山梨県・・・山梨市
安田、二階堂、大村の3氏が館を築き、徳川の内藤氏が築いた高台の城・・・城(浄)古寺城
牧丘町城古寺地区の概略図
八幡神社に保存されている城古寺城天守台の礎石
天守台礎石
城古寺城(浄古寺・じょうこじ)城は、笛吹川と鼓川が合流する窪平の地点の北の高台。現在の牧丘町浄古寺城山に安田義定が居館を築き、弘安年間に二階堂氏が修築し、天文年間に大村氏が修築した平山城だ。別名を浄古寺城、中牧城、東郡城。
この城は埼玉県秩父市大滝に通じる彩甲斐街道・国道140号(昔の秩父街道)と西保から国道206号線の山道を通って甲府に向かう秩父裏街道とが分岐する交通の要衝を抑えた規模の大きな城域を持っている。
二の丸と八幡社の間の道は空堀
2の丸跡
現在は葡萄畑で奥に主郭・本丸が置かれていた
天正17年(1589)には、徳川家康の家臣の内藤三左衛門信成が封じられて大修築を行ったとされ、現在の縄張りとなったようだ。
登城の始めは、「史跡中牧城(浄古城)址」説明板が掲示されている高台、牧丘八幡神社のある境内駐車場から周囲を観察しました。北側に堀ノ内団地が、東北側には笛川小学校、東側には笛川中学校が望める高台で、神社の西側の葡萄畑や墓地のある小高い丘が城域となっている。遺構は、天守台や本丸(葡萄畑)、堀、土塁が確認される。
城の守り社として祀られた八幡社
八幡神社は、天文17年(1548)に武田氏が、天正17年(1589)に内藤氏が、築城の際に城内鎮守社として祀ったとされる。交通アクセスは塩山駅から4・9㎞。
城と合戦
城(浄)古寺城の本丸は、東西が約86㍍、南北は110㍍の大きさで南東の一部は墓地で今も墓地である。全体の城域は、約320㍍×約440㍍とされている。城古城の概要は、土塁と空堀で城域をぐるりと囲んでおり、西側の外堀(島ノ口堀)は水堀も配されていたようだ。奥北側に天守台を置いており3重の土塁を穿って内堀で厳重に守っている。本丸は天守の南側で東側は広い敷地を擁し、二重の土塁と馬出しも見られる。土塁を境にして本丸の南側に2ノ丸、さらに3ノ丸を配している。
左側に残る天守台側の崖跡
4の丸の高土塁跡に建て墓石
天守台はブドウ園に
5の丸を右に見て外堀の土塁
5の丸の土塁付近は柿畑
天守台跡地付近
天守台から続く土塁
伝承によると城古城は、初めに保田義定の居館で、弘安年間(1278〜88)に二階堂氏が修築し、そして天文年間(1532〜55)に大村氏が修築したとされているが、3氏と牧丘地域と城の関係を明確に示している史料は不明だ。
保田義定については良く分かっていないが、似た様な名では甲斐源氏の有力な武将で遠江国を支配した安田義定は、源平合戦に源義経と行動をともに平家追討に大きな功績をあげ、源頼朝の鎌倉幕府創建に貢献した。しかし、義定の台頭を恐れた頼朝の猜疑心から親子ともども謀殺された。この人物ではないでしょうね?
次に、二階堂道蘊(どううん)ですが、道蘊の墓・宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、城古寺城から見て東南側の隅(3の丸からの続きの外堀近く)に祀られている。
外堀近くにある道蘊の墓案内図
南に伸びている外堀
2基の宝篋印塔
二階堂道蘊の墓
二階堂道蘊は、鎌倉時代後期の幕府御家人(文永4年=1267誕生)で政務所執事という。道蘊は出家した後の法名だ。後醍醐天皇が起こした「正中の変」で、鎌倉に送られた天皇の誓書の判読を止めた人物として『太平記』に記されている。また道蘊は、元徳元年(1329)に起った後醍醐天皇と持明院統の譲位をめぐる対立では、鎌倉幕府の使者として上洛して持明院統に有利な調停案を示した。
その後も幕府の引付頭人(引付衆の主席)、甲斐の守護。元徳年間の後醍醐天皇の譲位を促す使者や楠木正成が挙兵した千早城攻めにも参加。正慶元年(1332)に政務所執事で得宗の北条高時を補佐するも、翌年5月、新田義貞による鎌倉攻めで高時が自刃して鎌倉幕府崩壊。
『太平記』には、「建武の中興」において朝敵の最一、武家の補佐として扱われるものの、賢才の誉れ高く建武政権に参政して雑訴決断所四番衆となり北陸道を管轄した。建武2年(1335)に起った北条氏再興の陰謀(中先代の乱)に加担したとして六条河原で処刑(享年68歳)される。
一方、大村氏は主従していた武田氏が滅ぶと、北条氏に従属していたが1582年に起った「天正壬午の乱」で徳川家康に城が急襲されて大村氏は滅びて、浄古寺城も徳川軍の手に落ちた。大村氏は、甲斐国山梨郡中牧を中心活躍した土豪で、武田信玄の時代に大村加賀守晴忠が城古寺城城代となり、雁坂口の警護を任されたという。
天正10年(1582)に起った「天正壬午の乱」において、大村氏は大村党を率いて北条方に従って大村三右衛門尉忠堯と子の伊賀守忠友は大野砦に立て籠もった。徳川側は穴山衆の穂坂常陸介や有泉大学に命じて砦を急襲させ、大村氏達は滅亡した。
そして「天正壬午の乱」の終結で、信濃と甲斐の2カ国が徳川氏の領有となり、天正17年(1589)に徳川家臣の内藤三左衛門信成が城代で入居して大改修を実施している。
改めて城古城概要図で内藤氏による縄張りを詳細にみると、本丸以外には北西の隅に一段高い天守台跡が示されており、本丸を囲む内掘の北と西と南の3辺は幅約15㍍と広く防備を固めている。東側は自然の崖で斜面に竪堀が認められる。八幡神社の東側と南側は外堀にあたり畑の窪地を活用したようで幅は約8メートルとされている。位置的には神社の南側に2の丸、土塁と堀を挟んで三の丸が配されていたとされる。
外堀と小道と堀
現地は、ブドウを中心とした果樹園が大部分を占めており、往時の城郭配置を推定するのも大変だが、想像を膨らませて周りをみると、小高い山・丘を削平して築かれた中規模のお城と言えます。
天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐を経て、甲斐は豊臣秀吉の家臣加藤光泰に与えられた(内藤氏は韮山城へ)が浄古寺城はこの頃に廃城となっている。
参考資料:「史跡中牧城(浄古寺城)址」(牧丘町教育委員会)、『牧丘町誌』、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『太平記』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。