言論の自由について -企業・コンプライアンス・消費者の観点から- | れぽれろのブログ

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今回は言論の自由について、あれこれ考えてみたいと思います。
我々は自由主義の社会の中にいます。言論の自由は憲法で保障されている権利です。現在はSNSなどの情報サービスの発展により、かつてと比べると多くの人々が自由にコミュニケーションし、自らの考えを発信することが容易になっています。
にもかかわらず、最近は物が言いにくい時代になってきた、などというのはよく聞かれる言説です。自由に考えを発信した個人や企業が、批判やバッシングによってその発信を取りやめたり謝罪したりするという事件は、毎日のようにニュースで見かけます。
我々は自由主義の社会の中にいますが、当然ですがこれは何を言ってもいいという社会を意味するわけではありません。とくにひろく社会に発信する発言については、言って良いことと良くないことが存在します。現在における言論の自由を考える上で、何に注意する必要があるのか、以下自分なりにまとめてみます。


言論の自由を考える上でまず第一に重要なのは、国家や公的機関による言論の統制を回避するということです。
現在の憲法ではその第21条に言論の自由についての規定があります。→「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」 この条文は、我々が言論によって国家から不当に逮捕されたり、発言を禁止されたり、差別的な待遇を受けたりすることはあってはならないという意味です。
言論の自由は国家と国民の関係を意図して設けられた条文であり、私人間の発言の自由を保障しているわけではありません。なので、当然のことながら人と人とコミュニケーションを行う際は(常識的に考えて当たり前の話ですが)、何を言ってもいいというわけではなく、対人関係や社会に配慮して、物を言ったり言説を発表したりする必要があります。
しかし現実には、配慮に欠ける言説が社会の中には横行しています。特定の言説に対して我々はときに不快に感じ、「こんな発言は許さない」という思いを持つことも多いと思います。「こんな発言は許さない」という思いが「こんな発言は法によって規制するべきだ」に変化した場合に初めて、憲法的な意味での言論の自由は終わります。
行政官僚は規制によって権益を得る組織ですので、国民からの規制の声が沸き上がれば、憲法に反しないようなロジックをあれこれ考えた上で、規制を容認する方向に向かいがちです。もし言論に対して仮に「護憲」という立場があるとするなら、それは「こんな発言は法によって規制するべきだ」という考えに陥らないように注意して思考する、ということではないかと考えます。

次に、言論についての企業のあり方について。
昨今は企業コンプライアンスの重要性が盛んに叫ばれる時代です。企業コンプライアンスとは、企業が社会の要請に応えることです。コンプライアンスは単に法を守ることだけではなく、積極的に社会のからの要請に応える姿勢を持つということがポイントです。(これは企業内研修などでコンプライアンスについて学ぶときにさんざん聞かされることですので、記憶に残っている方も多いのではないかと思います。)
企業は単に利益を追求することが目的ではなく、ひろく社会から受け入れられる存在でなければなりません。なので、言論との関係で考えると、当然のことながら企業が社会の要請に反するような言説を発信することは、あってはならないことです。ヘイトスピーチの類は論外、これ以外にも特定の個人や組織を中傷したり、人々が不快な思いをしないように、企業は最大限の配慮を行うべきです。これは企業の公的な発信のみならず、企業に所属する人間、あるいは企業と契約する人間全員が注意すべき問題です。
企業が自らの思いを社会に向けて発信することは大切なことです。これは言説による発信だけではありません。言論をサービスとして販売している企業だけではなく、製品を含めた様々な商品は、これすべて企業の社会に向けた発信のかたちです。これらの商品は単に利益を追求するためだけのものではなく、社会をより良い方向に持っていくものであることが望ましい。現実にはなかなか難しいことですが、企業や個人が発信する自由な言説・商品・サービスは、単なる企業や個人自身の思いの表出ではなく、すべて社会をよりよくするためのものでなければならないというのが自分の考えです。

第三に、コンプライアンスが攻撃の口実になりがちであるという点への留意、及び一旦「炎上」した場合の対処について。
最近知ったことですが、戦前の不敬事件(天皇や皇室や国家を侮辱したとの廉で検挙される類の事件)の多くは、気に食わない個人や組織を攻撃するために密告や通報が行われていたケースがたいへん多いのだそうです。本当に天皇や皇室を尊崇しているわけではなく、「これの発言は不敬なのではないか」という口実で、気に入らない人や組織を攻撃する。現在のコンプライアンスを理由にした組織や個人の言説に対する攻撃の多くも、このような傾向も多々あるように感じられます。
現在コンプライアンス上問題視されがちなのは、社会的弱者や女性への差別につながる発言でしょうか。このような発言を糾弾する人たちの中には、本当に真摯にその価値を大切だと思っている人がいる一方、これを口実に気に入らない発言者を攻撃したいという動機を持つ人から、単に野次馬的に騒ぎ立てて目立ちたいという人まで、多くの人が存在するように思います。とくに現在のSNS時代では、こういった過剰な反応が多くの人に可視化される事態となります。
個人の失言、あるいは企業の広報などの発信の失敗に対し、このような過剰な糾弾が起こった場合には、どう対処すればよいか。自分はたとえそれが攻撃や野次馬的騒ぎ立てが目的であっても、糾弾する側に一定の合理性がある以上、失言した主体は真摯に対応するしかないと考えます。
社会の中で本当の意味で言論の自由を謳歌するのは、たいへん難しいものです。であればセンシティブなことに触れずに黙っていた方が無難と考えるのも、無理はありません。かつて「自由は孤独で寒いものである。束縛は暖かいが腐臭がする。」と書いたのは中島らもでしたが、自由な発言に責任を負うということは、非常に孤独なことなのだと思います。人間が社会的な存在である以上、真に自由に発信するということは、実はたいへん難しいことなのだというのが自分の考えです。

最後に、消費者の側の構えについて。
企業は上の通り社会の要請に応え、社会をより良いものにするために自らの価値を、商品やサービスのかたちで、あるいは言説として、発信する必要があります。ですが、ときに企業は目測を誤って発信に失敗する場合もあります。また、特定の発信が特定の消費者にマッチしても、別の消費者にとっては受け入れられないということも多々起こります。
我々はこういった場合に企業の発信に不満を持つことも多いです。今まで好きだった企業が変わってしまったと感じることよくあります。その場合、文句の一つも言いたくなるということが消費者の心理です。これは対象が企業であるかに関わらず、法人や個人の発信者に対しても同じです。
企業や法人や個人の発信者の特定の発信に対し、誠実な対応や丁寧な説明を求めたくなる気持ちも分かります。しかし、我々の多くが知っている通り、我々一人一人の仕事は日々たいへん忙しいものです。企業も我々の多くも日々仕事に忙殺されており、少ないリソースの中で、消費者一人一人に対して、誠実で丁寧な説明を行うのはたいへん難しいです。まして企業への大量のクレームの場合など、丁寧な対処は困難であり包括的に対処せざるを得ません。
総じて我々は個人や企業の発信に対して、寛容である必要があります。我々は特定の企業や個人の言説、商品、サービスなどに不満を持った際に、すぐに不満を爆発させるのではなく、一歩立ち止まってその不満の理由を検討してみることが大切です。発信者に対し意見を述べるのも良いですが、それは熟考の上にその発信者にとってプラスになる形でなければなりません。それでも不満が残れば、その発信を今後受け取るのをやめれば良いだけです。

限度を超える発信に対して怒りを表明することも大切ですが、ある程度のところで矛を収め、事態を収束させることも大切です。まして単なるサービスの変化や方針の変更について、必要以上に騒ぎ立てるのはよくありません。資本主義社会の中で言論の自由が適切に確保されるためには、消費者一人一人のこのような構えもまた大切なことです。


言論の自由にとって、総じて一番大切なのは寛容さであると考えます。我々が寛容さを失ったっ場合、言論の自由は瞬時に損なわれます。自由は冷たくて厳しいものになりがちですが、それを暖かいものにするのが、我々の寛容さであるというのが自分の考えです。その上で企業や発信者は、社会からの要請に基づき、社会をより良いものにするための発信ができれば、ベストなのではないかと考えます。