ニューヨークに行きたい!
......it’s really not about the money on Jazz Night. I think it’s more about creating community, and being able to create space for the musicians to do their thing and have a really good time......
Where Jazz Lives Now by Giovanni Russonello, The New York Times, March 20, 2022
最新ライブ情報
2023年11月28日(火)
経堂クレイジーラブ
open19:00 start19:30
久原博高tp 川村健pf
charge¥2500
TEL : 03-3425-9041
E-mail : live@jazzbar-crazylove.info
〒156-0052 東京都世田谷区経堂 1-22-18
私は本物の「ミュージシャン」とは音楽で言葉を話す人たちだと思っている。
そして、この人こそ本物のミュージシャンだと私が思っている久原博高さんはニューヨークのハーレムへ行きたいと言う。
なぜなら、そこには音楽で言葉を話す人たちがたくさん住んでいるから。
たとえ母国で暮らしていても、音楽語が話せない人たちに囲まれていたら、ミュージシャンは異邦人みたいなものだ。だから久原さんはときどきさびしくなって、お酒を飲みすぎてしまうのだと私は思う。
人はどのようにしてミュージシャンになるのだろう。
たとえ音楽が好きでも才能があっても環境がなければ才能は開花できない。そこには抗えない「運命」というものが働いている。どんな身体を持って生まれてきたのか、それも運命だ。
久原博高さんについていえば、幼少期にトランペットという楽器に出会ったこと、そしてたまたま学区内の小中学校が吹奏楽部の名門校で、演奏の基礎をしっかり身に着けられたことが、その後の人生を変えることにもつながった。
2008年に結成された2管クインテット・ジャズバンド、「Chocolatone」は私のお気に入りで、仕事の帰りに目黒の「バンバンG」という今はないジャズの店に聴きに行った。会社の屋上でたまたま遭遇したジャズ・ミュージシャンに誘われ、ジャズのことなんて何もわからないで聴いていたけど、リーダー野下聖司さんのテナーサックスと久原博高さんのトランペットがユニゾンするときに訪れる幸福感は私を日常からワープさせてくれた。
Chocolatoneが解散して10年以上たってから、久原さんから通知をもらった。当時のバンドのメンバーだったピアニスト川村健さんと経堂Crazy Loveでデュオライブをするという。その日、私がライブハウスに入っていくと、川村さんがぽつんとピアノの前にすわっていて、1人でライブをスタートした。
川村さんはChocolatoneの頃は大学を卒業したての駆け出しのピアニストだったけれど、いまやベテランというだけでなくそれ以上だった。すばらしいテクニックに裏打ちされた自由奔放な演奏にびっくりしていた。
そこに現れた久原さんは一瞬ぎょっとするほど顔色が悪く、ふらふらしていて明らかに体調が悪そうだった。しかし、トランペットを吹き始めると、その音色はいままでに聴いたことがないほどに深く、表現豊かで、陰影があり、心を奪われるものだった。そしてジャズの共通語を話すふたりによる演奏の会話は弾み、ふたりだけにしか作れない空間がそこに生まれ、私はその空間で起こっていることを小さなライブハウスの同じ空気の中で感じることに喜びを覚えた。
Youtubeではほとんど映像をみつけられなかったが、久原さんのトランペットの音は、同じ空間で聴いていると、ずっと聴いていたいと思う深く優しい音色だ。トランペットの音はその人の魂から直接飛び出てくる。だから、機械を通してではなく、空気がふるえて伝わる音を聴くことができた人は幸いだ。
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小学4年生。幼稚園のときから貯めていたお年玉の全部でトランペットを買った!
―― 久原さんの音楽、トランペット、ジャズとの最初の出会いについてお話をきかせてください。
久原 親父の影響かな。僕が生まれ育ったのは九州の佐賀県で、有名な交響楽団のオーケストラ演奏を聴くような機会はあまりなかったんだけど、音楽好きの親父はよく地元の高校の定期演奏会にまだ子供だった僕を連れていってくれた。ステージに立っているのは女子ばっかりで、男子はほとんどいなかった。僕の田舎は男が音楽をやることに偏見があって、たとえば僕は幼稚園から中一までピアノを習っていたけど、「男のくせにピアノをやって」と近所の人にさんざん言われた。ピアノは好きで続けていたかったけど、あまりうるさく言われるので、ついにやめてしまった。
―― それは、女性差別の裏返しの男性差別ですね。
久原 東京の人には想像がつかないと思う。小学生のときだけど、親父が連れていってくれた定期演奏会に男子のトランペッターが出ていた。その人はとても上手だったし、吹いてる姿がかっこいいと思った。やはりそのときも楽隊のメンバーはほとんど女子だったから、トランペットが男子というのがとても印象に残った。それからずっとトランペットがほしい、ほしい、ほしいと思い続けて、ついに、小学校4年生の正月、幼稚園のときからずっと貯めていたお年玉をぜんぶ使ってトランペットを買った!
―― 全財産をつぎこんだわけですね。それはどんな楽器でしたか?
久原 うん、今でもあるけど、当時4万7千円のヤマハのカレッジモデルっていうトランペット。そのあとすぐ、小学校の4年生の3学期にブラスバンド部に入った。そこも女子が多かったけど、トランペッターは3人とも男子だった。男子はふつう音楽なんてやらないという風潮で、もし男子が音楽をやるとなった場合、楽器は限られていて、背が高かったらチューバ、小柄だったらトランペットっていう棲み分けがあった。
偶然だったんだけど、僕の入った小学校のブラスバンド部――金管バンド部と呼ばれていたけど、佐賀市の中でもレベルが高くて、そこで基礎がしっかり身についたと思う。
でも、再三言ったように男が音楽をやっているといろいろ言われる地域だったから、中学に入学したとき、ピアノもやめたし、ブラスバンド部に入らないで、最初は陸上部に入った。でも1年生のとき、成長期の一時的な病気だけど、踵に軟骨ができて、走れなくなってしまった。そしたら、小学校のときの金管バンド部の仲間が、女の子が多かったけど、「せっかく吹けるけん、こっちきんしゃい」って誘われて、けっきょく吹奏楽部に入ることになった。
―― スカウトされたんですね。
久原 いや、男が少なかったっていうのもあって。その、中学(佐賀市立城南中学)の吹奏楽部っていうのが県大会で毎年金賞とって、九州大会までは必ず行くっていう県のトップクラスで、毎年全国大会めざしていた。そのぶん練習も厳しかったよ。いまはどうか知らないけど。
↑20年前の久原さんの母校の吹奏楽部の演奏。
残念ながら久原さんの在籍していた年の映像はみつからなかった。
これを見ても、ほとんど女子で、男子はチューバなど金管楽器に限られている。
しかしながら、中学生にして、演奏の水準の高さには驚かされる。
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中学3年生。演奏会の直前に唇がこわれた!
―― 練習は厳しかったでしょうね。
久原 うん、毎日放課後夜8時までやっていたし、土日も休みなしだった。土曜日の練習は午後からだったけど、日曜日は朝8時から夕方までずっと。おかげで中2、中3のとき県大会は金賞で、九州大会まで行ったよ。吹奏楽部のコンクールとは別に、中2のときにアンサンブルコンテストっていう小グループのコンクールがあって、こっちでは県大会金賞、九州大会も金賞だった。
―― やりましたね! 九州大会で金賞だと全国大会にも行ったんでしょう?
久原 ところが、金賞もらったのが3校で、そのうち2校しか全国に行かせてもらえなかった。金賞とったのに行けなかったたった1校がうちのグループだったという……。
―― それはさぞくやしかったでしょう……。
久原 中3で九州大会が終わると、いったん受験で引退するんだけど、受験が終わってからまた演奏会に出ることになった。張り切って練習していたんだけど、本番直前に突然トランペットが吹けなくなっちゃって……。
―― え! 『カムカムエヴリバディ』のオダギリジョーみたいですね。
〈註:NHK朝ドラ『カムカムエヴリバディ』第57話。ジョー(オダギリジョー)はるい(深津絵里)の恋人でトランペッター。デビューコンサートの前に突然トランペットが吹けなくなって、コンサートが延期になる〉
久原 オダギリジョーと同じ理由かどうかわからないけど、僕の場合、唇がこわれてしまった。
―― 唇がこわれる? それはいったい……?
久原 練習で高い音を出そうとして、すごい勢いでビュンビュン、ビュンビュン吹いていたんだよね。そしたら急にぱたっと音が出なくなって……。スッスッとしか言わなくなった。
―― どうしてそうなってしまったんでしょう?
久原 これはトランペットの奏法の話になるけど、唇をふるわせた振動が長い鉄の管を伝わって音が出るわけだ。で、そのときに唇をぐっとマウスピースの鉄と歯の間に挟み込んで押さえつけていると、だんだん唇に血が通わなくなってくる。今はそういうハードな吹き方じゃないけど、当時はそういうダメージを受けやすい状態でずっと吹いていて、いきなりバッと強く吹いたときに、唇の筋断裂(筋肉の繊維が切れること)を起こした。
―― こわいですね……。それはよく起こることなんですか?
久原 ハードにプレスして吹くトランペッターにはよくあることだね。有名なところではニコラス・ペイトンとか。フレディ・ハバードは唇をこわして回復しないまま亡くなった。
僕もそれから5年間は吹けなくなってしまった……。
↑唇をこわす少し前、1985年のニューヨーク・タウンホールでのライブでMoanin'の
演奏をするフレディ・ハバート。高い音を連続させるときに唇にぐいぐい管を押し付
けているようすがわかる。
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大学2年生。ジャズとクリフォード・ブラウンに出会う。
―― それはショックでしたね……。
久原 ただ、その頃はトランペットを仕事にしようとか、そこまで考えていなかったので、「あー吹けなくなっちゃったなあ……」と思ったけど、しかたがないからあきらめて、エレキギターを買ったよ。
―― バンドを組んだんですか?
久原 バンドは組まなかったけど、こっそり好きなロックのプレイヤーのフレーズをまねて弾いてみたりしていたな。そんなことしてるうちに5年がたって、「そういやトランペット、もう吹けるかな?」と思って吹いてみたら、音が出た。
―― よかったですね!
久原 ちょうどそのころ、父がジャズにはまって、マイルス・デイヴィスとか、ディジー・ガレスピーのCDを借りてきて僕もそれを聴いた。マイルスは暗いなーと思ったけど、クリフォード・ブラウンを初めて聴いたとき、テクニックがすごいんで「なんだこれは!」とびっくりして、トランペットを持ち出してきて同じようにやってみようとするんだけど、当然できない。くやしいから自分でCD買ってきて、少しずつ戻しながら聴いて真似て覚えるということをしたよ。その頃はジャズの理論も基礎的なことも知らなかったけどね。そんなことをやっているうちに、就職しなくてはならなくなった。
―― どんな仕事をされていたんですか?
久原 コンピューターのシステムエンジニアになって、銀行のシステム設計やスーパーのPOSシステムのサーバー設計に携わっていた。そのうち忙しくなって、トランペットもギターもやれなくなった。30代半ばまでは仕事にどっぷりつかっていた。それでも仕事がないときには河原で吹いたりジャムセッションに行ったけど、会社に泊まり込んで1週間も家に帰れないこともざらだったからね。
―― 1週間も! システム設計は、高度で緻密な仕事ですね。責任も重く、納期や正確さへのプレッシャーも大きかったでしょう。
久原 そうだね。ただ、休みがとれたときには、バックパッカーになってインドや東南アジアに行ったりしたよ。沢木耕太郎や藤原信也の本を読んでずっと行ってみたいと思っていたから。
―― トランペットは持っていったんですか?
久原 もちろん。タイのルンビニ公園の前にある「ブラウン・シュガー」っていうジャズのお店に入ったときは、ステージに飛び入りさせてもらって、……そのときオーストラリア人とベトナム人が演奏してたけど……いっしょに吹かせてもらったりしたね。
―― タイにはいろんな国からミュージシャンが集まる、国際的なお店があったんですね。
久原 でも仕事が24時間体制になってから、ストレスと緊張がずっと続いてメンタルをやられて、体もついていけなくなって、エンジニアの仕事はできなくなってしまった。
↑原浩之カルテットの演奏。久原さんがトランペットを吹いている。
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そしてジャズ・トランペッターになった
―― そうでしたか・・・・・・。
久原 そのとき、腹をくくって、ジャズ・トランペットを、本格的にやってみようと思った。そして今に続いている、というわけだ。
ジャズの理論は、誰かに習ったりしたわけじゃなく、独学で勉強した。ただ、出したい音をどうやって出すのか、自分で答えが出ないときに、好きなプレイヤーのところに行って、直接訊いたりしたことはあったな。正規のレッスンを受ける費用はなかったから、体験レッスンに潜り込んで質問した。
トランペットは二日吹かないと、明日大丈夫かなって、不安になる。唇の筋肉って、ふだん生活しているなかではぜんぜん使わないからね。練習しなければすぐ衰えてしまう。
―― 唇に筋肉があることすら、知りませんでした(笑)
久原 一日吹かないと自分がわかる。二日吹かないと(バンドの)メンバーがわかる。三日吹かないとお客さんがわかる。そういわれている。
―― 毎日練習することが重要なわけですね。けれど、トランペットは音が大きくて、練習できる場所も制限されると思いますが、そのへんはどうしていますか?
久原 雨の日はカラオケボックスで、外でできる気候のときはでっかい公園なんかで練習する。家にいるときにどうしても吹きたくなって練習してしまったこともあった。そうすると近所から苦情がくるし、大家さんからも訴えるっておどかされたり……。それで1回引っ越したけど、引っ越し先でもまたつい練習しちゃったら、警察が来て……。それでまた引っ越して、と、東京に来てから引っ越しばかりしていた。
―― たいへんでしたね……。
久原 楽器可の物件ってあるんだけど、管楽器や打楽器となると、ぐっと数が減ってしまう。だからいまはもっぱらカラオケで練習してる。午前中に行くと安い。ライブやコンサートがあるときにはリハーサル室が使えるから、そこで練習するけどね。
↑ニューヨークに行ったときにはセントラルパークで練習した。
練習中に近寄ってきてチップをくれる人もいた。
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Se-jiと出会い「Chocolatone」が結成される
―― そして、本格的にジャズトランペットに取り組み始めてから、野下聖司さん(Se-ji)と出会ってバンドを組まれたんですよね。
久原 そうだね。会社をやめたその年に野下さんと出会った。知り合いのドラマーが佐藤秀也さんが箕輪の自宅スタジオでやってるジャムセッションに誘ってくれて、そこで初めて。
―― 佐藤秀也さんは野下さんのサックスの師匠でしたね。
久原 そうそう。で、そこから野下さんとのつきあいが始まって、「Chocolatone」ってバンドを組むことになった。
―― 私が会社に勤めていたころ追っかけをしていました。で、きっかけはどんなことだったんですか?
久原 野下さんが「浅草ジャズコンテスト」に応募したいんだけど、一緒に出ようよって誘ってくれて、そのために野下さんがメンバーを集めてきて、レコーディングしたのが最初だったな。2回目の応募で音源審査通って本選まで行った。そのあいだにいっぱいライブをやって。「バンバンG」とかで。
―― 目黒のバンバンG、なつかしいですね! 会社の帰りによく寄っていました。浅草公会堂にジャズコンテストの本選も応援に行きました。ビッグバンドが大半だったですね。
久原 あのときは、それまでビッグバンド部門とか、分かれていたのがみんないっしょくたになってしまっていた。
―― ビッグバンドとは人数だけじゃなく音楽の方向性も違うんだから、部門別にしたらよかったのに。審査員もよくわかっていないんじゃないかな、と思いました。
久原 それで、次どうする?ってなったときに、コンテストはもういいかな、っていう感じになって、ライブだけを続けた。
―― けっこう続いていましたよね。Chocolatoneのライブ、いっぱい聴きにいった記憶があります。全部行ったわけじゃないけど、50回近くライブしましたね。
久原 でも続いたのは3年半くらいかな。そういえば、間口さん(モンク間口、間口克博)が歌ったとき、反応していたね。
―― 作業着でふらりと来られた方ですよね。ちっとも気取らないようすでしたが、心を揺さぶるような歌声にびっくりしました。いまはどうされていますか?
久原 5年くらい前に亡くなったよ。
―― そうだったんですか……。Chocolatoneのライブには、たいがい女性シンガーが入って華やかにバンドを盛り上げていましたけど、間口さんは毛色が違っていましたね。間口さんにしか歌えない歌を歌っていました。音源が残っていたら、聴きたいけどなあ。一般には知られていないけど、すごい人がいて、そういう人が何も記録を残さず、ただその人の声を聴いた人の記憶の中にしか残っていないという、そういうシンガーに出会えてよかったと思います。
↑当時のChocolatoneのポスターの
一部。左から野下聖司さん (Ts)、
久原博高さん (Tp)、川村健さん (Pf)、
風間進一 さん(Bs)、山本亨さん (Ds)
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ニューヨークのセッションでは誰も楽譜を見ない
―― そして、2019年にニューヨークに行かれましたね。
久原 2週間だけだけどね。それは、単純に向こうのジャムセッションっていうのがどういうものか体感したくて行った。音楽だけが目的だった。ハーレムの中心地が125丁目なんだけど、僕は124丁目に泊まって、隣がグレイタアー・リフュージ・テンプルっていう教会で、ゴスペルを観光客が聴きに来るような有名なところだった。
―― 本場のゴスペルも聴いたんですね?
久原 日曜日に教会に行って聴いたよ。ゴスペルは、キリスト教なんだろうけど、なんていうか、黒人のパワーをすごく感じさせられた。最後は感動してみんな泣いてたりするし、表現もみんな、豊かだし。教会には男の人はスーツ着て、女の人はおしゃれして来ていた。
―― そうですか。教会は社交の場でもあるんでしょうね。
久原 うん、でもメインにキリスト教の説教があって、それにまつわる歌を歌うというのが基本だね。礼拝のあいだ、うしろにゴスペル隊がいて、その横にオルガンとドラムがいて。教会によってはピアノのところもあったけど。
―― ゴスペル隊にはドラムもいるんですね。
久原 でかい音でズッコンズッコン叩いていた。
―― 日本の教会の聖歌隊でそれやったらどうなるかしら! ハーレムでは音楽が生活に根付いているんですね。
久原 あれを毎週やってるのかと思うとほんと……。
―― ハーレムに住みたくなっちゃいました?
久原 住みたくなった。(笑)
―― 治安が悪くないですか?
久原 いや、昔を知ってる人から言わせるとだいぶ治安がよくなったという話だ。深夜3時とかに歩いていても全然平気だった。
ジャズに関していうと、日本と比較するのがおかしいくらい、別物だった。
―― 次元が違う、というような感じですか?
久原 そうだね。レベルが高い。誰も楽譜を見ない。
―― そういう日本とは比較にならない人たちのジャムセッションに飛び込んで行かれたわけですね。
久原 「あのトランペッターなかなかやるな」と思わせたかったからね(笑)
―― うまくいきましたか?
久原 いや、ぜんぜん(笑)。セッションの参加者にあとで名前をきくと有名なミュージシャンだったりしてびっくりした。
―― これは、セッションのときトランペッターのウェイン・タッカー さんと一緒に写真を撮ったんですね。
セッションが始まるのは夜ですか?
久原 ライブハウスでライブが終わってからだから、夜中の2時3時に始まる。
―― 真夜中じゅう、明け方までって感じですね。
久原 ニューヨークの地下鉄は24時間動いてるからね。
―― セッションの参加はどんなシステムになっているんですか?
久原 日本のジャムセッションみたいに順番を待って名前を呼ばれてからいくんじゃなくて、自分から名乗りをあげて参加するというやり方だ。だからこれは知っている曲だと思ったらさっさとステージにのぼっていって吹いた。参加者が多かったときにテーマ吹き終わったらほかの奴にアドリブとられてむっとしたこともあったけどね。
―― アドリブが吹きたかったんですね。
久原 もちろん。しかし、サックスもピアノも、誰も楽譜なんかなしで、当たり前のようになんでもこなしていたね。
―― 楽譜なしで、ということは、全部頭に入っているってことですね?
久原 そうだね。
―― そういえば、シンガーは歌詞を一生懸命おぼえて歌うのに、演奏する人はいつも楽譜見て弾いてるよなあ、と思ってしまったことがありました。
久原 僕は見ないよ。もちろん練習のときは見るけど、ライブのときはコード進行なんて頭に入ってるし、もし忘れちゃったとしても、そのときに鳴ってる音に合わせて吹かなきゃ、と僕は思ってる。
それも単純に数字合わせのアドリブじゃなくて、ちゃんとしゃべるような感じで、感情がのるような感じで吹いていかないとだめだし、そのためにはまわりのメンバーの音を聴いて、そことちゃんと会話していかないといけない、と思ってる。
↑久原さんが大好きなトランペッター故Roy HargroveはSmalls
セッションの常連だった。写真は店内の亡きRoyが座っていた
辺りに飾られている。
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ジャズ濃度、ヒップホップ濃度は個性
―― アメリカでは、ヒップホップを聴く人が多いようですが、同じ黒人の音楽であるヒップホップとジャズはどんな関係なんでしょう?
久原 よくわかんないけど僕はやっぱりマイルスの影響を持つジャズプレイヤーの存在が大きいと思う。亡きロイ・ハーグローブとか、ハービーに影響を受けてるグラスパーとか。
マイルスの最後のアルバムDoo-Bopには既にラップがはいってるから。今でもカッコいい。
日本でもTOKUさんとZeebraさんが一緒にやったりしてるだろ。
―― 有名人同士ですね。
久原 もっと身近なところでは、野下さんとTwigyさんが一緒にやってる。
―― ああ、そうでしたね。そのアルバム聴きましたが、野下さんのサックス、ヒップホップの曲にすごい合ってる。
久原 野下くん自体が個性としてどっちかというとヒップホップ濃度が濃いからだと思う。僕とか健くん(川村健)はそうでもない。
―― 野下さんはジャズサックスを佐藤秀也さんに習っていたから単純にジャズ志向なのかと思っていましたけど。
久原 うーん、野下くんがChocolatoneでやりたかったのは、「踊れるジャズ」だったんじゃないかな。でも、僕たちはそうなってなかったから野下くんはChocolatoneに満足できてなかったと思う。
―― 踊れるジャズ。なるほど、そう言われると野下さんはそんな感じですね。
久原 いわゆる既成のジャズじゃないものをめざしていたことは確かだ。
―― 野下さんもハーレムに行きましたね。
久原 彼は僕より長い期間行っていたよ。
―― よし、野下さんにもインタビューしてみよう(笑)
久原 でも、サックスは分からないけどトランペットの基本はクラシックだと思うんだよね。教則本でもなんでも、トランペットだったらアーバンとかクラークとか、クラシック系の教則本で基礎を習う。もちろんタイム感とか、ジャズのテクニックも別に習得していかなくてはいけないものだが、音を出すっていうところの基本はやはりクラシックにある。だって、トランペットという楽器がクラシック音楽で使われだしてから300年くらいでしょ。ジャズは100年くらいだから。クラシックにメソッドが凝縮されていると思う。
↑「ジャズはヒップホップのおふくろだぜ」と主張するヒップホップ濃度の高いジャズ
ミュージシャン、ロバート・グラスパーのライブ (at the Blue Note in New York)
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サッチモは少年院でどうやって音楽の基礎を学んだか
―― なるほどー。
久原 でも、自分でそう言いながら、昔の黒人はどうやって基礎を習得したんだろうと思うよ。サッチモがクラシックの基礎をどっかで習得したのかと思うと、うーん、どうなのかなあ、サッチモに訊いてみたい。生きていたら。
―― そうですねえ。でも、例えば自分が学校に行かなくても、誰か学校に行った人に間接的に教わるとか、あるいはその人のやっていることを観察して技術を盗むとか、そういうことも考えられますよ。
久原 あるいは教わらないでも、クラシック的なことを自分でやっていたのかもしれない。
―― 天才だったってことですか?
久原 でも、少年院でコルネットを吹きだしているから、やっぱり教えてくれる人はいたんだろうね。黒人社会にはなかった楽器だから。子どもの頃に基礎的な吹き方を教わって、後は自分でやっていったっていうところなのかな。
―― 久原さんが小学校の吹奏楽部で基礎を教わったみたいに、サッチモも……。小学校のブラスバンドではクラシックの教本で習ったんですか?
久原 そうだね。ロングトーンとか、スラーとか、タンギングとか、フィンガリングとか……、クラークやアーバンに出てきそうなことを小学校の基礎練でやっていたね。そしていまでもその練習を自分なりにアレンジして続けている。
―― 基礎って大切なんですね。逆に言えば、基礎さえあれば、あとは自分しだいっていうことなんでしょうか?
久原 そうだね。基礎があればそれをくずすことで自分を表現できるけど、基礎がなければ、崩すものがないから、自分を表現することができない、ということだ。ビートたけしさんが言ってた。由利徹の有名なギャグで、バッバッバッと剣をさばいたあとで最後に自分の足に刺してイテテっていうやつ。あれは様式的な殺陣のワザの基礎があってこそ自分らしさのギャグができるんだと。殺陣の基礎がなかったらそういうギャグも生まれなかっただろうし、そういう発想もできなかっただろうって言ってた。
だから、基礎がないと自分を表現できないし、基礎があれば、それをくずして表現することができる、また新しい発想にもつながるんじゃないかなあ、と思っている。
↑ニューヨークのジャズクラブSmallsではライブとジャムセッションが毎日開催される。
後半のジャムセッションも面白い。久原さんの話す通り、誰も楽譜を見ていない。
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演奏する人の存在自体が音楽だ
―― くずすために、基礎が必要ということですね?
久原 ピカソだって晩年は3歳児の描くような絵を描きたいとか言って、独創的で大胆な絵を描いてるけど、小さい頃のデッサンはきれいな線でお手本のような絵を描いている。それが親友カサヘマスの自殺にショックを受けたことで、変化が起こって「青の時代」に入り、自分を新しい方法で表現する絵になっていく。
―― ピカソに基礎がなかったら「青の時代」に変わっていくこともできなかったと。逆に、基礎さえあれば、こわいものなし。
久原 そうなったら、自分の感じるままに描いたり、吹いたりすればいい。それが基礎をくずすことになり、自分の表現になる。
―― 基礎が自分のものになっていれば。しかし、基礎というのはみんなに共通のもので、そこが不思議で面白いですね。
久原 トランペットという楽器に限っていえば、歯並びだとか、歯の向きだとか、頭蓋骨の大きさだとか、オーラルスペースというけど、口の中の広さとか、そういうところも音色にかかわってくる。その人の体形自体がその人の音楽になっている。極論を言うと、人そのものが音楽と言ってもいいのかもしれない。存在自体が音楽だと。そうなのかもしれない。
―― たしかに、トランペットを吹いている姿からも存在が音楽だ、ということを感じます。それがかっこいいということですね。
ところで、久原さんがやりたいと思っていることはなんですか?
久原 いろいろあるけど、まずニューヨークに行きたい。そこでもっと勉強したい。
―― どのような勉強をしたいですか?
久原 個人的にレッスンを受けたい人もいるし、ジャムセッションに行くだけでも勉強になるし、ニューヨークに住むだけでも音楽の勉強になる。
―― 住むだけでも! ニューヨークは音楽の街ですものね。
久原 地下鉄に乗れば、電車の中で歌っている人もいるし。
―― 電車までがライブハウスとかスタジオになってる...。お金を稼ぐとか、そういう問題じゃなくて、ニューヨークは日本と違って、ミュージシャンが自由に集まってクオリティの高いセッションをできる場所があり、コミュニティーがあり、音楽の言語で会話をすることができるということですね。
↑ニューヨークの地下鉄構内では、ゲリラ的なライブが人々の足を止め、
会社に遅刻する言い訳となっている。
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「オブリ」の意味はなんだと思う?
久原 日本のことで言えば、トリオ(久原博高tp・吉田直樹p. 中山保b.)を発展させたいし.、健くんとのデュオも続けたい、そして新しいカルテットもやりたいし、他にもシンギングボウルとのコラボとか、民族音楽的なこととか……。
―― 民族音楽やシンギングボウルとのコラボ、面白そう! ぜひやってください! 久原さんのトリオといえば、先日のJazzbirdでは、矢崎恵理さんという若手のすてきなシンガーと一緒に演奏されていましたね。インストのソロも満喫できたし、矢崎さんへの久原さんのオブリ、いい感じでした。矢崎さんはJAZZLETTERというジャズを若い世代に届ける活動をして、成功しています……。いま、若い人がジャズをよく聴いているようです。以前はジャズというと年配の人のイメージがありましたけど。
久原 矢崎さんは中2からジャズを習っているから歌うのがとても自然体。
―― 久原さんは紙上さんを師匠と呼んでいますね。
久原 経堂のCrazy Loveのジャムセッションに初めて行ったとき、紙上理(しがみただし)さんと、知り合えたことはとても幸運だったと思う。その日はニューヨークからたまたまダン・ニマー(Dan Nimmer。ウイントン・マルサリス率いるリンカーン・センター・ジャズ・オーケストラのピアノ奏者)が来ていて、紙上さんとダン・ニマーと僕で2曲くらいやった。そのときに、紙上さんとニマーにほめられて、それ以来紙上さんは僕のことを気にかけてくれるようになった。
リハーサルでオブリ(オブリガード。ヴォーカルのバックなどで合いの手のように呼応して吹くこと)やってたとき、紙上さんが僕に「オブリガードってどういう意味だっけ?」って言って、「誰かが歌っているときにバックで演奏することじゃないんですか?」って僕が答えたら、紙上さんが「いや、そうじゃなくて、ポルトガル語でありがとうって何て言うんだっけ」とヒントをくれたので、ハッと気づいて「あ、オブリガードはありがとうって意味なんだ」と。そしたら「オブリってそういうもんだよ」って紙上さんが言った。なるほど、そうか、と。
―― 深いですね……。紙上さんはいまどうしていらっしゃるんですか?
久原 いまは体の調子も良くなくて、演奏活動からは身をひいてるみたい。時々電話するけど。
紙上さんはすごいスイングするベーシストだったんだけどね。エルヴィン・ジョーンズのツアーで一緒に回ったりとか、ブルー・ミッチェルやケニー・バレルとセッションやったりとか。元岡(一英)さんがマスターの町田のニカズで、渡辺文男さんがセッションホストでドラム叩いて、紙上さんがお客さんで来ていたことがあった。
その時初めて紙上さんに叱られた。音楽に対してじゃなく音楽に対する姿勢のことでね。温和な人だからその時は落ち込んだけど、今はありがたく思ってる。
―― 4月7日に経堂Crazy loveで川村健さんとのデュオがあります。
久原 健くんとのデュオはたまにしかやらないけどなんだかんだでもう5、6回やっていて、自由度が高くて楽しい。
―― デュオならではの自由さですね。4月7日、とても楽しみにしています!
●ライブ情報
4月7日(木)
経堂Crazy Love
https://www.jazzbar-crazylove.info/
東京都世田谷区経堂 1-22-18
TEL : 03-3425-9041
18:30開場 19:00開演
久原博高(tp) 川村健(pf) charge¥2500
●久原博高さんのプロフィール
佐賀県生まれ 10歳よりトランペットを始め吹奏楽部に入る。 中学卒業後唇の不調により5年間ロックギターに転向するも、Dizzy Gillespieのアルバムを聴き再びトランペットを吹くようになる。 一度は就職するも、その情熱は今もたえず、現在は都内を中心に関東各地において音楽活動をしている。 鍛錬と経験を積み上げたテクニックと心ゆさぶる表現力をあわせもち、そのトランペットの音色は多くの聴衆の心を引き込む魅力にあふれている。