こちらの続きです〜。↑
向嶽寺中門扁額 鹽山(塩山)
抜隊禅師の書と伝わる
抜隊禅師(ばっすいぜんし)(1327-1387年)
抜隊禅師とは、山梨県は塩山にある南帝勅願寺の向嶽寺(こうがくじ)を開かれた方です。
国重要文化財 大円禅師(抜隊得勝)像
絹本著色 縦128.8 横62.2cm
南北朝時代 1393年
1378年、かつて近江にいた頃に夢で富士山を見てから志していた甲斐に入り、高森(塩山市竹森)に庵居することになりました。
しかし抜隊禅師を慕って800人にも及ぶ人が険しい山道を通ってまでも集まってしまうほどでした。
抜隊禅師を慕っていた昌秀庵主という方が、時の領主武田信成に要請しこの地の寄進を受けて1380年抜隊禅師54歳の時に向嶽庵を開かれたといいます。
ちなみに当時武田家は北朝についていたそうです。
この昌秀庵主という御方は一体どのような方なのでしょうか。
抜隊禅師のお墓も向嶽寺の墓地にはありませんでした。
なんと…
生前に大悲閣という建物を建てられ、亡き後はその地下に眠られていると分かりました。
高野山の空海さん的な
以下「向嶽寺の名宝ー山梨県立美術館 向嶽寺」より一部抜粋させていただきます。
抜隊禅師(大円禅師)は1355年29歳の時に出家、諸国の道人を歴訪したのち、1358年出雲雲樹寺の孤峯覚明の印可を受け抜隊の号を与えられた。
更に諸国を遍歴転住し、甲斐に至ったという。
寂後、武田信玄の奏請によって慧光大円禅師と勅謚された。
抜隊禅師が各地を遍歴され続けた様子は山伏、修験者、忍者のような関所フリーパスかつ情報量豊富な存在を思い出させます。
向嶽寺が南朝との関りが深い所以にもちらりと想像を巡らせてみたり。そうなると山中にまで慕って訪れた800人というのも、その中には実は…?などと勝手に想像してしまいます。
個人的話題になりますが‥
抜隊禅師とは故郷が同じ相模国で近隣地域です。
ともに縁あって甲斐国へ。
家族・友人の住む故郷神奈川を離れ、右も左も分からない山梨へ来たというところに勝手に御縁を感じ、またその頃ちょうど塩山に通う用事もあったため、向嶽寺へも参拝させていただきました。
抜隊禅師のお墓参りを(敷地内へは入れません。壁の外側からです。)させていただこうとお山の方へ回るとビックリ
キツネさんがいました🦊
すぐ裏の塩の山から大悲閣にまで降りてきたのかもしれません。
お互いにびっくりしたので、すぐにキツネは背中を向け大悲閣方面の生け垣へ入って行ってしまいスマホを取り出す間も無かったのが残念
でもちょっと待って。
抜隊さんのお師匠さんのお名前、孤峰覚明(こほうかくみょう)さんじゃん。
キツネつくじゃん。
(注:神奈川弁。)
(注:甲州弁の“じゃん”とは全く異なる。)
と、【孤】と【狐】をすっかり間違えて()ぬか喜び。
しかしながらそれをきっかけに孤峰覚明さんについても調べてみたところ、孤峯覚明さんも南朝と大変ゆかりのある方でした。
続きます〜。
(素晴らしい松の木があちらこちらに)