大阪とは何か -交通の要所から実験都市へ- | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

今回は大阪について書いてみます。

自分は大阪府出身、大阪府在住です。大阪府以外の都道府県に住んだことはありません。他の都道府県には出張や旅行でたまに行くのみです。本来「大阪とは何か」などという考えをまとめるには、他の地域に住んでみた後で、その体験を比較するというのが妥当です。自分の場合は残念ながらそれができませんので、主に郷土史の本などを読んできた知見を参照することになります。
現時点での考えをサラッとまとめておくのも面白いかなと思い、今回は大阪とは何かについて、自分なりの知見を覚書として残しておこうと思います。やや長めの文章になりますが、ご関心のある方はお読みください。


一般に大阪といえば、阪神タイガース、お笑い、粉モノ文化などと言われます。もちろんこれらは現在の大阪の主要な一面かもしれませんが、歴史的には浅く、さほど重要なポイントではありません。

大阪=阪神タイガースとなったのは遡ってもせいぜい70年代以降で、それ以前に大阪で一番多かったのは、当然のことながら全国的な有名球団である巨人ファンです(自分の両親も巨人ファン)。そもそも大阪近辺には阪神、阪急、近鉄、南海と私鉄球団が4つもあり、これに巨人も含めて、好きな球団は乱立する状態にありました。とくに自分は大阪府南部の出身ですので、小学校時代(80年代後半)の時点でも近鉄・南海ファンはたくさんいましたし、巨人ファンもいました。
大阪=阪神となったのは、70年代に神戸サンテレビが阪神タイガースの全試合完全中継を始めたこと、85年の奇跡的な阪神の優勝、80年代以降の阪神以外の在阪私鉄球団の消滅が背景にあります。なので歴史はせいぜい40年です。(野球に関しては、歴史的にはおそらく豊中市が発祥の地である高校野球の方が重要です。)

お笑いについても、今日イメージされる大阪的な笑いというのは、おそらくは明石家さんまやダウンタウンらの東京での活躍に代表される、東京吉本的なノリがベースにあるのではないかと思います。80年代前期の漫才ブーム以降、関西出身の芸人たちがテレビで目立つようになってからの、80年代以降的な現象です。
粉物文化についても、これはとくに戦後に供給され始めた小麦を各地域でどう消費したかという地域ごとの差異の問題で、終戦直後まではさかのぼれるにしても、おそらくそれ以上のものではありません。たこ焼き・お好み焼きも食文化の一面ですが、それより小麦的に重要なのは(これは以前にもどこかで書きましたが)、近畿圏の対人口比のラーメン店舗数の少なさと、パン消費量の多さです。大阪近辺ではパン消費量の方が重要で、自分もやたらとパンを食べがちというのも以前にも書いた通りです。


大阪とはどのような場所なのかと考えた場合、近世以前は「日本一の交通の要所」、近代以降は「日本一の実験都市」、と考えるのが妥当なのではないかというのが自分の仮説です。

大阪府は地理的には瀬戸内海と紀伊水道のどん詰まりにあります。奈良や京都にある都を海路で訪れるには、船で瀬戸内海や紀伊水道を渡った後、まず大阪の地に降りてその後陸路で奈良や京都に向かうことになります。
このため現在の大阪府のある場所には多くの人間が集まることになり、それ故に狭い地域であるにも関わらず、摂津・河内・和泉という3つの国が形成されました。とくに旧河内国は旧摂津国・旧和泉国などと比較しても、国郡里制における郡の数がかなり多く、昔から人口密度が相当高かった地域なのではないかと推測します。
交通上の要所であったこともあってか、5世紀~7世紀にかけては現在の大阪府の地にはしばしば都が置かれ、多くの渡来人が住み着き、巨大な古墳もたくさん造成されることになりました。いわゆる大化の改新、中大兄による蘇我入鹿の暗殺の後の改新の詔の発布も、あまり知られていないかもしれませんが大阪(難波宮)で公布されています。都が平城京や平安京に固定されてからも大阪の地は交通の要所であり続け、遣隋使や遣唐使も大阪(難波津)から出航し、帰還しています。

中世以降も大阪湾は重要な対外交通の要所であり続けます。
中世初期の平氏政権の時代には旧摂津国の福原(現神戸市のため大阪府ではありませんが旧摂津国)が、中世後期には堺(現大阪府下)が栄え、ともに対外交通の重要な地となりました。とくに16世紀の堺は西洋世界との接触が大きく、鉄砲とキリスト教の受容は日本史上での重要事件です。堺の地では鉄砲の大量生産が行われるようになり、これは中世末期の日本の在り様を変えただけではなく、「物の始まりみな堺」と言われるような工業都市堺のスタート地点としても重要。キリスト教の受容は九州が有名ですが、大阪府下でも八尾や茨木などにキリシタンの遺構が残っています。
近世以降は、大阪は国内交通の要所として重要な位置づけになります。
豊臣秀吉が石山本願寺を落としてその地に大阪城と大阪の街を建設したのが16世紀末。このころ秀吉が整備した都市部(現在の大阪市のほぼJR環状線の内側に相当する)の形は、そのまま現在まで引き継がれています。大阪の陣で豊臣家は滅亡しますが、江戸幕府は引き続き大阪の地を重要視し、この地を幕府の直轄地にします。
近世の大阪は国内交通の最大の拠点となり、西回り航路を中心に全国からの様々な特産物が大阪の地に集まり、大阪近辺で貯蔵・加工された後、必要な分だけ江戸やその他の地域に出荷されるという体制が取られるようになります。いわゆる「天下の台所」と言われるゆえんです。大阪では株仲間や米の先物取引といった経済上の変化をはじめ、文化芸術や儒学をはじめとする学問の点でも重要な地になります。とくに江戸がまだまだ未発達であった17世紀時点の元禄文化では、京都と合わせて大阪は重要でした。

ここまでも便宜上「大阪」という表記を使用してきましたが、この地が厳密に「大阪」という地名で固定されるのは近代以降です。中世後期に「大阪」「大坂」という表記が現れ、明治に至って「大阪」に統一されることになります。
近代の大阪は、実業家たちがたくさん集まってきて自由に事業を起こす場所になります。これは、近世以前に交通の要所であったこと、それ故に近世に江戸・東京と並ぶ大都市になったことの延長上にあります。
大阪と東京の一番の違いは、おそらくはその自由さにあります。東京は帝都であり、国家の中心であり、天皇の住む場所です。それ故に事業の多くは国家的プロジェクトとなり、失敗は許されません。逆に大阪は国家と関係のない人たちが外からやって来て勝手に事業を起こし、失敗も含めて自由に事業に取り組むことが容易であったのではないかと推測します。近代以降の大阪は、巨大な社会的実験都市だったのではないかというのが自分の見立てです。

明治初期は薩摩出身の五代友厚、明治末から大正にかけては北関東出身の小林一三、大正から昭和初期にかけては静岡出身の関一など、多くの実業家や政治家が大阪で実験を行います。
大阪では大阪砲兵工廠や造幣局のような官営の事業もありましたが、明治前期の大阪で何より重要なのは紡績業です。紡績業が発達した大阪は「東洋のマンチェスター」と言われるまでに商工業的に栄えますが、これらは国家的プロジェクトなどではなく、実業家たちが勝手に大阪の地で切磋琢磨した結果です。
阪急電鉄の創業者である小林一三は、北摂の誰も住んでいないような場所に電車を通し、そこに住宅を誘致し、百貨店や温泉施設や歌劇場や野球場を沿線内に作り、通勤とレジャーの両方で平日も休日も鉄道を利用するという、近代日本の都市のあり方を他に先駆けて開発しました。
大阪市長であった関一は大正末期に大阪市域の大規模拡張を行い、周辺の広い農村地域を大阪市に取り込み、いわゆる「大大阪」を構想し、他都市に先駆けてこれを実現しました。このために大阪市の都市部は拡張され、関東大震災の影響もあって、昭和初期には大阪市の人口は一時的に東京市を追い抜くまでになります。御堂筋の建設、地下鉄の建設、大阪城天守閣の復興などに代表される、商業・交通・観光の多方面にメリットの大きい都市開発を行い、現在につながる都市のかたちを作り上げたのも関一です。

このような大阪の実験都市的な性格は、さかのぼると地理的な場所の問題に行きつきます。瀬戸内海と紀伊水道の奥にあり、奈良や京都といった古代中世の首都の近郊であったことから、日本一の交通の要所を経て大都市となり、しかも近代以降の国家の中心ではなかったことから、様々な実験が可能になった。
我々はつい「大阪人」などといって、そこに暮らす人々に問題を帰着させがちですが、歴史を考える上でおそらく重要なのは人ではなく場所の問題です。もちろん地域風土に根ざす県民性のようなものもあるかもしれませんが、それらも考えを深めると場所の問題に行きつきます。上にあげた豊臣秀吉にせよ、五代や小林や関にせよ、外からやってきた人たちです。地域を考える上で、人ではなく空間を考えることが重要なのではないかというのが、自分の考えです。

戦後、とくに高度成長を経た低成長時代以降は、相対的に地方都市の重要性は低下します。いわゆる首都圏一極集中問題です。国家が主導して軍拡や経済成長に邁進する時代が終わり、農業人口も同時に減少した結果、人々はより便利な東京近郊に移り住むようになり、地方は衰退します。阪神・吉本・粉物に代表されるコテコテの大阪的イメージの形成(上でも書いたようにこれらはおそらく70年代以降に始まる)は、このような地方衰退の時代の、首都圏からの目線の大阪人自身の再内面化であるようにも感じられます。
一方で大阪の実験的な部分は、現在も続いている面もあると言えます。地方都市における橋下徹的なもの(彼も外からやってきた人物です)も、おそらく実験の場という性格から、他に先駆けて(小池百合子や河村たかしらよりも早い時期に)登場したのではないかという推測も働きます。現在の大阪維新の会についても、良い悪いは別にして、おそらくは地方都市における壮大な実験の一形態なのだと考えます。


最後に関西弁の問題について。

よく関西の人間は首都圏に行っても方言を使い続けるなどと言われます。「彼らは言葉にこだわりがある」などという意見も聞かれます。これは自分の考えでは、標準語を使わないのではなく、使えないというのが正しいです。
関西弁で重要なのは、1つ1つの語彙よりもイントネーション、アクセントです。いわゆる標準語型アクセントと京阪式アクセントは全く違います。京阪式アクセント話者にとって、標準語型アクセントに喋り方を変えるのは、とくに年齢が上がれば上がるほど困難です。
京阪式アクセントは近畿地方を中心に、四国方面にまたがる言語圏のアクセントです。これらの地域の人間が標準語式のアクセントを習得するのは相当難しく、逆にこれら以外の地域はアクセント的には標準語のものに近いため、標準語っぽくしゃべることはおそらく近畿圏より容易なのではないかと推測します。
当然関西人であっても国語教育は受けていますので、もちろん文章としての標準語は理解できます。しかし関西人の子供が国語教科書を音読するときは、京阪式アクセントで音読します(自分も標準語の文章を脳内で音読する場合も、今でもやはり京阪式アクセントになります)。アクセントは学校教育の場で教えるのは困難です。
アクセントを変えることが困難なので、1つ1つの語彙も変えるのが面倒くさくて関西弁を使う、というのが、首都圏でも関西弁を使い続ける関西人が多い理由ではないかと考えます。

付記的に一応書いておくと、首都圏人が標準語を常日頃から使っているかというと、そうでもないように思います。形容詞の語尾「ない」→「ねえ」の変化、「つまんない」のような「ら」→「ん」の変化、「~じゃん」のような接尾語は、関東方言であって標準語ではないはずです。方言はみんなが無意識に使い続けているものです。
もう1つ書くなら、「正しい関西弁」のような考え方も、たいへん問題の多い考え方です。言葉は変化し続けるものです。近代国民国家としての標準語を便宜的に定めることには意義がありますが、正しい関西弁を定める意義はどこにもありません。(正しい関西弁のような発想は、首都圏的な発想を関西人自身が内面化してしまっている考えのようにも思います。)
「大阪とは何か」という問いに対し、「それは大阪弁である」という考えもそれはそれで面白いかもしれませんが、日常使う言語はもっと適当で、いい加減でいいのではないかというのが自分の考えではあります。