大阪市北部 神社いろいろ (野里住吉神社・香具波志神社・都島神社・関目神社) | れぽれろのブログ

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前回の続きです。今回は大阪市北部の街中にある4つの神社を取り上げたいと思います。
前回は高津宮・難波神社・玉造稲荷神社と、大阪市中央区にある大昔からの古い歴史を伝える神社を取り上げました。今回取り上げる神社は、野里住吉神社(西淀川区)、香具波志神社(淀川区)、都島神社(都島区)、関目神社(城東区)で、古いものでも平安時代中期の創建であり、前回と比べると比較的新しい神社になります。
大阪は水の都、大阪市の西部から北東部にかけては、古代はまだ海もしくは湖に覆われていました。大阪の上町台地(現在の大阪城から四天王寺、阿倍野、帝塚山、住吉大社に至る南北に長い台地)は古い時代から人が住む場所で、そのため古くからの神社が残っており、前回取り上げた3つの神社はいずれもこの台地上の文化に由来する神社でした。
今回取り上げる神社は、古代以降に土砂が堆積して陸地化した土地に作られた神社です。それ故に歴史はやや浅いです。高津宮や玉造稲荷神社のような大きな神社ではなく、いずれも街中にちょこんと鎮座いしている小ぶりの神社になります。

以下、写真と覚書です。ご興味のある方はお読みください。



(1)野里住吉神社

まずは西淀川区の野里住吉神社です。
最寄り駅はJR東西線の御幣島駅、大阪の中心部である梅田のやや南にあるJR北新地駅から電車で数分で辿り着けます。
御幣島駅から南東に歩くと一帯は野里という地名になり、これが旧野里村のあった場所で、この村の中の神社が野里住吉神社です。現在は住宅地になっています。
訪問は今年の3月です。


鳥居。



拝殿。


野里住吉神社の創建は1382年、足利義満による勧請であると言われています。南北朝が統一される10年前、中世真っただ中の時代ですので、前回の記事に登場した神社に比べると時代的には新しいです。
西淀川区一帯は淀川の下流域にあたり、大昔は海でしたが徐々に土砂が堆積し、中世には普通に人が暮らせるようになっていたのだと思われます。
現在は神功皇后が祀られている神社です。阪神間は神功皇后にゆかりのある神社が多いです。


馬の像が印象的。



野里の渡しの石碑。

旧野里村は1910年の淀川河川変更工事までは旧中津川の右岸に位置していた村で、野里住吉神社の石垣は旧中津川の堤防であったとも言われているようです。川のそばにあった神社ですので、この付近に渡しもあったのだろうと思われます。


こちらは乙女塚。

上記の通り野里村は川のそばにあった村で、昔から水害に悩まされており、このために毎年1月20日(旧暦)の夜に、村から選ばれた子女を神社に放置し、生贄として捧げる風習があったのだそうです。
現在でも「野里の一夜官女」という儀式が残っており、毎年2月20日に住民から選ばれた女の子が神前に進み出て、災害消除を祈念する儀式が行われるのだとか(さすがに現在は生贄ではないと思いますが 笑)。
この乙女塚も生贄の儀式に由来するものと思われます。


村忠碑、と読むのかな?

おそらく忠魂碑の一種と思われます。こういった碑は神社にはつきもの。


御大典記念の碑。

おそらく昭和天皇の即位の碑と思われます。


神社の敷地内には倉庫がありました。

だんじりなどが収納されているのかな?



(2)香具波志神社

続いては淀川区の香具波志(かぐわし)神社です。
最寄り駅はJR東西線の加島駅で、上の御幣島駅から1駅です。加島駅から北に歩いたところにあり、神崎川の近くにある神社です。ここは大阪市の北限で、川を渡ると尼崎市になります。
訪問は今年の1月初旬、ちょうど初詣の季節です。


鳥居。



拝殿。

初詣の人でそれなりに賑わっていました。
さすがに都市の中の有名神社のように参拝の列ができるわけではありませんでしたが、ローカルな神社にしてはそれなりに人は多かったのではないかと思います。

香具波志の創建は959年で、平安時代。別名加島稲荷とも言われる神社です。

地名由来の加島稲荷の方が分かりやすいですが、香具波志という当て字のような?神社名を正式としているようです。由来は応神天皇の歌「香ぐはし」からきているようです。
南北朝時代にはこの付近は戦場になり、すぐ北にある神崎川を挟んで南北朝の兵が戦ったのだとか。その際に南朝方の楠木正儀がこの神社に戦勝を祈願したのだそうです。
その後、江戸時代には「雨月物語」などで有名な上田秋成が一時期この神社に住んでいたと言われています。敷地内には上田秋成寓居の碑もあるそうですが、見逃してしまいました 笑。


1月初旬ですが、もう梅が少し咲いていました。

紅梅。



白梅。


紅白梅が両方みられるのは綺麗で良いですね。


遥拝所。

何の遥拝所なのかは不明。

木々に囲まれた雰囲気の良い神社でした。
大阪の北限にあるあまり訪れることのない神社ですが、割とお気に入りの神社になりました。


淀川区のゆるキャラ、夢ちゃん。

大阪各区のゆるキャラはだいたい区の名前や花の名前が由来になっていますが、夢ちゃんは関係ないネーミングなので覚えにくいです 笑。



(3)都島神社

続いては都島神社、その名の通り都島区にある神社です。
最寄り駅は地下鉄谷町線の都島駅、駅から歩いてすぐ西側にある訪れやすい神社です。
訪問は今年の1月です。


鳥居。



拝殿。


都島神社の創建は平安時代後期、1160年説と1168年説があるようで、淀川の洪水防止のために後白河天皇の勅願で作られた神社と言われます。大阪市北部の神社は治水との関わりが深いです。
15の神様を祀るため、かつては十五神社と言われていたのだそうです。現在の都島神社という名称に改称されたのは、戦時中の1943年のこと。
言い伝えによると、この神社の付近は大昔は榎の木が繁茂しており、その中には鬼女が住んでいたのだそうです。怪しげな言い伝えの残る神社です 笑。


こちらは石造りの三重塔。

笠部を三層に重ねるこのような形は珍しいのだそうです。1304年、鎌倉時代の石塔で、大阪市内では最古の石造りの遺物です。敷地内にサラッと設置されていますが、かなり貴重な石塔です。


こっちの石の方が厳重にお祭りされています。



八紘一宇の碑。

戦中の碑と思われます。こういったものがとくに何の解説もなく敷地内に残されているのが、日本の神社の面白いところでもあり、歴史に対する構えがゆるいところでもあるように感じます。



(4)関目神社

最後は城東区の関目(せきめ)神社です。
最寄り駅は地下鉄谷町線の関目高殿駅ですが、今里筋線の関目成育駅、京阪の関目駅からでも徒歩圏内です。上の都島神社と同じく、都市の中の小規模な神社になります。
訪問は今年の3月です。


鳥居。



拝殿。


関目神社の創建は不明ですが、一説によると豊臣秀吉が大阪城築城の際に、大阪城の鬼門の方向にあたる東北の地にこの神社を創建したとも言われています。


関目発祥の地。

この神社周辺は古くは榎並荘と言われ(都島神社に続きまた榎です)、摂関家の所領があった場所でした。その所領の見張所(目で見張る関所)があったことから関目と言われるのだそうです。
秀吉の時代以降、関所の見張りは大阪城の防備としての役目に変わっていきます。


ヤマタノオロチとスサノオのイラスト。

関目神社は別名須佐之男尊神社とも言われるのだそうです。スサノオが祭神であるため、このようなイラストが描かれています。
なかなか可愛いイラストで、オロチもユーモラスな表情 笑。オロチが柵の向こうにいてるのも妙な感じです 笑。いい感じのイラストです。
ちなみに看板の右下にいるのは城東区のゆるキャラ、コスモちゃんです。コスモスの花が由来です。


明治天皇御駐輦之跡。

明治天皇は近代最初の天皇として日本各地への行幸を行った天皇で、各地に明治天皇の碑が残っています。しかし大阪は明治天皇が畿内から出て行った場所でもあるため、行幸の碑ではなく明治天皇の出発に関わる碑もたくさんあります。
明治天皇は京都を去り、京街道から大阪に入り、大阪湾から船で東京に向けて出て行ったと言われています。以前に天保山にある巨大な明治天皇の碑(明治天皇が船で出発した場所の碑)を取り上げたことがありましたが、ちょうど京街道にある関目のこの明治天皇の碑も、やはり畿内からの出発に関わる碑です。
この碑が作られたのは1913年(大正2年)で、おそらくは明治天皇の崩御がきっかけで、その翌年に作られたものと思われます。



以上、大阪市北部の都市の中の神社を4つ並べてみました。
いずれも小さな神社でしたが、それぞれの歴史的な由来も面白く、興味深い神社でした。街中の小ぶりな神社も歴史を知る上では重要です。
次回は大阪市南部、阿倍野区から住吉区にかけての4つの神社を並べてみたいと思います。