河口湖畔にある武将の像をご存じですか
頼朝からも信頼の厚かったと言われる「梶原景時公」です。
現在でも河口湖や富士吉田周辺に「梶原さん」が多いのは、どうやら梶原景時の関係らしい…
と教えてもらったのが鎌倉殿の13人の放送が始まる直前のこと。
偶然が重なり先月は静岡にある「梶原氏終焉の地」を訪問。
その2日後に、「梶原家と富士河口湖のつながり」という河口湖のケーブルテレビによる特別番組の放送があったそうです。
まるで答え合わせかのような大変興味深い放送でしたので、こちらでも記録させていただきたいと思いました。
以下、ケーブルテレビ河口湖による「梶原家と富士河口湖町のつながり~景時公の軌跡~」を参照にさせていただきます。
事務能力、実務能力に優れた上に、
教養があり、和歌を好んだ梶原景時公。
富士河口湖町にはその直系の御子孫が今でも数多く暮らしています。(←周辺地域にもいらっしゃいます。読み方はカジハラ、カジワラ、両方あります。)
「鎌倉氏」の一族
出身地は相模国鎌倉軍梶原郷(現在の鎌倉市)
桓武平氏の流れをくむ「鎌倉氏」の一族
大庭氏も同じく鎌倉氏の一族
(ケーブルテレビの放送よりお借りしました)
梶原景時の有名なエピソード
〇ししどの窟で頼朝を救う
〇上総広常の討伐
〇一の谷合戦で、息子を救うために敵陣へ引き返した「梶原の二度駆」
〇平家の公達が、坂東武者にも風流を理解する者がいると称賛した嫡男・景季の「梅枝」
(画像はお借りしました)
梶原家と甲斐国のつながり
頼朝は、加藤景廉(かげかど)と梶原景時に命じ
甲斐国の武田一族の有力者である安田義定を攻略させ、自害させた。
頼朝は、安田義定の領地(甲斐の国、東部。富士河口湖町周辺も含む)を加藤景廉に与えた。
加藤景廉はこの地を治めるのにあたり、梶原景時の末っ子である八男・景則(かげのり)を地頭として送りこんだ。
1200年梶原景時が敗した際、一族の女性や子供たちは加藤景廉の手配により甲斐国へ逃れ、かつて大原荘(おおはらのしょう)と呼ばれた富士河口湖周辺へ移り住んだと言われている。
①景則公の支配
②景時公が亡くなった際の一族の避難
という二段階によってこの地域へ移り住んだとされ、その末裔が現在の梶原氏に繋がると言われている。
放送ではこの後、梶原家が護る「今諏訪神社」と「先祖は鎌倉から逃げて来た」と伝わると語ってくださった梶原一家の方の話が続きます。
大変貴重なお話でしたのでこちらで続きもご紹介できたらと思います。
梶原景時ファンの方、御子孫の梶原さま方、楽しみにされていてくださいませ。
続きも書けました☟
中村さんも調べてみました。