幣原喜重郎/熊本史雄 | れぽれろのブログ

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熊本史雄さんの著作「幣原喜重郎」(中公新書)を読みました。
幣原喜重郎は戦前の外交官・外務大臣で、戦後すぐに首相を務めている人物です。一般には、外務大臣の時代に憲政会・民政党内閣の下で対英米協調外交、いわゆる「幣原外交」を行った人物として知られています。また、敗戦直後に総理大臣を務め、現在の日本国憲法の制定に深く関わった人物としても、近年とくに注目されているようです。
本書は幣原の生涯を追いながら、いわゆる幣原外交とは何だったのか、そして戦後に幣原は新憲法の制定とどうかかわったのかについてまとめられている著作で、新書サイズでポイントを絞って書かれているので読みやすく、たいへん面白い本になっていました。
以下、本書の覚書と感想などをまとめておきます。


自分なりの本書のまとめ。

幣原は1872年に大阪府の門真市(当時は門真村)に生まれ、京都の第三高等中学校を卒業後、帝国大学に進んでいます。第三高等中学校時代の同期には浜口雄幸がおり、後に浜口は民政党内閣時代に総理大臣に就任しますが、その際に幣原は外務大臣を務めています。幣原と浜口は実は旧知の仲だったようです。
帝国大学卒業後、外交官試験に合格し外務省に入省、朝鮮・イギリス・アメリカなどで外交官として仕事をし、先輩の外交官である小村寿太郎(日露戦争後のポーツマス条約の締結で有名)や、石井菊次郎(アメリカとの石井・ランシング協定の締結で有名)に薫陶を受け、とくに石井菊次郎とはその後も仕事で大きく関わることになります。
ちょうど朝鮮への赴任時に日露戦争が勃発、アメリカへの赴任時には対日移民排斥問題に遭遇しています。日露戦争の開戦時には、ロシアへの情報伝達を阻止するために電線を切断するなど、面白いエピソードも紹介されています。

幣原は英語が堪能で、外交の方針としては常に正攻法、正直でありあまり策を弄さないタイプでありつつ、それでいて自信家でもあるという性格であったようです。
大正時代には大隈重信内閣(外務大臣は石井菊次郎)の下で外務次官に就任、その後大正末期から昭和初期にかけて憲政会の加藤高明・若槻礼次郎両内閣、民政党の浜口雄幸・若槻礼次郎両内閣の下で外務大臣を務めています。
外務大臣時代の外交方針は対英米協調主義で、これがいわゆる幣原外交と言われ、対外強硬派のイメージが強い政友会の田中義一(首相時に外務大臣を兼務)との比較で語られることが多いですが、いわゆる「幣原外交」というような対外協調的な外交方針は当時はなかったという結論が本書の1つの重要なポイントです。

確かに幣原は対英米協調主義者ですが、単純な対外穏健主義ではなく、満州の鉄道などについては積極的に日本の権益の正統性を主張し、中国の急進的な条約改正運動や従来の慣習を無視した権益拡張については批判的な立場を取り続けています。
これは実は従来の小村寿太郎や石井菊次郎らの外交方針と変わることはなく、明治以来の伝統的な対外方針の延長上に位置付けられるのが幣原の外交であり、これは幣原独自の方針ではありませんでした。幣原は従来の外交方針の延長上で、最大限日本にとっての利益になるように行動したというのが本書の見立て。
しかし幣原が外務大臣であった第二次若槻礼次郎内閣の下で満州事変が勃発、幣原は対外調整に苦慮しますが、結局事変の拡大を抑えることはできず若槻内閣は総辞職、以降幣原も政治の第一線からは退きます。

大正期の次官時代にはかなり優秀な活躍を見せた幣原でしたが、昭和の外務大臣時代には(幣原外交の名を冠される割には)実は大きな成果は残せていません。これは、大正から昭和にかけてとくに中国大陸の状況がかつてないほど混迷し、従来の方針がうまく機能しなかった点も大きいですが、かつてのように大臣がトップダウンで決裁できる時代は終わり、内外の調整に苦慮したという点も大きいようです。
自分なりにまとめると、明治から大正にかけては、伊藤博文や山県有朋などの元老が生きていた時代で、元老の決裁を得れば大臣はかなり自由に行動できた時代であり、小村や石井はこのようにして活躍してきました。しかし幣原の時代には元老は(老齢の西園寺公望1人を除き)おらず、各方面(軍部や宮中を含む)に対する調整がその分たいへんであった。明治憲法体制の下で分散的であった権力の調整が元老不在時代はことのほか難しかったのではないかということも、本書から読み取れる面白いポイントと思います。

満州事変から第二次大戦の敗戦まで、幣原は政治の世界からは退きますが、戦後すぐに総理大臣に指名され、占領軍と調整しながら戦後日本の方針を決定するという困難な仕事を任されることになります。幣原はマッカーサーら占領軍と強調しながら、とくに天皇制の護持と憲法の制定に尽力します。

日本国憲法の第9条の起草に幣原が深く関わったという説もあり、最近は9条は幣原の発案という説も語られることがありますが、そうではないというのが本書の立場です。幣原は平和主義には賛同の立場でしたが、戦力不保持に対しては積極的ではなく、GHQに押される形で戦力不保持の9条の文言を了承。敗戦直後の状況ではGHQの方針に従う他はなく、首相である自らが戦力不保持の文案の起草に関わったということを示すことにより、戦後憲法の正当性を確保しようとしたのではないか。

戦力不保持は自らの発案であり、憲法9条の発案者であったという「壮大な芝居」(本書の表現)を幣原が演じたというのが、本書のもう1つの重要なポイントです。マッカーサーとの会談により緊密な調整を行い、戦後の天皇制維持と日本国憲法制定に対する道筋をつけたのが、戦後の首相時代の幣原の大きな成果でした。
大仕事を終えた幣原は約半年で首相を辞任、以降は進歩党の総裁に就任し、その後も政党を移動しながらも政党政治に関わり、戦後6年目の1951年に亡くなっています。


感想など。

本書から浮かび上がってくる幣原像は、「幣原外交」「9条の発案者」のような華々しく活躍した人物像などではなく、どちらかといえば実証的な研究によりこれらの像を否定する記述になっています。

しかし幣原の外交家・政治家としての仕事に問題が多かったかというとそうではなく、戦前の外交は従来のオーソドックスな外交を踏まえた上で困難な調整にあたり、戦後の首相時代には過去の知見を活かして(嘘も含めて)戦後の大きなな流れに道筋をつけた人物であるというのが、本書から浮かび上がってくる幣原像です。
要所要所でしっかりと仕事をした人物であり、結果的に成果につながらなかったのが戦前であり、成果につながったのが戦後であるというのが本書から読み取れる結論であるように思います。

歴史の大きな流れに抗うことはたいへん難しく、政治家にできることは実は限られてます。1国の1政治家が、グローバルな政界情勢の流れを変えたり、地球規模の自然災害や環境変化に対し抗うことはできません。しかし、それでも要所要所で歴史に抗い、戦争や災害などに対して適切な処置を取り被害を最小限にとどめようとすることは、政治家の責任においてなされなければなりません。歴史の動向や地球規模の変化は政治の責任ではありませんが、これについて妥当な対処を行い合理的な手続きを行ったかについては、政治家の責任が問われます。
昨今は新型コロナウイルスが猛威を振るっていますが、これに対して人類が対処できることも限られています。政治家はウイルスの脅威やそれに付随する経済の変化からすべての人を救うことはできませんが、それでもなお被害を最小限にするための手続きをしっかり行うこと、要所要所で「ちゃんと仕事をする」ことは重要です。
非常時における政治家による対処とその限界、それでもなお妥当な手続きを取ろうとすることの重要性を考えること、合わせて現在の政治を考える上でも、本書は重要な示唆を与えてくれる本であると感じます。


ということで、本書は近代史好きの方にはおすすめの本です。
最近とくに「実は○○は××ではなかった!」系の本は多く、本書もそれに近い部分(幣原外交はなかった、憲法9条の起草者ではなかった)もありますが、単に否定するだけでではなく別の人物像・仕事像を提示している点で本書は面白く、かつ現代政治を考える上でも面白い本であると感じます。