こちらの続きです〜富士山
 

前回のブログで河口湖の船津地区をかつて「中村」と呼んだ由来を「中村党」と仮定しました。

中村党とは?

 

西相模の中村党

 

「鎌倉殿の13人」では中村党の次男・土肥実平が登場しました。吾妻鏡でも彼の大活躍が沢山記録されており、どれだけ頼りにされていた重鎮だったかが分かります。



「洞窟の頼朝」(前田青邨)は石橋山の戦いで敗れた後に洞窟に身を隠した場面が描かれています。記録では、この時の源頼朝と共にいた主従7人と言われる内の4人が中村党です。(中村宗平次男・土肥実平親子と三男・土屋宗遠親子)


突然兄を訪ねて来たと名乗る義経に「はてどうしたものか」と困った実平のエピソードも、ドラマでは小栗さんのセリフになっていたりしました。爆笑あせる

 

実平の父・中村庄司宗平はすでに高齢だったため「西相模の中村」という名のみでの登場でした。

 

義時主役のドラマでは詳しく描かれませんが、鎌倉党(梶原氏含む)・三浦党と並び西相模一帯を広く治めたのが中村党でした。

 

皆、先祖は鎌倉党の祖・平良文に繋がります。

 


相模武士 全系譜とその史蹟

三、中村党・波多野党」湯山 学 著より


 

中村党について


中村党の本拠地は、神奈川県足柄上郡中井町でした。


(余談ではありますが山梨県の南帝勅願寺である向嶽時の開基抜隊禅師も同じ中井町中村の出身です。)


(中村党は「平」を通字とした)

平安時代の末期に桓武天皇の後裔、村岡良文の6代孫、中村宗平(土肥実平の父)が中村に居を構えます。

平塚の土屋、二宮、国府津、酒匂、小田原、早川、片浦、真鶴、湯河原、土肥などなど

広範な地域を領有し、豪族として土地の開発から文化の発展まで貢献した記録が残っています。

 

当時、相模の平地は豪族の巣とも言われていたそうで、波多野、川村、松田、大友、渋沢、曽我、大槻、岡崎、真田などにそれぞれ豪族が住んでいましたが、中村一族は群を抜いていたと言われています。

 

伊豆で挙兵する前から頼朝に協力してきた中村一族ですが関東の武将から尊敬されていたと言われる上杉禅秀の味方につき幕府との戦いで負けたため、その後子孫は中村の地を去ったり、名を変えた(例:平塚の土屋氏の寺の記録)ということです。


中村氏の直系は伊豆の下田にいると聞いたことがあります。

 

 

祖父母ゆかりの懐かしい地域の歴史。

いま私の住む富士北麓地域との繋がりを知り、今後も調べていきたいテーマとなりました。

 

鎌倉御家人と富士北麓地域シリーズ化しそうですラブ


 


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