は自殺が、自分を自由にできる、完全に支配していると勘違いしている。病気や怪我をして不自由すればわかるが、そうなると己の意思に反して自分の体は言うことをきかない。自然治癒も意識して管理できないし、まして脈拍数も尿意も欲求も完全に支配できない。命を授かる行為もその方法を借りているに過ぎない。ひとは、自分の命を絶つことができるから自分を好きにしていいと思い、借り物と言える肉体をないがしろにする。命を産み出せないのにだ。

超自然的な存在=神がいるとして、その神が種の交配方法をこのような手段でやろうと考え、ある一定の部分までをひとに託したとしたら、人の肉体は完全に人のものとは言えないはず。だから、親だからと言って子を好きにしていいと言う考えにはならない。例えは悪いが、人間の著作権は人間を産み出した存在にあるのだから、いくら自我があるとはいえ、自分のものではないものを傷つけてはいけない。
では、なぜ切腹は認められる時代があったか。それは、切腹はもらった命を全うすることだから。


生きることを全力投球できない奴は死ぬこともできず、ずるずると自傷行為を続けたりするんだろう。それは生きながらに死んでいる。厳しいが、仕方がない。死にかたを考える時間があったら、なんのために誰のために生きて死ぬかを考えるべきだ。

なぜ人間は自らの命を絶つのか。たぶん、すべての生き物でも人間くらいだろう。自然界で人という種が生き残るための限界数の調整の方策として、本能としてあるとしたら、そこまで案じた存在はすごいし、なんかゾッとする。自己犠牲=愛という心理も、この種の保存という本能が根本だとしたら、矛盾している。まだまだわからないことだらけだ。
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