眠る男 | 好きなことだけで生きられる

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映画「眠る男」(1996)を観ました。

以下映画の紹介です。


眠る男

Sleeping Man

監督:小栗康平

出演:役所広司、アン・ソンギ、クリスティン・ハキム、左時枝、野村昭子、田村高廣

ジャンル:ドラマ

1996年

日本

103分

音声:日本語

字幕:

G

©群馬県「眠る男」製作委員会

第47回ベルリン国際映画祭国際アートシアター連盟賞受賞 岩波ホールで半年間のロングランとなった小栗康平監督第4作

オススメポイント: 『泥の河』(1981)、『死の棘』(1990)の小栗康平監督が初のオリジナル脚本で手掛けた長編第4作。製作費の全額を群馬県が出資、地方自治体による映画支援の基礎を作った。興行的にも岩波ホールで半年間のロングランとなり、成功を収めた。韓国からアン・ソンギ、インドネシアからクリスティン・ハキムをキャストに招いて国際的にもアピールし、第47回ベルリン国際映画祭で国際アートシアター連盟賞、第20回モントリオール世界映画祭で審査員特別大賞を受賞、1996年キネマ旬報ベストテンでは日本映画第3位となり、監督賞を受賞した。

あらすじ: 山あいの河にそった町、一筋町。一人の男が眠り続けている。男の名は拓次。彼は山で事故に遭って意識不明となり、老夫婦が暮らす農家の一室で眠り続けている。町で小さな電気店を経営している拓次の同級生、上村は、眠り続ける拓次に話しかけるが反応はない。町外れのバイパス沿いにはアジアからやって来た女性たちが働くスナック「メナム」がある。そこで働くティナには母国で息子を失った過去があった。月が満ちては欠け、雨や風が訪れて緑が濃くなる頃、拓次は息を引き取る。だが、ティナは森の中で死んだはずの拓次と再会する…。


【配信期間:2022年6月14日~7月13日】

ジャイホー映画紹介記事より抜粋

山で事故にあい意識不明になった男が息を引き取るまでの話。

眠る男が主人公の映画も珍しい。 

過去作品が軒並み評価される小栗康平監督のオリジナル脚本による長編4作目。

なんともその語り口が淡々としていて物語にのめり込めない。

いろんな人の感想を見たけど、この人のが1番しっくりきた。

<眠り>の世界から他界後の<現実>世界へ

監督:小栗康平、企画:小寺弘之、脚本:小栗康平、剣持潔、撮影:丸池納、編集:小川信夫、照明:山川英明、録音:井上創一、美術:横尾嘉良、音楽:細川俊夫、演奏:群馬交響楽団、製作:群馬県『眠る男』製作委員会、主演:役所広司、クリスティン・ハキム、1996年、103分、配給:SPACE

企画の小寺弘之は、当時の群馬県知事であり、1996年に群馬県の人口が200万人に達したのを記念して、群馬県(前橋市)出身の映画監督・小栗康平に映画の作成を依頼したのである。地元をロケ地として活用した、いわゆる「ご当地映画」のはしりとなった。自治体が文化活動にかかわる試みが斬新でもあり、話題となった。こうしたわけで、製作は、群馬県『眠る男』製作委員会となり、県内の随所がフィルムに収められることとなった。

拓次(アン・ソンギ)は、山で転落事故に遇い、それ以来、無意識のまま眠るだけの生活を送っている。この男や「眠ること」の周辺を、家族やその友人、地元の人々の生活の断面を織り込みながら、思索的に静謐のなかに映像化しようと試みた映画である。

拓次の友人である上村(かみむら、役所広司)や、「メナム」というバーで働くティア(クリスティン・ハキム)の出番が他の俳優より多く、内容上も、ストーリーを緩やかにリードしている。クリスティン・ハキムは、インドネシア出身の女優である。

「眠る男」は、ラスト30分を迎えるあたりで他界する。これを契機に、上村は、大きな真っ黄色の満月や、ブロッケン現象を見ることになり、ティアは、それまでに遠くに小さくしか見られなかったニホンカモシカを、目の当たりに大きな姿で見ることになる。温泉の湯は少し熱くなった、というセリフがある一方で、水車小屋では、淡々と回り続ける水車の元で、傳次平(でんじへい、田村高廣)と少年リュウ(立川寛明)が物を作っている。

冒頭より、夢、精神、伝承、人間、善悪などについて、セリフ問わずがたりに語られ、結論も出ないまま、人々の日常の暮らしのなか、時は過ぎていく。何が起ころうとも、冬の次には春が来る、というセリフに象徴されるように、時間だけは刻々と過ぎ去っていくのだ。それは、あたかも、「眠る男」の眠りの世界を再現したように、複雑怪奇で結論などありえないまま、現実の世界に具現化した夢世界なのであろう。そこには、右の反対は左といった二元論などや理論的筋道などはなく、ただ、時間的存在である人間が、悲喜こもごものうちに、さまざまな営みをもがきながら繰り返しているのみである。

ティムは、「南からきた人」と呼ばれているが、映画終盤には、ティムらところどころに登場した「南からきた女たち」の姿は見えなくなった、とある。彼女は、さすらいの象徴として描かれており、あちらこちらに移動し、ラスト近くまでティムは、微笑さえ見せず、「眠る男」とも面識がない。しかし、冒頭より、「眠る男」と対をなす存在として描かれており、彼女の意志や行動は、あたかも「眠る男」の夢の再現とみることもできる。だからこそ、何度か面識のあった上村と、彼が「眠る男」拓次との想い出となっている山奥の廃屋で、ティムは偶然にも出遭うことになるのでる。

ティムの衣装は、シーンごとに異なる。彼女は、日常性を逸脱した存在なのである。こうした存在はまず、日常と非日常の端境にいるワタル(小日向文世)と先に言葉を交わしている。ワタルは知的障害のある青年であるが、映画冒頭から出て、肝心なシーンで中核となっており、本作品のテーマを握る存在である。ラスト近く、貸し自転車屋のオモニ(八木昌子)は、駅の改札わきに黙ってうずくまるワタルの姿を見て、「あんなふうに静かでいられたらいいのに」とつぶやく。

「眠る男」の<眠り>の世界を、他界後の<現実>の世界へと橋渡しする役割は、観世暁夫率いる銕仙会(てつせんかい)の能舞台のシーンである。このシーンが入ることで、方向性も質量も不明だったそれまでの流れに対し、映画としてのラストへの向きと厚みが予言されている。

撮影は、ほとんどが固定カメラで、遠景でも近づくことをせず、そのままだ。バストショットや、ましてやアップなども一切ない。それだけに、たまにパンすると刺激的である。ところどころ、わからぬ程度にCGが使われている。

時を超えるという意味もあり、秋~冬~春~初夏といった季節の移り変わりは、容赦なく出現させられている。山々、大きな河川、渓流、木立、森、林、海など、自然の風物を丹念に取り入れているほか、「眠る男」の横たわるへやにある絵画など、時折映される画家・平松礼二による日本画にも注目したい。
風景とともに流される弦楽の調べも、せつなく美しい。


Yahoo映画レビューより 


この映画もまたこの監督にしか撮れない映像表現です。

監督なりに今までの映像表現に対してのチャレンジする姿勢が感じられます。

眠る男が主人公でも映画が作れることに対しての飽くなき挑戦。

見る人それぞれの見方がありますが主人公と同じに眠ってしまうのはあまりにもったいない。

意識して見れば映画の中で触れられていた夢、精神、伝承、人間、善悪について考えるきっかけにもなる作品です。

時に眠ることが他者との雄弁な対話をもたらすことができる可能性についての映画です。

死後最高の眠りにつくために果たして今自分に何ができるのか?