年の瀬も迫って参りました。巷はX'masで浮かれ始めていますが、自分は元来がやじろべえな性質なので、斜な視線から楽しもうと思います。他人と違う自分を見つける楽しみもあります。
最近の自分は、本気で死に場所を求め考えている。ふと、俺はどこでどう死ぬんだろうと考えたとき、あまりの心の準備のなさに愕然とした。いつか死ぬことはこの世で唯一の絶対であり、わかりきったことなのに、準備が全くできていない。だからまず簡単に遺書の草稿を書いてみた。
決して、自殺したいと考えているのではない。死に場所を求めて生きることと、人生を悲観して自殺したいと思い生きることは、その意味合いも動機も違う。極論を言えば、思うところがあり自らの命を絶つという手段をとれた人を尊敬する。切腹がそうだ。大義のために死すは本望、ときっぱり潔く散れることはすごいし憧れる。死に場所を求め、今こそ死す時だと見極め好機を見逃さず、大義に死ねる。それこそ、生きたといえる。だらだらと、帆を失った船のように行き先もわからず当てもなくさ迷い、自然にまかせて朽ちるのを待つことは耐え難い。
ただ、自殺、切腹ともに自らで自らの命を絶つという行為が、命を自由にできるようになったとは言えないはずだ。切腹は授かった命を全うする究極の手段だ。
怒りを感じるのは、人生の内のちょっとしたつまづきで自殺してしまうことと、自殺願望にとらわれ自傷を繰り返しつつ生きること。前者は、嫌なこと辛いことから逃れるために死を選び、生を放棄することだから。楽な方に逃げたくなることは理解できるし、死ねば惨めな思いをせずにすむって感情もわかる。だが、辛苦は生きてるからこそ得られる賜物だ。
後者は、甘ったれの一言に尽きる。本当に生きるか死ぬかの大病や怪我をしたことがあったり、大切な人を失ったことがないから、死ぬってことがわかってない。わがままだ。自分を傷つける行為、究極は自殺が、自分を自由にできる、完全に支配していると勘違いしている。病気や怪我をして不自由すればわかるが、そうなると己の意思に反して自分の体は言うことをきかない。自然治癒も意識して管理できないし、まして脈拍数も尿意も欲求も完全に支配できない。命を授かる行為もその方法を借りているに過ぎない。ひとは、自分の命を絶つことができるから自分を好きにしていいと思い、借り物と言える肉体をないがしろにする。命を産み出せないのにだ。
超自然的な存在=神がいるとして、その神が種の交配方法をこのような手段でやろうと考え、ある一定の部分までをひとに託したとしたら、人の肉体は完全に人のものとは言えないはず。だから、親だからと言って子を好きにしていいと言う考えにはならない。例えは悪いが、人間の著作権は人間を産み出した存在にあるのだから、いくら自我があるとはいえ、自分のものではないものを傷つけてはいけない。
では、なぜ切腹は認められる時代があったか。それは、切腹はもらった命を全うすることだから。
生きることを全力投球できない奴は死ぬこともできず、ずるずると自傷行為を続けたりするんだろう。それは生きながらに死んでいる。厳しいが、仕方がない。死にかたを考える時間があったら、なんのために誰のために生きて死ぬかを考えるべきだ。
なぜ人間は自らの命を絶つのか。たぶん、すべての生き物でも人間くらいだろう。自然界で人という種が生き残るための限界数の調整の方策として、本能としてあるとしたら、そこまで案じた存在はすごいし、なんかゾッとする。自己犠牲=愛という心理も、この種の保存という本能が根本だとしたら、矛盾している。まだまだわからないことだらけだ。
Android携帯からの投稿
最近の自分は、本気で死に場所を求め考えている。ふと、俺はどこでどう死ぬんだろうと考えたとき、あまりの心の準備のなさに愕然とした。いつか死ぬことはこの世で唯一の絶対であり、わかりきったことなのに、準備が全くできていない。だからまず簡単に遺書の草稿を書いてみた。
決して、自殺したいと考えているのではない。死に場所を求めて生きることと、人生を悲観して自殺したいと思い生きることは、その意味合いも動機も違う。極論を言えば、思うところがあり自らの命を絶つという手段をとれた人を尊敬する。切腹がそうだ。大義のために死すは本望、ときっぱり潔く散れることはすごいし憧れる。死に場所を求め、今こそ死す時だと見極め好機を見逃さず、大義に死ねる。それこそ、生きたといえる。だらだらと、帆を失った船のように行き先もわからず当てもなくさ迷い、自然にまかせて朽ちるのを待つことは耐え難い。
ただ、自殺、切腹ともに自らで自らの命を絶つという行為が、命を自由にできるようになったとは言えないはずだ。切腹は授かった命を全うする究極の手段だ。
怒りを感じるのは、人生の内のちょっとしたつまづきで自殺してしまうことと、自殺願望にとらわれ自傷を繰り返しつつ生きること。前者は、嫌なこと辛いことから逃れるために死を選び、生を放棄することだから。楽な方に逃げたくなることは理解できるし、死ねば惨めな思いをせずにすむって感情もわかる。だが、辛苦は生きてるからこそ得られる賜物だ。
後者は、甘ったれの一言に尽きる。本当に生きるか死ぬかの大病や怪我をしたことがあったり、大切な人を失ったことがないから、死ぬってことがわかってない。わがままだ。自分を傷つける行為、究極は自殺が、自分を自由にできる、完全に支配していると勘違いしている。病気や怪我をして不自由すればわかるが、そうなると己の意思に反して自分の体は言うことをきかない。自然治癒も意識して管理できないし、まして脈拍数も尿意も欲求も完全に支配できない。命を授かる行為もその方法を借りているに過ぎない。ひとは、自分の命を絶つことができるから自分を好きにしていいと思い、借り物と言える肉体をないがしろにする。命を産み出せないのにだ。
超自然的な存在=神がいるとして、その神が種の交配方法をこのような手段でやろうと考え、ある一定の部分までをひとに託したとしたら、人の肉体は完全に人のものとは言えないはず。だから、親だからと言って子を好きにしていいと言う考えにはならない。例えは悪いが、人間の著作権は人間を産み出した存在にあるのだから、いくら自我があるとはいえ、自分のものではないものを傷つけてはいけない。
では、なぜ切腹は認められる時代があったか。それは、切腹はもらった命を全うすることだから。
生きることを全力投球できない奴は死ぬこともできず、ずるずると自傷行為を続けたりするんだろう。それは生きながらに死んでいる。厳しいが、仕方がない。死にかたを考える時間があったら、なんのために誰のために生きて死ぬかを考えるべきだ。
なぜ人間は自らの命を絶つのか。たぶん、すべての生き物でも人間くらいだろう。自然界で人という種が生き残るための限界数の調整の方策として、本能としてあるとしたら、そこまで案じた存在はすごいし、なんかゾッとする。自己犠牲=愛という心理も、この種の保存という本能が根本だとしたら、矛盾している。まだまだわからないことだらけだ。
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