信州善光寺如来は阿弥陀如来と脇侍の観音・勢至菩薩からなる一光三尊阿弥陀如来さまである。開山の本田善光卿と妻の弥生様両神(両ご神像もあり)が下からご尊体を支える尊影もある。552年、百済の聖明王が欽明天皇に献上された。定額山善光寺は別名、百済寺という。聖徳太子46寺の一つで法隆寺とも縁が深い。信長の善光寺関連の話を読んだ。武田氏を滅ぼした信長は武田氏が信州から移してきた甲斐善光寺にいらしたご本尊を岐阜城下の伊奈波(いなば)に移す。伊奈波善光寺の前身である。そのわずか二ヶ月後、本能寺で非業の死を遂げる。時代はさかのぼるが謙信は春日山城下の十念寺(浜善光寺)に善光寺本尊を移したし、信玄も甲斐善光寺を建立、本尊を移すなど善光寺本尊は武将達の思惑で流転し、その後謙信、信玄とも病に伏す。天下統一に成功しつつあった信長も善光寺本尊を甲斐から岐阜に移したあと、死をとげる。武将の間では戦と共にご本尊争奪戦が行われた。「信長公記」によると、信長の死は善光寺本尊の仏罰が下ったたためだと人々は噂しあったという。秀吉も、数奇な運命をたどる。方向寺大仏が建立後わずか1年で地震により瓦解したため、がっかりした秀吉は代わりに善光寺如来を京にお連れしてきたがその後発病したため、戻すことを決めたが、如来がいよいよ出立した翌日に死去した。如来を連れ回した武将達は皆信心深かったわけだろし、罪はないだろう。ご本尊も、もともと、朝鮮半島から渡来されて転々としてきたのだから。時代は現代に至り、善光寺如来は今、何のメッセージを発しているのだろうか。如来が贈られた時代以来の日韓友好親善に思いをはせたい。(参考「善光寺の謎」 宮元健次著 祥伝社文庫)
(読み下し文) 観世音 南無仏 仏と因あり 仏と縁あり 仏法僧と縁(えにし)て 常・楽・我・常(を得ん) 朝に観世音を念じ 暮に観世音を念じ 念念に心より起こせば 念念に心を離れず (参考・泉涌寺(せんにゅうじ)派・法楽寺HP) 現代語訳 観世音菩薩よ 仏陀に帰依します仏陀が仏陀になったことにも原因があり、仏陀が仏陀になったことにも条件がある。(よって私も)仏・法・僧との縁によって、常・楽・我・常という大いなる平安の境地、仏陀の悟りに達しよう。朝に観世音菩薩を念じる。夕に観世音菩薩を念じる。この念は心から生起するものであり、この念は心から離れるものではない。
常) 無情の世の中で今を大切に生きる 楽) 他者や過去と比較することなく、今、置かれている状況を冷静に受け入れる。 我) 自と他との隔たりを越えて、主体的に生きる。 浄) 自己と周りが慈悲の心で充たされる。 以上、仏教の目的とする涅槃の有する、「4つの徳性」を常楽我常という。 (仏教家・大森義成(ぎじょう)氏による)
