小澤征爾さんの死去に思うこと | 晴走雨読な日々〜Days of Run & Books〜

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私の好きだった指揮者のひとり、小澤征爾さんの訃報がありました。

 

世界的指揮者である彼の生涯や業績は、Wikipediaなどでも簡単に検索できますし、たくさん書かれた新聞の追悼記事の中で、うまくまとめられた記事を一つ紹介しておきます。

 

 

 

私が彼の名前を知ったのは、この本を読んだ時でした。

 

今では内容が少し編集された文庫本(表紙も違います)でしか読めませんが、まだ20代だった私はハードカバーのこの本を読んで、すごく感激したのを覚えています。

 

よく知られているエピソードですが、1959年弱冠24歳の時に単身フランスに渡り、滞在中にプザンソン国際指揮者コンクールで第1位を獲得。当時日本でもほとんど知られていなかった国際コンクールで優勝しても、大きなニュースにはならなかったと思います。また現地でも、東洋人に西洋の音楽が解るのか?という偏見もあり、驚きを持って迎えられました。

 

その後、カラヤンやミュンシュに師事したしたあと、アメリカでバーンスタインに見出されたのが、彼の転機でしたね。その後生涯にわたって師弟関係が続きました。

 

国際的な評価が高まるものの、日本ではNHK交響楽団にボイコットされるなど、あまり活躍の場はなかったようです。彼の奔放な態度が、まだ真面目な演奏が好まれた日本のオーケストラと合わなかったのが原因だとか。

 

そのため海外に活路を見出し、ウィーンフィルやボストン響をはじめとする欧米の一流オーケストラの指揮を任されるようになりましたね。

 

日本でも次第に評価されるようになり、のちに新日本フィルの創立に関わったのは有名な話です。

 

小澤征爾さんの指揮は、高校大学時代の恩師である斎藤秀雄さんの指導によるのが大きいですね。1980年代に、斎藤の門下生(主に桐朋学園の卒業生)を集めて、「サイトウ・キネン・オーケストラ」(SKO)を結成し、世界に日本人演奏者のレベルの高さを見せつけました。

 

長野県松本市では毎年夏に「サイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)」が行われ、ベテランはもちろん若手が活躍する機会となっています。のちに「セイジ・オザワ松本フェスティバル(SOF)」と名前を変えて、現在も続けられていますね。

 

晩年には食道がんが見つかったり腰を痛めたりして、以降はあまり表舞台に出ることはほとんどなくなってしまいました。

 

私が最後に姿を見たのは、去年の夏、あのジョン・ウィリアムズが SOF で SKO を指揮した時に、車椅子でステージに現れた時でした。(もちろん現地ではなくテレビで鑑賞)見ていても痛々しい姿で、腕を動かすことも声を出すこともできない状態でした。

 

そしてこの度の訃報。今では後悔しても仕切れないのですが、彼の生の演奏を聴くことがとうとうできなかったことです。ビデオやCDでは聴くことはあっても、仕事が忙しくてコンサートに行けなかったり、料金が高すぎて躊躇したりして、とうとう聴く機会を逸してしまいました。

 

ただの一ファンの私がどうこう書くのもおこがましいですが、彼の一番の功績は日本人でも西洋音楽を深く理解できるということを身をもって世界に証明して、後進の指揮者や演奏家が世界で活躍する土台を作ったことですね。

 

彼に限らず、天才と呼ばれる人は皆最初はその特異さで周りから蔑められます。小澤征爾は天賦の才を持った人でしたが、努力の人でもあり、自分の信念を貫くパワーも持ち合わせた人だったと思います。

 

合掌。