山梨県富士吉田市にある【北口本宮冨士浅間神社】。

ご本殿の左後ろ「東宮」は1561年に武田信玄が川中島合戦の戦勝祈願として寄進した当時の本殿です。
御祭神は天津日高彦火火出見命
(あまつひこひこほほでみのみこと)。
富士古文献(宮下文書)ではどう伝わる神様なのか調べたかったので、以下個人メモです。
・一部読み方訂正、漢数字を数字化や現代語へ変更
・参考文献の「探求 幻の富士古文献」渡辺長義著は売切ですが下にリンク添付済
・「但し」の箇所と黒字の()内は渡辺長義さんの解説
・個人メモはむらさき色
第四章 秦徐福の『富士文献』は語るⅡ(解説)
国常立尊並びに国佐槌尊 子孫来歴(高天原世天神七代)
豊受大神・宮司世襲系譜
第一代 天都大日留女尊(ここから豊阿始原世地神五代)
祖佐之男命・来歴世代
天神七代系譜/祖佐之男命・子孫歴代/剣刀知・金山彦命の経歴
第二代 天之忍穂耳尊
第三代 天津日子仁仁木尊
第四代 天津日子火火出見尊
火遠理(ほおり/山幸彦)の御父、金山男命がお亡くなりになった後、遺言によって、左右の大神に相談の上、天之児屋根命は、作田日子命を道案内とし、西の瀬の湖の北、日向(ひなた)の麓の浜の龍宮へ、火遠理命を御迎えに行く。(西湖根場辺り?)
↓阿司川=芦川
↑割石峠が本栖湖 ↓富士山
海神の司首、居座凪尊(いざなぎ)の二男 栄日子命(えびす)の孫にあたる海鰭根求男(わたはたねきお)の美しい娘を迎え受け、小室宮(北東本宮小室浅間神社の古宮)へ帰り、
火遠理命の諱(いみな)を天津日子火火出見命と改め、
海神の長女を、諱、豊玉日女(とよたまひめ)と名付け給う。
天之児屋根命の御子と致し、神皇に身合わせ、宮守の宮において三品の御宝を捧げ、御位に即き給う。
神后の豊玉日女命は、神皇の火火出見命に申すに、妾(わらわ)すでに身ごもり、今産む時に臨むと申す。神皇は驚き、月夜見尊の四男 大山住命の弟、倉山住命に詔して、南の宇宙湖の出張り島に、産殿を作らせ、鵜の羽(茅の穂)をもって、産殿の屋根を葺き終わらざるに、皇子は誕生した。
よって、御名を阿曽男命、またの名を家基都王命(かきつ)と名づけ給う。
この産殿は宇浜宮と申された。(⇐山中諏訪神社か。御祭神 豊玉姫。安産祭りで有名。)
それより205千613日の夜の時、醜男命が筑紫より早馬にて使者に来て告げ知らせるに、三漢(三韓?)方面より大軍が筑紫島に攻めて来た。諸々よろずの天津国津の神々を集め、相談し決定の上、天津日子火火出見尊は、宮守の宮の御神殿において、三品の御宝を捧げ、皇子の阿曽男命に御位を譲り給う。
それより、筑紫島は、三漢をはじめ西大陸に近いにつき、筑紫は度々攻め取られるによって、これより神都を筑紫に移し、居ながら防ぐよりほかに工夫なしと、双方相談は一決し、それより神都を筑紫の要害堅固の地を見立て、不二山(ふじさん)は世界第一の名山にして、日に向う高千火(たかちほ)なるによって、不二山の地名を取って、神都を移す山の地名を、日向の高千峰と名付けた。
火照命(ほでり/海幸彦)を総軍師とし、武甕槌(たけみかづち)、経津主、建御名方命、稚武主命の四軍師を副帥とし、208千神の軍勢を従え出発いたし、3006日にして穴門の住防の宮に着き給う。時に軍勢10余神なり。(10は1万余か)
これより、軍勢を二手に分け、筑紫島の東の港にて攻める大将は元帥(げんすい)火照命、副師 武甕命、稚武主命、軍勢5万余神(5千か)。
南軍は南の港より上陸し、賊の大軍と度々戦い、650日にして、西北の方面に賊を皆追い払い、霧島山より西大山に本陣を移し給う。
但し、不二山高天原の神都の阿曽谷(あそだに)より、火須勢理命(ほすせり)軍勢を引き連れ行き、筑紫島南方の大賊を鎮め給いて、霧島山より本陣を移して、この大山を本陣と致し、筑紫の大賊を鎮め給うによって、この大山を阿曽山(阿蘇山)と名付け給う
この大合戦に討ち死にした将神28神。負傷した将神17神。討ち死にの兵神3800余神。
尾茂太留命の一男少名日子那命は、大戸道命の三女 武弥雄日女命を娶り、諸国を治め、諸々の常世の国に渡り外交をして大功を現し、国家に大功を立てた御神とある。
この少名日子那命は、寿3万5500日にして老死、神去り給う。(現代の年齢98歳)尾張州中島の里に葬る。
その子、久延仁日子命は大国主命の二女、龍高日女命を妻とした。久延仁日子命は尾張国の中島において、寿3万1400日にして神去り給う。中島の里に葬り給う。諡名(おくりな)、大国御魂命と申し給う。
婦神、諡名 下照日女は、神皇に大功を立てた婦神とある。尾張の海部の里において寿3万5000余日にして神去り給う。同所に葬る。諡名、大国御魂日女命と申し給う。
その子 阿曽武命は、豊玉日子命の三女 海那日女(わたなひめ)を娶り、海軍総大将となり大賊の数百の船を焼き討ち、敵の大将を目掛け、敵船に乗り移り、大賊と大いに戦って戦死すると同時に、船はみな消滅し給うなり。
よって、海軍の大将頭首、阿曽武命の御夫婦二柱の神を大山に葬る。ならびに海軍の諸々兵神の死体を皆集めて葬る。
これより、この大頭首の諡名を取って、この大山を阿曽山と名付け給う。阿曽武命、寿1万2250日(34歳)。諡名、健磐龍命(たけいわたつのみこと)と申された。
婦神、海那日女命、寿1万1813にち、諡名 阿蘇日女命と申し給う。
それより霧島山を神都と定め、日向の高千峰山と名付け給う。宮を高千峰の宮と名付け、奥山住、倉山住、繁山住、葉山住、原山住、外山住命の六神に詔をして、宮を造営した。
九州(筑紫)に遷都
神皇は、左右大神をはじめ、天津国津諸々やおよろずの神々付き従え、高天原より御幸(みゆき)致し、筑紫島の宮に着き給う時に、屋根を葺き終わらざるによって、高天原の天都大御神、日子火火出見尊の詔(みことのり)をもって、宇茅葺木不合尊(うかやふきあえず)と諱を授け給う。
神皇の神后は、豊玉日女尊の姪、海鰭根求男こと後の諱 豊玉彦の孫、海津古玉日子命の長女、玉依里日女尊を神后と致し給う。
それより、この度の大合戦の軍功を定め、陸軍総戦死者の霊魂を霧島山に祭祀し、霧島神社と祭り給う。
阿曽山に、海軍総頭首の御夫婦二柱神(健磐龍命と婦神)を、
健磐龍命神社、並びに阿蘇日女神社と祭り給いは、海軍兵諸々の総戦死者を合わせ、国造り神社と祭り給う。
父の大御神、つまり日子火火出見尊の御夫婦の大御神は、不二山高天原の小室、家基都の宮(富士吉田市大明見)にとどまり座して、
健御名方命の御子 諏訪彦命、
阿曽比昨命、
稚武主命、
鳴沢男命、
海津古玉彦命、
石作器命、
仲津波限命(なかつなぎさ)、
大山彦命
らは高天原にとどまりて、神皇の御父母の大御神を守護ましまし居り給う。
これより、筑紫島、高千峰の宮の神皇は、不二山高天原の諸々のよろずの天都大御神の御神託を受け、御位を授け給う。
但し、この御位につき給う時は三種の神器を保管する宮守りの大宮の御神殿の御戸を開き、宮司の守護する神前において、神皇に御位を授け給うが式例であった。
天が下四方の諸々よろずの国の大政を司ることを、大御神の勅命によって、定めていた。
次に、
国名を宇家屋不二合須国(うかやふじあわす)、
神皇の諱名代々を宇茅葺合尊、
神后の諱名代々を玉依里日女命、
神皇の諡名代々を宇家屋不二合須尊、
神后の諡名代々を宇家屋不二合須日女尊
と、御定め給うなり。
豊葦原瑞穂の世、凡十七〇八千余日なり。
(「開闢神代歴代記」より)
註
一、「開闢神代歴代記」の末尾には以下の奥書がある。
人皇8代 孝元天皇即位7年
秦徐福 作書記置
人皇38代、天智天皇10年(671年)8月中
蘇我武部(もののべ)両家之世代を、人皇8代孝元天皇御代より作を正し、是に写す者也。
中臣 藤原物部麻呂
建久3任子年(1192年)8月右書を写す。
富士大宮司 宮下源太夫義仁謹書(花押)
同じ場面でも内容、人物がさらっと違うように書かれているのがよくわかりますネ…
富士山と九州のつながりが書かれていますが、本当だったら嬉しい。九州の甲斐(山梨の意味)さん、南朝の菊池さんまで謎が解けるのでは?
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