ミヤマカヨコさん最新ライブ情報(随時更新)

 

◆ 2024.07.07(日)◆ 町田『Nica’s』 <七夕DUO>小太刀のばら(P)
◆ 2024.06.18(火)◆ 新宿『PIT INN』<芳垣安洋5Days- Day 5>
◆ 2024.06.14(金)◆ 西荻窪『アケタの店』“栗ミヤ”栗田妙子(P)

 

「バの5」発売記念インタビュー

 

シスターフッド:赤線の女たちへの鎮魂歌

 ミヤマカヨコさんはジャズ業界で屈指のジャズ・シンガーとして知られてきたが、この十数年、いわゆるスタンダード・ジャズの枠にとらわれない自由な境地を求めて、独自の道をつきすすんでいる。その手法はインプロヴィゼーション、童謡の替え歌、オリジナルソング、江戸歌舞伎、チンドンとのコラボなど、いろいろだが、どれも私小説的に「ミヤマカヨコ」さんであり、聴く人をその世界にいやおうなく引きずり込む。
 去る秋に、スッカラカンレーベルよりアルバム 『バの5』が発売された。これは、ミヤマカヨコさんの最先端が収められたアルバムだ(後記:2022年5月現在にはすでに『バの7』が発売されている)。最初、アルバムのレビューページを新たに作ろうと思ったが、私の主観的な感想を一方的に書くよりは、ミヤマさんの「声のミュージシャン」としての道のりをうかがい、作品への思いを語っていただくことにより、背景やテーマについてより深く伝えることができるのではないかと思い、インタビューを申し込んだところ、快く受けてくださった。
 ミヤマさんは実験的クリエイティブ路線をめざし、ライブでは長い間スタンダードを歌っていなかった。しかし、コロナ自粛のあいだ、自宅でスタンダードの弾き語りをして、日常的にyoutubeにアップしていた。そのような流れもあり、ミヤマさんのスタンダードジャズのソロライブも都内のライブハウスでしばしば聴くことができるようになったことは、ジャズ・シンガーとしてのミヤマカヨコさんのファンにとって朗報と言えるだろう。
 ふだんのミヤマカヨコさんの印象は頭の切れる理知的でシュッとしたカッコイイ女性だが、ステージではミヤマカヨコさんの声を通してさまざまな存在が出没する。チャキチャキの江戸っ子、童女、さむらいの亡霊、巫女。いったいそれらの存在はどこからくるのかわからない。しかしわからなくていい。謎に満ちた表現者であるミヤマさんの舞台での発光を見届けていきたい。私たちは生命の輝きを受けとることができれば、それでいい。


 

 

 

「私をふったアイツをやっつけるためにジャズ研の扉の前に立ったけど……」


 ――ミヤマさんの最初のジャズとの出会いについてお話しください。
 ミヤマ 私たちの年代では、小さい頃にテレビにエラ(エラ・フィッツジェラルド)とか、サラ(サラ・ボーン)の映像が流れていて、日常的にジャズの歌を聴いていたのよ。アメリカのテレビ番組でも、アンディ・ウィリアムズ・ショーとか、フランク・シナトラのショーなんかも放映していた。そういうのが心のどっかに残っているわけね。でも演奏のほうはあんまり誰のとか、意識して聴いたことがなかった。
 高校出て浪人中に、ちょっと付き合ってた男の子がいたの。その子が大学のジャズ研に入ってサックス吹いてたんだけど、「ソニー・ロリンズとコルトレーンが好きなんだ」って言うから、「誰それ?」って訊いたら、「え、知らないの?」ってばかにされるわけよ。そしてすぐその子にふられたのね。もう、すっごいくやしくて「ぜったいコイツをいつか見返してやる」って(笑)。で、初めてジャズのアルバムを買ってみたの。
 ――それはどんなアルバムでしたか?
ミヤマ 「エラ・イン・ベルリン」だったわ。
 ――それ、私も大好きです! それで、初恋の人を見返すことができましたか?
 ミヤマ その後、すぐには大学生にならず、就職してOLになったの。会社に勤めながら受験勉強して大学に入り、サークルを探す段になって、「そうだ私をふったアイツをやっつけなくちゃいけなかったんだ」って思い出して、ジャズっつうものをやってみようと思ったわけ。そういう不純な動機で始めたわけよ。ぜったいアイツをギャフンと言わせてやるって。それが唯一のモチベーションでさ。で、大学にジャズ研があったんだけど、
 ――早稲田大学のジャズ研ですよね!タモリなんかがいた。超有名ですね。プロもたくさん出ています。
ミヤマ でも、すぐにはドアを叩く勇気が出なくてぐずぐずしたり、まわりをきょろきょろしていたら、ジャズ研の隣に聞いたことのない「ニューオルリンズ・ジャズクラブ」っていうのがあって、そっちはドアが開いてたの。どうぞ入ってください、って言ってるみたいにね。それで、思わず中に入ってなんとなく入部しちゃった。そこはジャズでもデキシーとかをやっていて、そんなの聴いたこともなかったし、ぴんとこなかった。どうしようと思っていたら、先輩も私が迷ってるのに気付いて「デキシーが合わなかったら、こっちのグループに入ってみたら?」と勧めてくれたのが、同じクラブの中でも異端児みたいのが集まってるグループで、初期のマイルス・デイヴィスなんかをやってたわけ。
 そのグループにいたら、だんだんジャズが面白くなってきて、ヴォーカルをちゃんとやろうと思い始めて、スクールに入ったの。そしたらスクールではどんどん進級して「あなたプロでやっていったら?」って勧められて。そういう流れね。

 


 

「ニューヨークに行って、声出すことについての発想が180度転換した」

 

 ――そしてヴォーカリストとして仕事を始められたわけですね。
 ミヤマ そう、何もわからないうちに仕事はどんどん入ってくるから、一緒に仕事をしていたミュージシャンにいろいろ教わったり、あれを聴け、これを聴けと言われていろいろ聴いて自分で勉強して……。現場主義ね。仕事をしながら覚えていくという。でも叩き上げなんてえらそうなものでもなく、終わった後の打上げが楽しみでやってるようなところもあったなあ。動機が全部不純(笑)。
 そうしているうちに、仲間のミュージシャンがどんどんニューヨークに行きだしたわけ。
 私も「行ったほうがいいんじゃない」って言われて。うん、行きたいなーって。でも家庭の事情もあり、長期間行くわけにはいかなかったから、ぎりぎり3か月っていう観光ビザで行ける期間で、思い切って行ったの! そこがひとつの転機っちゃ転機だよね。
 ――ニューヨークで印象に残っていることはなんですか?
 ミヤマ そのころ、好きでよくLPで聴いていたピアニストのケニー・バロンが日本に来たとき、私もケニーの演奏で歌わせてもらえたのね! そのとき、「私、これからニューヨークに行きます」って言ったら、「そのときはライブにおいで」と、ケニーのほかにもニューヨークから来た何人かのミュージシャンに誘われてたから、実際向こうでライブに行くと、客席からステージの上に呼びだされてシットインで歌っていたの。
〈註:シットイン(sit in)とは、ミュージシャンやシンガーが友人や仲間のライブやコンサートに観客として応援に行った際に舞台に呼ばれて共演すること〉
 ――ニューヨークでは、どんな勉強をされたのですか?
ミヤマ ニューヨークでは、ピアニストのノーマン・シモンズに習いに行ったの。ノーマンは、私の憧れていたシンガー--カーメン・マックレエとか、ベティ・カーター――のバックで演奏してたピアニストなのね。紹介してくれた人がいたから、ああ、いいよ、いいよ、って気軽に引き受けてくれて。もう帰国も近い頃だったから、そんなにたくさんレッスンを受けられたわけじゃないけど、的確なアドバイスをしてくれて。ニューヨークで発声法のレッスンを受けなさいっていうのもそのひとつだったけど、お金もないし、どうしようかな、と思っていたら、一緒にレッスンを受けよう、と誘ってくれる人がいて、ニューヨーク在住のクラシックの専門家に発声を習いに行ったの。そこで今までのやり方をすべて覆されたわけ。それまで5年くらい日本でプロとして歌ってたわけだけど、音楽的な発声なんて習ったことがなかったし。それで、教わったことがすぐにできたわけじゃないけど、声出すことについての発想が180度転換して、日本に帰ってからも、ああでもない、こうでもない、と試行錯誤して、勉強するきっかけになったわけよ。発声について、すごく考えるようになった。


 

 

 

「CDを作るたびに、新しいことを実験しようと決めた」

 

 ――それが、いまのミヤマ式発声につながったわけですね?
ミヤマ すぐじゃないよ。すぐにはそこに全然むすびつかない。日本に帰って、しばらくやる気なくなっちゃって、ほとんど歌わなくなったのね。そういう時期がかなり長く続いたの。ちょこちょこ出てはいたけど、自分で納得がいかない時期がずっと続いて、なにしていいかわかんなくて。それで、あるとき、そうだ、自分で曲書こうって思ってさ、ちょうど甥っ子とか姪っ子が生まれたりして、彼らを見ていると自然に発想が浮かんで曲ができたりしてたわけ。そうしてできた曲をライブでやったら、けっこうミュージシャンに評判よくて、作るたびに「いいじゃん!」とか言って励ましてくれたのね。よし、それじゃあ、と。私の尊敬するベティ・カーターが自分で曲書いて歌ってたから、それに触発されたというのもある。今までスタンダード曲しか歌ったことなかったけど、自分の経験を自分の言葉で歌ってみたいと思うようになって……。シンガーソングライターみたいなもんだよね。自分の中から出てきた言葉で曲を作りたいと思った。やってると、なんかそれが楽しくなって、ダメだったのが、だんだんがんばろうっていう気運がまた盛り上がってきて、ちょうどミュージシャンとの良い出会いもあったりして、渋谷のジァン・ジァンで歌うようになったの。その流れのなかで、最初のCDもニューヨークに行ってレコーディングしてみたり――それはオリジナルを形にしたいと思って、行ったのね。
最初にニューヨークに行ったのが1982年、そして、初めてのレコーディングをしにもう1回ニューヨークに行ったのが1995年なの。それもまた大きなチャレンジだった。その後は、初めて自分のバンドも組んで、何年かオリジナルでやってたんだけど、またフェイドアウトしてやらなくなっていったの。2002年にはまたニューヨークへ行ってシーラ・ジョーダンが開催したワークショップに参加したけど、その後も何をしたらいいかわからない時期が続くわけよ。ライブはちょこちょこやるんだけど、そんなにたくさん曲作れるわけじゃないし、何していいかが全然つかめないわけ。そうしているときに、エアジンのマスターが、スガダイローと一緒にやってみないか、って声をかけてくれて。で、ライブをやりつつ、久しぶりに『Circle Step』ってCDを作ったわけ。
 この『Circle Step』がいまの活動につながるラインの出発点になったのね。その流れで、こんどのCDもできたわけだし。というのは、その頃ミュージシャンのanfuさんと出会って意気投合して、最初に出したのがこの『Circle Step』で、その後も彼と一緒に作ったCDをどんどん出していったの。ライブもするけれど、それよりCDとして形に残る作品作りをすることにしようと考えを変えたのね。そして、作るたびに、ひとつずつ、実験というか、新しいことをやっていこうって決めたの。クリエイティブなほうに路線が向かっていったわけ。つまり、いわゆるみんなが考えるジャズとはちがうところに向かっていったんだよね。ベースにあるのはジャズなんだけど、いつもやってることと違うことができそうになってきて、やりたいことがだんだん見えてきて、CDをどんどん作っていって……。で、煮詰まっちゃ、チンドンと組んでライブやったりね……。


 

 

「これはジャズであるとかないとか、名称なんてどうでもいい」

 

 ――チンドンとのコンビはいつもすごく楽しいですね! 私はずっと追っかけていますが......。ところで、いま、ジャズとはちがうところへ、とおっしゃいましたが、私はこの一連のクリエイティブ路線のCDについて、「フリージャズ」というジャンルなのかな、と勝手に考えていましたが、もしかして、「フリージャズ」ともちょっと違うのでしょうか?
 ミヤマ そうね。ジャズから始まったけど、これはジャズであるとかないとか、名称なんてどうでもよくなってきたわけ。ただ、ジャズも偉大なミュージシャンがどんどん現れて、いろんな新しいことをして、それをみんな真似して、これがジャズだって昔みんなが思っていたビー・パップみたいなところから、遥かに広がっていってるし、もはや「ジャズとは」って訊かれても、正解はないみたいなところにきてるけどね。
 ただ、私の場合は楽器とちがって、「声」だから、さらにもっと自由だなってあるとき気が付いたわけ。声と言葉と、両方使えるじゃん。楽器のような縛りもないし、もっと自由になれる可能性を秘めていると。声についても、かつて発声に悩んでいたせいで、いろいろ研究するようになって――生まれつきいい声の人ってあんまり研究しないんだよ。いい声だねってみんなにほめられて、そのままでいいって言われてたいていなにもしないでそのまま終わっちゃうんだけど、逆に私は生まれつき持ってるものなんて何もないから、研究するじゃん、ああでもない、こうでもないって。ジャズヴォーカルの声だけじゃなくって、いろんな国の、いろんな民族の、いろんな部族の、いろんな声の出し方が、あるわけ。日本のなかでだっていろいろあるでしょ、民謡もそうだし、新内(しんない)、文楽……。人間ひとりひとりだって体の構造が違えば声の出し方だってちがうし、環境がちがえば聴こえ方もちがうわけだし。これはすごいことだな、と思うし。別にジャンル分けする必要もないし、いろんな声だしていいじゃん、と思うようになるわけ。
 民謡とか、新内とか、文楽とか、そこにはそれぞれスタイルとか決まりがあって独特な声の出し方がある。でも、ジャンルを決めなければ、決まりなんてないわけじゃん。何やったっていいっていうことになると、いろんな声出せるし、いろんな表現できるし、こんな楽しいことはないと。
 ――確かにそれは途方もなく楽しそうです!
 ミヤマ で、さっき言った声と言葉の、言葉について言うと、そこはある程度制約があって、難しいことも確かにあるんだけど、かつてはスタンダードばっかり歌ってたから頭が英語ばかりに偏って、英語以外で歌うなんて考えられなくなってたのに、そうじゃなくてもいい、となって、別のところに興味が広がっていろいろ自分なりに研究していくと、それぞれの言語が持っている、音感とか語感とか特徴が見えてくるじゃん。そこから、面白いと思ったものはとりあえず全部やってみよう、と。



 

「ライブではその場で生まれるってことが大事なの」

 

  ――面白いと思ったものは全部やってみようと!
 ミヤマ できるかどうかはさておき、ためしてみる。日本語だって、自分が今まで思っていた歌い方がすべてじゃない。ああそうか! 歌詞をつけても、こういうふうに歌えばぜんぜん違って聴こえるじゃん、とか、やってみると、いろいろ出てくるんだよ。
 ――同じ言葉でも、歌い方のちょっとした違いで、意味が変わってくるんですね。
 ミヤマ そこんところがいまは面白くてさ。なにやったっていいから。
 ――ほんとに自由なんですね。ジャズ・シンガーであることにこだわらなければ。
 ミヤマ ジャズ・シンガー? そういう顔をするときもあるけど、スタンダード歌ってるときは。ただ、歌とも言えないものも歌ってるわけだから、歌い手? うーん、なんか新しい名前を考えないとな。
 とにかく、降ってきたり、湧き出てきたり、いろいろだけど、自分の中にあるものをとりあえず出してみようと、そういう流れになってきてるの。
 世界が広がって、しかも細かくもなってきてる。望遠鏡になったり、顕微鏡になったり……。つまり、「神は細部にやどる」という言葉が実感として「そうだな」と思えるようにもなってきたわけ。どっちも現在進行形だけど。
 ――それは、いまミヤマさんの作っていらっしゃる自由な「声」の作品のことですね……。
ミヤマ そう、ただ、ライブの場合は、自分一人で歌っているわけじゃなくて、誰かと一緒にやるということがあるわけじゃん、アカペラで全部やるというのもありなんだけど……。昔はピアノとドラムとベースといういわゆるジャズのスタイルでしか音が生まれなかったんだけど、今は、たとえばチンドンとやってみて、そのやりとりのなかでいろいろな新しいものが生まれたり、実験的なベース(田嶋真佐雄氏)とのコンビで、聴こえてくるいろいろな音からヒントをもらったりする。共演者が何かやったことから、インスパイアされて湧き出てくるものがあれば、それをそのまま出してみる、そのときじゃないとできないものだからさ。で、またちがう楽器とやったら違うものが生まれるかもしれない。それは、考えてやるんじゃなくて、その場で生まれるってことが大事なの。CDを作りあげていくのとはまた別の話。
 ――その場で、というのがライブの命なんですね。
 ミヤマ そうそう、だから、そこが、作品としてじっくり作り上げていくCDと違うところなわけ。そうやっていまはCDづくりとライブ、両方でバランスをとっている……というところかな。いつまでこれが続くかわかんないけど。



「感動する音楽って、生命の輝きが伝わってくる」

 

――波はありますね。
 ミヤマ 飽きちゃうと、ぐっと下がって、それを反動にまた新しい波がぐわっと来るっていうのはあるかもね。ずーっと平坦に行くんじゃなくて。
 ――波があるのは自然なことに思えます。
ミヤマ 音楽ってそういうものじゃん。波というか、律動というか……。ぐわっと来るものがないと。音楽に安らぎとか、癒しとか求める人もいるけど、そういうものがほしいと言われたら、すいませんね、と言うしかない。それはあたしのやることじゃないんじゃないかな、と思ってさ。自分の使命って言ったらおおげさだけど、音楽を何のためにやっているかっていったら、もちろん自分が表現したいからやってるんだけど、受け手がいる限りは、その表現を届けようと思ってやってるわけだから、そこの空間に一緒にいる観客に向かって表現を発して、受け取ってもらって、それが生命のやりとり、みたいなもんじゃん。

 こっちの出すものが弱かったら、当然受けてるほうには届いてないかもしれないし、受けてる人の側に拒絶するバリアがあったら届かないってこともあるしさ、それはいつも幸せな関係であるわけではないし、なかなかそういう幸せな関係にはならないかもしれないけど、とりあえずこっちのやることは、「生命(いのち)を発する」ということで……。
 ――命を削って?
 ミヤマ いや、削ってじゃなくて(笑)、「生命(いのち)を輝かせて」ということじゃないかな。その発光が足んないと、ダメだったな、と思うわけよ。たとえば、自分が聴く側にいることもあって、聴いたものに感動することがあると、なにがよかったんだろうって分析するわけ。すると、感動する音楽って、やってる人たちが生命を輝かせて演奏しているのが伝わってくるんだよね。そういうのが好きなんだよ。そういうんじゃないと、満足できないしさ、聴いてて。自分のなかにそういう「はかり」みたいなものがあって、そこに届かないものは退屈だなあ、と思うし、聴いて感動すれば、自分もそういうふうにやりたいと思うし。つまり、生きててこれを聴けてよかった、ありがとう、っていう気持ちになるわけだけど、せめて、自分も、そこまでに至らなくても、姿勢としては、根底にあるものは同じだと思うから、そういうことを大切にしていきたいと。
 ――ところで、今回のアルバムのタイトル『バの5』には、どんな意味があるのでしょうか?
 ミヤマ 意味は、ないのよ。
 ――え! なんの意味もなく、タイトルをつけたんですか?
 ミヤマ なんの意味もないからいいのよ(笑)。貨物列車についてるでしょ?
 ――ああ、列車に番号がついていますね。そういうことですか。
 ミヤマ そういうこと(笑)



「日光浴する娼婦の絵を、顔だけ私にして描いてみた」

 

 ――では、ジャケットの絵についておうかがいします。この裸婦像は、髪の毛の色からして、先生の自画像ではないかと勝手に想像していたのですが……。
 ミヤマ これは、萬鉄五郎(よろず・てつごろう)さんという洋画家の「日傘の裸婦」という作品のパロディ。顔だけ私にして描いてみたのよ。このCDのテーマは「女」なのね。それもあまり幸せじゃない女。よく考えたらそこに自分が投影されてるわけなんだけどさ。曲つくるときは、シンガーソングライターで、自分にないことはできないから。その「日傘の裸婦」という絵は、昔の娼婦の絵なんだけど、娼婦が日光浴で自分の使った部分を消毒しているような絵なんだよ。
 ――ご自分をそこに投影するということは……つまり……。
 ミヤマ 自分の裸の部分をさらして、思っていることを言ってみました、ってことかな。その右側にあるのは卒塔婆で、赤線のようなところで亡くなったお姉さんたちのためにあってもいいかなあ、なんて思って。その、お姉さんたちが、病気にかかったりして死ぬじゃん、ああいう仕事だから、長生きできなかったりして……。その人たちへの鎮魂歌みたいな意味もあって。
 ――「南無阿弥陀仏為専唄院金欠空頭姉追善菩提」と書いてあります。これはミヤマさんのことじゃないですか!?
 ミヤマ そうそう、その卒塔婆の真ん中は自分のことしか書けないから自分のことなんだけど、一応そういう女の代表としての私になってるわけで。
 ――代表としてミヤマさんがここに座っているけど、実はその後ろに昔ひっそりと娼婦街で亡くなったたくさんの女の人たちの亡霊がいる、ということですかね?
 ミヤマ 昔の娼婦だけじゃなくて、今の女性たちもね。女の人今でもみんなたいへんだしさ……たいへんじゃん、男の人より。仕事をしていても、いろいろ。幸せな人ばかりじゃない。
 ――たしかに。仕事の場のパワハラ、セクハラもそうだし家庭内暴力もあります。考えると、深いですね。
 ミヤマ 聴く人にそこまで考えてもらわなくても、いいんだけどね。ま、あえて言わせてもらえば、という話で。
 ――CDの内容についてですが、1から6までは、今までに発表された作品の中に同じ題名の曲がありますが、びっくりするほど違う曲になっています。例えば「かえるのうた」の以前のアルバム『スッカラカンノカン』バージョンでは2匹のカップルのカエルのかわいらしい対話のようでしたが、今回はとても官能的なモノローグで、「ジャリジャリ」「ズリズリ」(笑)。一瞬笑ってしまったあとに、「あたしの頭、縮んできたよ」なんて来られると、人間がこわれていく怖さを感じました。
 ミヤマ それは、もう自分の中からダーッと出てきた歌詞だから、またもう一度作れって言われたらまた全然ちがうものができると思うけど。歌詞を作るときには考え込んだり、練ったりなんかしないで、もう自分の中から出てきたものをそのまま、ダーッと書くわけよ。ほとんど、そういう意味じゃ即興みたいなもんだから。リズムが音符にあうかだけ、歌ってみながら書いていく。
 ――「ジャリジャリ」「ズリズリ」と……。
 ミヤマ みんなそんなこと書かないじゃん。なら私がやりましょ、ということで。

 

「フラれたけど、ふっきれた東京のパレパレさん」

 

  ――「桃太郎」の新しい歌詞も、大笑いしたあとで、「女なら誰でもこういうことあるよなあ」としみじみ思ったりしました。「好きじゃないけどあげちゃった」とか。
 ミヤマ そういうことあるでしょ
 ――あります、あります。
 ミヤマ そういうことを遠慮なく書かしてもらいました、て感じで。
 ――ミヤマさんが「バの5」の中でいちばん好きな曲はどれですか?
 ミヤマ どれもそれぞれ好きなんだよ。みんな疲れた女の歌なんだけどさ。……強いて言えば、「東京のパレパレさん」かな……。歌詞がうまいことくっついたから。(アルバム『スッカラカンノカン』及び『Amazing Kayoko Miyama』に収録されている元祖「パレパレパン」は擬音とアドリブだけでこれといった意味のある歌詞がなかった)
 ――この歌は、ほかの歌に比べてふっきれている感じがしますね。
 ミヤマ そうそう、フラれた歌だから、やっぱり内容は暗いんだけどね。
 ――最後の「木曽節」だけ異色な感じがしますが。
ミヤマ これは、とくに意味はないのね。いつも「遊楽園」(田嶋真佐雄氏とのデュオライブシリーズ)でやっている曲を何か入れようということで。だからこれは田嶋氏とのコンビでできた曲だね。
 ――ほんとの木曽節というよりパロディみたいなものですね。
 ミヤマ これは、私がよくやることだけど、どっかの国の一部族が「西洋音楽を初めて聴いたらこんなふうに聴こえました」というのと同じ流れで、わかんないけど木曽節を聴いてみたら、こんなふうに聴こえました、という「印象の木曽節」であってほんとの木曽節じゃないからね。
 ――「ウスクダラ」もトルコ語で歌われていた前のバージョン(アルバム『スッカラカンノカン』に収録)と全然違って、物語性があって、面白いと思いました。
 ミヤマ 原曲はぜんぜん違う歌詞なんだよ。もとは観光案内みたいな歌なんだけど。これもバッと出てきてがーっと書いた歌で、けっこう気に入ってる。
 ――私はこういう、ちょっと影がある歌が好きなんですけどね。
 ミヤマ 私も影があるのけっこう好きなんだけど、まあ、今回はふっきれた「東京のパレパレさん」ということにしましょう。

 

 

 

 

 

ミヤマカヨコさん・プロフィール

東京都出身。早稲田大学文学部在学中よりプロ活動。1982年ケニー・バロンの勧めで渡米。ノーマン・シモンズに師事。帰国後自己のグループを結成し、1992年から1999年まで『渋谷ジァンジァン』にて定期的にコンサート。1996年ファーストCD『ベスト・リガーズ』をニューヨークにて収録・発売。同年ツムラ・ジャズヴォーカル奨励賞受賞。2007年スガダイローを共演者にセカンドCD『Circle Step』発売。安田芙充央のディレクションにより2009年『オビヤビヤ』を、2010年に『ポッペンを吹く女』を発売。2013年チンドンしげみとユニット結成。Anfuプロデュース『リンラリンミヤマ』を発売、2016年ジャズヴォーカリストとしてのアルバム『Amazing Kayoko Miyama』をリリース。2017年、自身のレーベル「スッカラカンレーベル」を創設。2021年田嶋真佐雄とのDuoユニット〈遊楽園〉を創設。スッカラカンレーベル第三弾『バの5』をリリース。