大阪市南部 神社いろいろ (安倍晴明神社・阿倍王子神社・阿部野神社・大依羅神社) | れぽれろのブログ

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大阪市の神社シリーズ。
今回は第3回目、大阪市南部の阿倍野区・住吉区にある4つの神社を取り上げます。
阿倍野区・住吉区は上町台地上にある区であるため、歴史は古いです。前回の大阪市北部の4つの神社は比較的新しく、淀川近辺の海・湾が陸地化して以降の神社でしたが、今回取り上げるのは大昔から陸地であった場所のため、かなり古い時代に由来する神社も登場します。
安倍晴明神社・阿倍王子神社・阿部野神社はいずれも阿倍野区にある神社で、「あべ」づくしです。大依羅神社は住吉区にある神社で、かなり古い来歴を持つ神社となります。
以下、4つの神社の写真と覚書です。訪問はいずれも昨年の12月です。



(1)安倍晴明神社

まずは安倍晴明(あべのせいめい)神社です。
その名の通り、平安時代の天文博士であり陰陽師である安倍晴明を祀る神社です。
最寄り駅は阪堺電車の東天下茶屋駅。宅地の中にある小さな神社で、次に登場する阿倍王子神社の末社という位置づけの神社です。


鳥居。



拝殿。

安倍晴明神社は創立は1007年、一条天皇による創建と言われています。
安倍晴明は921年(または944年説も)に生まれ、1005年に亡くなっていますので、亡くなって直後に神となり、神社に祀られたという経緯のようです。
現在の社殿は1925年に再建されたものです。


敷地内にあった安倍晴明の像とキツネの像。

伝説によると、安倍晴明の父である安倍保名が和泉国の信太明神に参詣した際に助けた白狐と結ばれ、安倍晴明はその子供であるとされます。このキツネは安倍晴明のお母さんということのようです。信太明神は現在の聖神社のことで、この神社は以前に大阪府の丘陵地の神社仏閣を並べた際に取り上げました。
安倍晴明は花山天皇の退位を予知したり、大江山の鬼退治を指導したりと、様々な伝説があります。とはいえ、花山天皇は藤原氏の陰謀により退位させられたので、単に予見できたことなのかもしれず、これが予知と言えるのかは謎です 笑。


安倍晴明誕生の地、の石碑。

江戸時代の文政年間の碑とのことで、19世紀前半のものです。
碑の古さとその右の看板の手書き文字のゆるさのギャップが良い感じ 笑。


安倍晴明公産湯井の跡。

生誕の地のすぐ横にある産湯の跡です。こちらの解説ではなぜか安倍晴明「公」となっています。

平安時代中期、菅原道真などと並んで人間が神になった神社の例として、興味深い神社であるように思います。



(2)阿倍王子神社

続いては阿倍王子(あべおうじ)神社です。上の安倍晴明神社のすぐ南にあり、同じ「あべ」の名が冠されています。
最寄り駅は安倍晴明神社と同じく阪堺電車の東天下茶屋駅です。こちらも宅地の中にある小規模な神社です。


東側の入口。

飛び出し小僧がお出迎え。


西側の入口には鳥居があります。



西側からの参道の木々が良い雰囲気。



拝殿。

阿倍王子神社は仁徳天皇による創建、または古代にこの地が本拠地であった阿部一族による創建と言われます。由緒としては5世紀ごろにさかのぼる古い神社のようです。平安時代初期の826年に弘法大師が祈祷をしたとの謂れがあるので、この時期には存在はしていたようです。
熊野街道の途中にある遥拝所、九十九王子の1つであるとされており、正確に阿倍王子神社と呼ばれるようになったのは熊野詣が盛んになった平安時代中期以降のことなのかもしれません。
大阪から泉州・和歌山を経て熊野三山に至る熊野街道は平安・鎌倉時代に栄え、その街道沿いにはこのような王子神社がたくさんあったのだそうです。阿倍王子神社はその九十九王子のうちの2番目に位置する場所なのだとか。


天王寺蕪の碑。

この付近はかつては天王寺村と呼ばれ、蕪で有名だったようです。
江戸時代初期にこの地で蕪が生産されるようになり、蕪が特産物になりました。


もと熊野街道の碑。

神社の鳥居の脇にあった碑です。
元熊野街道ということは、今は熊野街道ではないのかな?


神社付近の道沿いには熊野街道の碑があります。

こちらが本物なのでしょうか 笑。


付近の公園にあった、経塚。

晴明丘公園という名の公園の敷地内にありました。
弘法大師が写経を埋めたと言われる塚ですが、記録によると別の場所から公園に移転されたとのとで、本当にお経が埋められたのはここではないようです。


この公園からさらに東に進むと、以前に大阪市の公園を並べた記事に登場した北畠公園に辿り着きます。



(3)阿部野神社

続いては阿部野神社です。安倍晴明神社、阿倍王子神社に続き、またしても「あべ」。
安倍晴明神社、阿倍王子神社、阿部野神社、すべて読みは「あべ」ですが、漢字の組み合わせはどれも違うので、たいへんややこしいです 笑。ちなみに阿倍野区の駅名では、阿部野橋駅(近鉄)と阿倍野駅(地下鉄)も字が異なります。とにかくややこしいので、統一してくれと言いたくなります 笑。
阿部野神社は上の2つの神社よりはかなり西の方にあり、最寄り駅は阪堺電車の天神ノ森駅です。天神ノ森駅は西成区にある駅ですので、阿部野神社は阿倍野区の西側、ほぼ西成区に近い場所にある神社になります。


鳥居。

西側から階段を上がったところに阿部野神社があります。

この階段がちょうど上町台地の段差に位置し、この階段の上が阿倍野区、階段の下から西側が西成区になります。実はこの阿部野神社、2年前に桜の風景を並べた記事にこの鳥居だけ登場しています。
狛犬の代わりに馬が2匹いるのが面白いです。


敷地内の鳥居。

写真がブレています 笑。
このとき雨が降ってきたので、傘を差しながら撮影しているので、少しボケた写真になっています。


拝殿。

阿部野神社は1882年の創建、明治15年ですので新しい神社です。
後醍醐天皇に仕えた北畠親房・北畠顕家父子を祀る神社で、例によって人間の神様です。明治以降、国家主義の流れの中で、後醍醐天皇や楠木正成など南朝方の人物が愛国のヒーローと化して行きますが、そんな中で創建されたのがこの阿部野神社です。


北畠顕家の像。

北畠父子のうち、とくに顕家は若くして戦死しましたので、その後人気の人となりました。右下には「花将軍 北畠顕家」という、顕家の歌も飾られています。
楠木正成らの戦死と合わせて、主君(後醍醐天皇)のため、忠義のために戦って死ぬことは潔く美しいものとされ、このことは後に戦争による死を美化するロジックの後ろ盾となります。

南朝方の楠木氏や北畠氏らの物語は国語の教科書にも採用され、とくに若年の顕家は理想的な若者として物語化されていきます。逆に北朝方の足利尊氏は逆賊とされ、後に尊氏を評価する文章を書いた国会議員が罷免させられる事件も起きています。
歴史のヒーローを求める心性は理解できますが、それが搾取や排撃の材料となることは、褒められたことではありません。


手洗い場にいた獅子?

表情が気に入りました。


阿部野高等女学校校歌。

他にも幼稚園の園歌なども表示されていました。
上の顕家の歌といい、歌が好きな?神社なのかもしれません。
3番の歌詞、「茅渟の浦波 生駒の嵐」が大阪の地形を表していますが、茅渟(和泉国)の海はどちらかと言えば穏やかな海で、生駒山も強風が降りてくるような山でもないと思います 笑。他府県に比べると大阪の気候はどちらかと言えば平穏です。


征露戦役記念碑。

神社お馴染みの戦争の碑。揮毫は東郷平八郎。
日露戦争の碑で、字を見る限り戦没者を祀るというよりも戦勝を記念するという意味の方が強いのかも。



(4)大依羅神社

最後は住吉区の大依羅(おおよさみ)神社です。
最寄り駅は地下鉄あびこ駅、阪南高校の裏側にあり、少し南行にけばもう大和川で、松原市にも近い神社になります。


鳥居。

この日は風が強くて寒い日でした。頃は12月、今とは真逆の冬の空。


敷地内の様子。



拝殿。


大依羅神社の創建は神功皇后の頃とも言われ、住吉にほど近い古くからある土地にある神社ですので、謂れも古いです。由緒としては4世紀ごろにさかのぼる神社で、真偽は別として謂れは古い。少なくとも8世紀ごろには記録に見られる神社です。
仲哀天皇の熊襲討伐に参戦したと言われる古代の豪族、依羅氏に関係の深い神社で、依羅氏が代々神官を務める神社でしたが、依羅氏は中世で断絶。以後社殿も消失しますが、江戸時代の1659年に社殿が再興。第二次大戦の戦災を免れますが1969年に火災で全焼。現在の社殿は1971年に再建されたものです。


巨大な木。

都市部から少し郊外の方に向かうと、大きな木が見られる神社が多くなり、良い雰囲気ですね。


こちらは依網池(よさみいけ)のあと。

依網池は崇神天皇の頃にできた溜池とのことですので、やはり4世紀ごろでしょうか。
古代この依網池は非常に大きく、現在の大阪市住吉区から松原市の方まで広がっていたのだそうです。江戸時代に大和川が付け替えられ、川がちょうどこの池の部分を流れることになったため、現在では依網池は完全に消失してしまっています。
地形は代わりにくいものと思われがちですが、千数百年の歴史を経て、古代と現在では地形はかなり変わっているのが実際のところです。



ということで、大阪市南部の4つの神社のまとめでした。
大阪市内の神社はこれで一旦おしまい。
次の神社仏閣シリーズは大阪市外(大阪府内)の神社をいくつか取り上げようと思っています。