神は笑って転ばせる。 | 神様との奇跡の出会い

神様との奇跡の出会い

全く霊感もオーラも見えないただの人間が、半分スサノオさまが入った師匠との出会いを振り返り、私に起こった奇跡を書いてみたいと思います。

今日、髪の毛を切りに美容院に行った後だったか、言葉が天から降ってきた。「あ、そうか」。今回の息子の志望校全滅(滑り止めしか受からなかった)で、いろいろ悩んでいた時、タイトルのような言葉が私に降りてきたのだ。

 香取神宮に2回行き、奥の宮も訪ね、願いを「通した」はずだった。これで「受かる」と思っていた。だが、それは人間としての浅はかな考えだった。神レベルからすれば、「ここは彼にとって転ばせたほうがいい」。と踏んだのだった。

 息子は大粒の悔し涙を流していた。普通、人間界のレベルだったら、「残念だったね」となるのだが、これが神レベルとなると「よし、最高だ。予定通り」となるらしい。ここで転んで、悔し涙を流すことで、ものすごくいい勉強をしたのだという。神レベルからみれば、これからはどこの大学に行こうが、「それが何か?」という価値観に変わるようだ。4~5年で大きくそうした流れに変わるらしい。

 実際、その兆しはすでに出ている。東大を出たとか慶応大学を出たからとか、どこを出たからといって「仕事でつかえるか」といったら、そうでもない。うつになってしまい、すぐやめてしまう。かえって、2浪して普通の大学を出た子のほうが、素直でよく動くと私なんかは思う。

               では、いったいその差は何か。師匠に聞いたら、「それが涙なんだ」と教えてくれた。

  そうか。涙か。痛みを知ることで、初めて「自分を持つ」ことになるという。人は、いい学校に入って、いい企業に就職し、いい伴侶をもらって、頭の良い子供を育てて、高級な車に乗って、都心の一等地に住み、ブランドの服を着て、ブランドの時計とかバッグを持ったら幸せになるのだろうか。それで、心まで満たされるのだろうか。

 人間がこの世に生まれてきた真の目的は、世間体を常に意識し、見栄を張って生きることだろうか。 

 師匠いわく「人間として生きて、幸せな人生を送ることだ」という。そこに「見栄」はまったく必要ないだろう。

                       私たちはどこで道を間違えたんだろう。