『『瓔珞つつじ』は南朝の昔話かも①あすみと天子ヶ岳』昨日アップされたまんが日本昔ばなし公式チャンネルの山梨の民話、『瓔珞(ようらく)つつじ』。後南朝絡みの天子ヶ岳の話に似てるな、と思ったら【働き者の松五郎は実…リンクameblo.jp

 

 

こちらの続きです。

 

  ​田貫長者と田貫次郎

 

田貫次郎こと宮下(三浦/富士)義高は富士浅間宮の大宮司で、密かに後醍醐天皇の朝廷側についていました。

 

そして田貫長者とは‥

宗良親王の皇子・尹良親王(ゆきよし親王)と伝わります。

これは山梨県側のみならず、静岡県から明治42年に出版された「富士登山唱歌:地理教育」・「富士駅名所案内」にも【田貫湖は尹良親王の館址】と書かれています。

 

 

 

 

 

 

 

  尹良親王の館址-田貫次郎の宇津の家(仮説)

 

田貫湖畔にある【長者山田貫神社】。

お天気が良くてもいつも不思議とピリッとした空気を感じます。

 

 

 

 

神紋は十六菊家紋

​

 

由緒書きなどは無い神社ですが、石碑の側面にはおそらく御夫婦のお名前。

禅南長者という院号から南朝の気配が。

 

碑は新しいけれど、尹良親王と延菊…はてなマークガーベラまじかるクラウン

​

 

田貫長者が生きた時代は、

南朝の後醍醐天皇と北朝側の足利尊氏の激しい争いの真っ只中でした。

 

山梨県富士吉田の明見と、静岡県富士宮市の田貫湖は対をなした【南朝側の隠れ基地】だったことが富士古文書にも伝わります。

 

明見(裏側)から田貫湖(表側)は富士山を半周

 

例えば「宇津峯」。

静岡県富士郡に宇津峯があります。(朝霧高原の天子ヶ岳)

南朝滅亡後は北朝をはばかってか、宇津峯山という名を消し「天子ヶ岳」と呼ばれているそうです。

 

山梨県都留郡にも宇津峯が存在します。

「高座山」といって、小室浅間神社古宮の南東で忍野の忍草との中間の山です。

 

「内野」という地名も、富士宮・忍草両方に存在し、ともに「宇津峯」の麓下にあります。

そこにはそれぞれ

◦忍野湖(忍野八海)(西暦800年の噴火で巨大な宇津湖が山中湖と忍野湖に分かれた後忍野湖は徐々に水位が下がり涸れる)

◦田貫湖

もあります。

 

ちなみに「内野」とは大内裏のあった場所、という意味だそうです。南朝側の親王たちを匿ったという古文書の記述が、地名と一致しています。

 

 

 

北朝の時代となり「足利の目を憚って名を変えた」と伝わる史跡がこのように点在しており、山梨県、静岡県両方に跨って詳細に伝わる伝承があることからも、この辺りでかつて南朝側をお護りしていた足跡を感じられるのでは…神社富士山

 

 

田貫湖キャンプ場さんのサイトでも南朝のために戦った親王と延菊(伝・田貫次郎の娘)の悲恋のお話が紹介されています。お借りして添付します。

 

 

田貫神社側から見た天子ヶ岳方面

こちら↓の続きです。

 (”瓔珞つつじ”は日本昔ばなしYoutube公式チャンネル3月公開分のため今は見られなくなっています)

 

​田貫次郎(たぬきじろう)とは

 

田貫次郎は南朝側のとある重要人物でした。

山梨県の富士吉田市明見(あすみ)に伝わる富士古文書にその身分と名乗った経緯が記録されています。

【現 北東本宮 富士小室浅間神社】 

山梨県富士吉田市大明見

富士古文書を管理する神社

 

    

富士山元宮・小室浅間神社の大宮司/総地頭


宮下家第八代 富士宮下左京亮義高

 

山梨県富士吉田市にある浅間神社の大宮司、かつ総地頭:

【宮下義高(よしたか)】。

大宮司職を息子に譲り、訳あって名を変え「宇津野田貫次郎」と名乗りました。(※宮下宮司家は、三浦氏とも富士氏とも名乗ります)

 

国土交通省中部地方整備局の記事には、田貫湖の名の由来となった「田貫」とは【浅間神社の元神主であった田貫次郎という豪族から】と書かれています。

 

引用元:

 

 

生まれは寒川神社

宮下義高大宮司の父は

・相模国一の宮「寒川神社」大宮司であり

・応神天皇の皇子・大山守皇子より五十五代目の宮下記大夫明吉です。

 

母は「小室浅間神社」大宮司(富士宮下左京亮正成)の長女・里司と伝わります。

 
寒川神社と小室浅間神社の関係は
延暦19年(800年)富士山大噴火の際に、
山宮(小室浅間神社)から里宮(寒川神社)へ神社の由緒が書かれた宝物・書物が移されていたのでした。
 

 

生い立ち

 
弘安五午年(1282年)5月13日の夜。
暴風大雨により馬入川が氾濫。
宝物を護ろうとした義高の父と祖父は押し流され行方不明に。
母は泣く泣く実家の山宮へ帰りました。
(里宮:寒川神社、山宮:小室浅間神社)
 
実家の小室城・宮下の館では山宮宮司(母の兄)の世話となり従兄弟の小室丸と一緒に育てられ、実の親子兄弟以上にかわいがられました。
 
十五歳の春に元服し、次郎義高と改名。
 
富士宮市にある富士山本宮浅間大社の(駿河国富士郡大宮村浅間神社)の大宮司・富士又八郎国安の長女と結婚します。
 
義父(母の兄)義泰から富士十二郷の内の
村山郷、大田和郷、
両郷の内、宇性野荘、内野荘、西宇津野荘を分け
四十貫与えられます。
 
西宇津峯の丑寅のふもとの宇津野(田貫湖の辺り)に居宅を造り、宇津野田貫次郎と名乗りました。
 
元応二申年(1320年)8月2日、従兄の富士宮下右近亮義忠が23歳で病死したため、富士総神社の大宮司職と富士十二郷大地頭を継承することとなります。
 

隠れた理由

 

「田貫」は「狸」とかけていることと思います。クマムシくん

非常に警戒心が強く、化けたり人の気配を感じると姿を隠す狸のように、義高も大宮司職を辞して名を変え「姿を消し」ました。

 

その理由は護良親王皇子・興良親王を守護するためだったようです。

 

建武二年(1334)。小室城宮下の館に密かに送り込まれた興良親王を、義高は東宇津峰城(忍野村忍草)に移しました。

 

鎌倉で討たれた護良親王の御首級を雛鶴姫と家臣が護り逃げててきました。

義高は密かに小室浅間神社の内宮に御首級を納め隠し護ったと伝わります。

その時より、義高は地頭と宮司の職を長男に譲り、

宇津野田貫次郎と名を変え、東宇津峰山南城の館(忍野村忍草)で静かに暮らしました。(明見の山のすぐ裏が忍野です)

興良親王のために田んぼを作り、お側を離れず守護しました。

 

正平十八年(1363)、宗良親王より正三位下を賜ります。

 

 

東と西、表と裏

 

忍野村(明見の裏)には東宇津峯の館

富士宮市田貫湖には西宇津峯の館


地名も名前も地理的にも全く似たような場所が存在したのは、敵にいる場所を発見されないために孫氏の兵法を実践したものと「探求 幻の富士古文献」著者 渡辺長義さんが考察されています。

 

現在、富士宮市の浅間大社が浅間神社の総本山として存在し、

山梨側の小室浅間神社がひっそりと佇む印象であることも、この表と裏の事情を考えると繋がります。

 

山梨県富士吉田市周辺には、この辺りで南朝側の皇族、遺臣たちが名前、姿を変えて落ちのびたという伝承があまりにも多く、史跡もたくさん見られます。

 

 

南朝側の伝承は、今でもあちらこちらに散りばめられて伝わっています。

 

子供時代に見ていた日本昔ばなしで「明見」と聞いて嬉しくなり、調べたものをこちらにまとめてみました。


明見の蓮池

2026.Aug.



続きですガーベラ


 

 

 

渡辺長義さんの御著書、今なら八幡書店さんから買えるようですキラキラ下差し

 

 

数年前に再販されましたがすぐに売り切れていました。泣くうさぎ

 

この方は地元出身で、山梨県の林業技官として30年以上富士山とその周辺を歩き、「足跡のないところはほとんどない」と断言されるほど熟知された方です。

 

富士山溶岩洞穴研究会に所属され、東京大学名誉教授工学博士津屋弘達先生とともに富士山の側火山、溶岩洞穴などの調査、溶岩流の年代観測などを行われたそうです。

 

その上で地元の古代史と詳細な火山活動が記載された『富士文献』を書写、考証するにいたったそうです。

 

地理に詳しい御著者とともに照らし合わせて見る『富士文献』は、現在残る口伝や史跡に関して多くのヒントをくださいました。

 

歴史巡りのバイブルです。グッ飛び出すハート

 

 

 

 

 

 

サムネイル

本日7/17(金)23:30からフジテレビ系で「逃げ上手の若君」新シリーズいよいよ放送開始です!!

アマプラでも見れます♪

 

山梨県都留市には、北条時行の鎌倉龍ノ口【その後】の足跡が伝わります。

以下、引用します。富士山

 

法鏡禅師


法鏡禅師はもとは北条相模次郎時行という名前だった。幼名は亀寿丸。

 

7月、諸国巡礼の後に富士谷に到着。

長慶院が秘かに滞在されていることを知り、大変驚きながらも秘かに院に拝謁した。

一族を招き、この地で長慶院を守護し奉ることとなった。

 

サムネイル
 

その地がおそらく???こちら下差し


 山梨県都留市桂町1047


(写真はお借りしました)



時行は宗良親王・守永親王を護衛して井伊谷に入り、後に尹良親王を守護し奉った。

その時に無文禅師(後醍醐天皇皇子)も井伊谷に来て、方広寺に住まわれた。時行も意を決し、親王たちを守護するために出家し、「法鏡」と名乗った。

 


「逃げ上手の若君」松井優征

よりお借りしました笑い泣き


元中2年(1385)、宗良親王が井伊谷でご薨去された後に法鏡禅師は井伊谷を去り諸国巡歴。富士谷に着くと思いがけず長慶院に謁見し、ここに一族の者を呼び集めた。

一族の者とは、中野式部大輔親治・相川傳八郎國定、志村和泉守元家・高山飛騨三郎政長・渡邊摂津守綱氏・前田河内五郎眞高・大谷美濃七郎宗定・森島日向守兼光ら。

 

勝山谷の玉川の宮(都留市勝山城辺り?)、

阿祖谷の風泉池の宮(富士吉田市大明見)、

両方の仙洞御所を護衛するために、ちょうど中央となる桂谷の丘に建物を建てた。(都留市桂町)


長慶院を常時御守りするものに内守と外守と分け、法鏡禅師は内守の中央に控えていたためその地を内守と呼んだ。(現在→内森)


元中9年、74歳で入寂。

長慶院の勅命で「東明禅師」と号し、その寺を「亀寿山法鏡寺」と名付けた。

一族は引き続きその地で長慶院を守護し奉った。

​

 

足利の蹂躙から密かに南朝を御守りしたと伝わる地なので、現在のお寺の由緒書きとはもちろん違います。


しかし南朝の富士谷に伝わる古文書の内


・富士秘密日記伝

・中宇津峯宮伝

・南朝秘密実記

・不二山集義士南朝忠臣鏡

・北条時行之末伝


以上の中に伝わっています。富士山



 

東宮本殿

 

山梨県富士吉田市にある【北口本宮冨士浅間神社】。富士山神社

 

ご本殿の左後ろ「東宮」は1561年に武田信玄が川中島合戦の戦勝祈願として寄進した当時の本殿です。

 

神社御祭神は天津日高彦火火出見命富士山

(あまつひこひこほほでみのみこと)。

 

 

 

富士古文献(宮下文書)ではどう伝わる神様なのか調べたかったので、以下個人メモです。

 

・一部読み方訂正、漢数字を数字化や現代語へ変更

・参考文献の「探求 幻の富士古文献」渡辺長義著は売切ですが下にリンク添付済

・「但し」の箇所と黒字の()内は渡辺長義さんの解説

・個人メモはむらさき色

 

 

第四章 秦徐福の『富士文献』は語るⅡ(解説)

  国常立尊並びに国佐槌尊 子孫来歴(高天原世天神七代)

    豊受大神・宮司世襲系譜

  第一代 天都大日留女尊(ここから豊阿始原世地神五代)

  祖佐之男命・来歴世代

    天神七代系譜/祖佐之男命・子孫歴代/剣刀知・金山彦命の経歴

  第二代 天之忍穂耳尊

  第三代 天津日子仁仁木尊

第四代 天津日子火火出見尊  

 火遠理(ほおり/山幸彦)の御父、金山男命がお亡くなりになった後、遺言によって、左右の大神に相談の上、天之児屋根命は、作田日子命を道案内とし、西の瀬の湖の北、日向(ひなた)の麓の浜の龍宮へ、火遠理命を御迎えに行く。(西湖根場辺り?)


↓阿司川=芦川


↑割石峠が本栖湖    ↓富士山



 海神の司首、居座凪尊(いざなぎ)の二男 栄日子命(えびす)の孫にあたる海鰭根求男(わたはたねきお)の美しい娘を迎え受け、小室宮(北東本宮小室浅間神社の古宮)へ帰り、

火遠理命の諱(いみな)を天津日子火火出見命と改め、

海神の長女を、諱、豊玉日女(とよたまひめ)と名付け給う。

 天之児屋根命の御子と致し、神皇に身合わせ、宮守の宮において三品の御宝を捧げ、御位に即き給う。


小室宮=小室浅間大神


 神后の豊玉日女命は、神皇の火火出見命に申すに、妾(わらわ)すでに身ごもり、今産む時に臨むと申す。神皇は驚き、月夜見尊の四男 大山住命の弟、倉山住命に詔して、南の宇宙湖の出張り島に、産殿を作らせ、鵜の羽(茅の穂)をもって、産殿の屋根を葺き終わらざるに、皇子は誕生した。

 よって、御名を阿曽男命、またの名を家基都王命(かきつ)と名づけ給う。

 この産殿は宇浜宮と申された。(⇐山中諏訪神社か。御祭神 豊玉姫。安産祭りで有名。)

 それより205千613日の夜の時、醜男命が筑紫より早馬にて使者に来て告げ知らせるに、三漢(三韓?)方面より大軍が筑紫島に攻めて来た。諸々よろずの天津国津の神々を集め、相談し決定の上、天津日子火火出見尊は、宮守の宮の御神殿において、三品の御宝を捧げ、皇子の阿曽男命に御位を譲り給う。

 それより、筑紫島は、三漢をはじめ西大陸に近いにつき、筑紫は度々攻め取られるによって、これより神都を筑紫に移し、居ながら防ぐよりほかに工夫なしと、双方相談は一決し、それより神都を筑紫の要害堅固の地を見立て、不二山(ふじさん)は世界第一の名山にして、日に向う高千火(たかちほ)なるによって、不二山の地名を取って、神都を移す山の地名を、日向の高千峰と名付けた。

 火照命(ほでり/海幸彦)を総軍師とし、武甕槌(たけみかづち)、経津主、建御名方命、稚武主命の四軍師を副帥とし、208千神の軍勢を従え出発いたし、3006日にして穴門の住防の宮に着き給う。時に軍勢10余神なり。(10は1万余か)

 これより、軍勢を二手に分け、筑紫島の東の港にて攻める大将は元帥(げんすい)火照命、副師 武甕命、稚武主命、軍勢5万余神(5千か)。

 南軍は南の港より上陸し、賊の大軍と度々戦い、650日にして、西北の方面に賊を皆追い払い、霧島山より西大山に本陣を移し給う。

 
  但し、不二山高天原の神都の阿曽谷(あそだに)より、火須勢理命(ほすせり)軍勢を引き連れ行き、筑紫島南方の大賊を鎮め給いて、霧島山より本陣を移して、この大山を本陣と致し、筑紫の大賊を鎮め給うによって、この大山を阿曽山(阿蘇山)と名付け給う

 この大合戦に討ち死にした将神28神。負傷した将神17神。討ち死にの兵神3800余神。 

 尾茂太留命の一男少名日子那命は、大戸道命の三女 武弥雄日女命を娶り、諸国を治め、諸々の常世の国に渡り外交をして大功を現し、国家に大功を立てた御神とある。

 この少名日子那命は、寿3万5500日にして老死、神去り給う。(現代の年齢98歳)尾張州中島の里に葬る。

 その子、久延仁日子命は大国主命の二女、龍高日女命を妻とした。久延仁日子命は尾張国の中島において、寿3万1400日にして神去り給う。中島の里に葬り給う。諡名(おくりな)、大国御魂命と申し給う。

 婦神、諡名 下照日女は、神皇に大功を立てた婦神とある。尾張の海部の里において寿3万5000余日にして神去り給う。同所に葬る。諡名、大国御魂日女命と申し給う。

 その子 阿曽武命は、豊玉日子命の三女 海那日女(わたなひめ)を娶り、海軍総大将となり大賊の数百の船を焼き討ち、敵の大将を目掛け、敵船に乗り移り、大賊と大いに戦って戦死すると同時に、船はみな消滅し給うなり。

 よって、海軍の大将頭首、阿曽武命の御夫婦二柱の神を大山に葬る。ならびに海軍の諸々兵神の死体を皆集めて葬る。

 これより、この大頭首の諡名を取って、この大山を阿曽山と名付け給う。阿曽武命、寿1万2250日(34歳)。諡名、健磐龍命(たけいわたつのみこと)と申された。

 婦神、海那日女命、寿1万1813にち、諡名 阿蘇日女命と申し給う。

 それより霧島山を神都と定め、日向の高千峰山と名付け給う。宮を高千峰の宮と名付け、奥山住、倉山住、繁山住、葉山住、原山住、外山住命の六神に詔をして、宮を造営した。

 

 九州(筑紫)に遷都

 神皇は、左右大神をはじめ、天津国津諸々やおよろずの神々付き従え、高天原より御幸(みゆき)致し、筑紫島の宮に着き給う時に、屋根を葺き終わらざるによって、高天原の天都大御神、日子火火出見尊の詔(みことのり)をもって、宇茅葺木不合尊(うかやふきあえず)と諱を授け給う。

 神皇の神后は、豊玉日女尊の姪、海鰭根求男こと後の諱 豊玉彦の孫、海津古玉日子命の長女、玉依里日女尊を神后と致し給う。

 それより、この度の大合戦の軍功を定め、陸軍総戦死者の霊魂を霧島山に祭祀し、霧島神社と祭り給う。

 阿曽山に、海軍総頭首の御夫婦二柱神(健磐龍命と婦神)を、

健磐龍命神社、並びに阿蘇日女神社と祭り給いは、海軍兵諸々の総戦死者を合わせ、国造り神社と祭り給う。

 父の大御神、つまり日子火火出見尊の御夫婦の大御神は、不二山高天原の小室、家基都の宮(富士吉田市大明見)にとどまり座して、

健御名方命の御子 諏訪彦命、

阿曽比昨命、

稚武主命、

鳴沢男命、

海津古玉彦命、

石作器命、

仲津波限命(なかつなぎさ)、

大山彦命

らは高天原にとどまりて、神皇の御父母の大御神を守護ましまし居り給う。

 これより、筑紫島、高千峰の宮の神皇は、不二山高天原の諸々のよろずの天都大御神の御神託を受け、御位を授け給う。

 

 但し、この御位につき給う時は三種の神器を保管する宮守りの大宮の御神殿の御戸を開き、宮司の守護する神前において、神皇に御位を授け給うが式例であった。

 天が下四方の諸々よろずの国の大政を司ることを、大御神の勅命によって、定めていた。

 次に、

国名を宇家屋不二合須国(うかやふじあわす)、

 

神皇の諱名代々を宇茅葺合尊、

神后の諱名代々を玉依里日女命、

 

神皇の諡名代々を宇家屋不二合須尊、

神后の諡名代々を宇家屋不二合須日女尊

と、御定め給うなり。

 豊葦原瑞穂の世、凡十七〇八千余日なり。

 

(「開闢神代歴代記」より)

 

註

一、「開闢神代歴代記」の末尾には以下の奥書がある。

 人皇8代 孝元天皇即位7年

         秦徐福 作書記置

 人皇38代、天智天皇10年(671年)8月中

   蘇我武部(もののべ)両家之世代を、人皇8代孝元天皇御代より作を正し、是に写す者也。

         中臣 藤原物部麻呂

 建久3任子年(1192年)8月右書を写す。

         富士大宮司 宮下源太夫義仁謹書(花押)

 

 

同じ場面でも内容、人物がさらっと違うように書かれているのがよくわかりますネ…驚き

富士山と九州のつながりが書かれていますが、本当だったら嬉しい。九州の甲斐(山梨の意味)さん、南朝の菊池さんまで謎が解けるのでは?

 

 

参考文献:(探究幻の富士古文献は在庫切れ)