大阪市中央区 神社いろいろ (高津宮・難波神社・玉造稲荷神社) | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

神社仏閣探訪シリーズ。
以前に大阪市内の神社を訪れる記事を書いたことがありますが、神社は無数にあるので、まだまだ大阪の知らない神社はたくさんあります。
自分は昨年の年末から今年の3月ごろにかけて、割と時間に余裕がありましたので、大阪のあちこちの神社を訪れてきました。今回はそのまとめの第1回。大阪市中央区の3つの神社を取り上げ、まとめておきたいと思います。
大阪市中央区はその名の通り大阪市の真ん中にあり、大阪城、船場、島之内など、昔ながらの豊かな大阪文化を育んだ地でもあります。以前に記事化した御霊神社、坐摩神社、少彦名神社などもこの中央区にある神社で、とくに坐摩神社、少彦名神社は、商業都市である船場の商売繁盛とも深く関わりのある神社でした。
今回はこれらの神社よりも古い来歴がある(とされている)中央区の神社を取り上げたいと思います。ご興味のある方はお読みください。(以下の写真はすべて今年の1月のものです。)



(1)高津宮

まずは高津宮(こうつぐう)を取り上げます。
高津宮は中央区の南側、大阪メトロの谷町九丁目駅のやや北側にある神社です。ちょうど上町台地の段差の上に部分にある神社で、かつてはこの神社から船場地域を一望できたと言われています。


鳥居の様子。



参道。



拝殿。


高津宮の創建は不明。仁徳天皇と関わりのある神社とのことで、5世紀ごろからの伝統があるとも言われますが、実際のところはよく分かりません。かつては大阪城の南側にあったと言われますが、16世紀末の秀吉による大阪城の築城の際に、大阪城の南側一体付近から現在の位置に移設されたと言われています。
仁徳天皇が祀られている神社で、古代の仁徳天皇の時代の都、高津宮(たかつのみや)の跡地と勘違いされがちですが、都の跡地とは関係はないそうです。高津宮(たかつのみや)の跡地は諸説ありますが、この地ではないとのこと。高津宮(こうつぐう)は高津宮(たかつのみや)由来のネーミングと思われますが、紛らわしいです 笑。
かつての社殿は第二次大戦で焼失、現在の社殿は1961年に復旧されたものです。


こちらが展望台?

拝殿のすぐ西側にあるスペースです。
高津宮は上町台地を上がってすぐのところにありますので、かつては大阪一の眺望と言われ、1950年代ごろまでは晴れた日は大阪市内、大阪湾、六甲山まで眺望できたと言われます。
現在はビルが大きくなり、眺望は期待できません。


現在の眺望。

残念なことになっています 笑。


仁徳天皇の時代の眺望のイラストが飾られていました。

かつてはこんな感じで良い風景が見られたのだのイメージ画像。ただ、この神社からの眺望が有名だったのは江戸時代のことであり、また仁徳天皇の都はこの場所ではないので、このイラストはこの地に飾ると若干のフェイク感を感じます 笑。仁徳天皇は民のかまどから上がってくる煙の様子を見て政治を行ったと言われますので、その様子を元にしているのかもしれません。
仁徳天皇がいたとされる時代の大阪は、上町台地より低い部分はまだほとんど海でしたので、やはりこのイラストは別の場所を描いたと解釈する方が妥当です。


こちらが神社の最も西側、上町台地の段差です。

この西側の坂は通称「縁切り坂」とも言われるのだとか。江戸時代はこの坂の形状が三下り半になっており、昔の離縁状の形式と同じであるため、このようなネーミングになったようです。

悪縁を立つためにこの坂を下る人もいたのだそうです。(現在は坂の形状は変わっています。)


北野恒富の碑がありました。

北野恒富は昔の日本画家で、大正時代に当時の大阪の日本画壇に深くかかわった人です。上村松園風の(?)美人画などで有名な方で、大阪市立美術館所蔵の「星(夕空)」などが有名かと思います。
これは北野恒富の13回忌の際(1959年)に建立された碑。


こちらは木谷蓬吟・木谷千草の碑。

蓬吟は文楽で、千草は日本画で有名な方のようです。共に大阪の文化に関わった人。


5代目桂文枝の碑。

落語家で、現在の6代目桂文枝(旧桂三枝)の前代に当たる方の碑。建立者には桂三枝、桂きん枝、桂文珍、桂小枝などの有名な人たちも名を連ねています。
なお、高津宮は上方落語「高津の富」で登場する神社としても有名です。この落語の富くじ(昔の宝くじ)の当選発表シーンがこの高津宮で、番号の発表を待つ群衆の様子や、高額当選者の振舞が笑える落語になっています。(ちなみに江戸落語版では高津宮ではなく湯島天神として演じられます。)


上皇陛下の御製。

紙で貼り出されていました。平和を願う歌です。
この「波」は明治天皇の御製「など波風のたちさわぐらむ」の波を思い出させます。御製の波はだいたい悪い意味。

右側の「言霊」の説明も、良くも悪くも日本らしいです。


恒例の招魂碑。

高津宮の裏にある公園の中にありました。明治百年を記念した碑とのことですので、1968年頃の碑と思われます。
この公園は梅の木がたくさんありましたが、1月の訪問なので梅の花はまだ開花前、もう少し後だと綺麗な梅とセットで撮影できたと思われます。

以上、高津宮でした。
地下鉄谷町九丁目駅と言えばそのすぐ南の生国魂神社が有名ですが、北にある高津宮も意外と様々な碑などがあり、面白いスポットです。



(2)難波神社

続いては難波(なんば)神社です。
中央区の西側、先ほどの高津宮とは違い上町台地より下側にある神社です。先ほどの高津宮に比べると敷地は狭く、大都市部のビル群の中にある神社になります。

御堂筋沿いにある神社で、最寄り駅は大阪メトロの本町駅または心斎橋駅です。難波神社との名前ですが、難波駅からはやや遠いです。


鳥居。



拝殿。

背後にビル群が見えます。景観的にはいまひとつ?

難波神社は一説によると、415年に反正天皇(仁徳天皇の息子)が河内国に遷都した際に、現在の松原市にて創建されたと言われていますが、やはり古い時代のことですのでよく分かりません。943年に大江の坂平野郷(現在の天王寺区、大江神社のある付近か?)に移されたと言われるので、このころにはしっかりと存在していた神社のようです。
例によって大阪城築城の際、1583年に現在の位置に移されたとのことで、高津宮と来歴は似ています。元々上町台地上の旧難波宮周辺には神社がいくつかあり、16世紀末の豊臣秀吉による大阪大改造の際に、秀吉の都市計画により神社があちこちに移転されたという歴史があります。難波神社もそんな神社の中の1つと思われます。


文楽座跡。

江戸時代当時はここで文楽も興行されていたようです。


算額の顕彰碑。

難波神社は船場の中にありますので、かつての大阪の商業の中心地にあった神社です。商業と数学はかかわりが深く、江戸時代当時の人たちの中には数学の問題を出題し合い、それを解きあったあとで神仏に感謝するなど、数学に親しんでいたのそうです。


巨大なクスノキ。

大都市のど真ん中に、意外と大きなクスノキが残っています。なかなか雰囲気の良い木でした。



(3)玉造稲荷神社

最後は玉造(たまつくり)稲荷神社です。
こちらは中央区の東側、上町台地を上がったさらに東へ向かった先、大阪城の南側にある神社です。最寄り駅は大阪メトロまたはJRの玉造駅です。大阪城の南側なので、森ノ宮駅からでも近いです。


鳥居。

階段を上がった少し小高い部分にあります。


玉造稲荷神社の表示。

なぜか「玉造」の部分が後から修繕されています。何か問題があったのかな?


拝殿。

玉造稲荷神社の創建は垂仁天皇の時代と言われますので、仁徳天皇や反正天皇よりも古いと言われているようです。そのまま計算すると4世紀ごろにさかのぼるようですが、実際のところは不明で、とにかく古いということです 笑。
上の高津宮や難波神社は大阪城から離れた場所に移築されましたが、玉造稲荷神社は大掛かりな移設はなし。豊臣家からの崇敬が厚く、とくに豊臣秀頼との関わりが深い神社で、それ故に現在も大阪城の南側に残っているのかもしれません。
社殿は大坂の陣で焼失しますが、1631年に復興しています。


豊臣秀頼の像。

豊臣家の時代、この玉造の地は多くの武将が屋敷を構えていた場所で、前田利家をはじめ、宇喜多秀家、細川忠興、島津家久、浅野長政などの武士の名が見えます。茶の湯で有名な千利休も玉造に屋敷があったのだとか。
秀吉の息子である秀頼もこの地とかかわりが深く、この神社には母淀君と秀頼の胞衣も祀られているとのことです。秀頼は各地の神社仏閣を再興するなど、意外と社寺とのかかわりも深い人物です。


こちらは江戸時代初期から残る石鳥居。

1603年の石鳥居です。戦災でも倒壊を免れましたが、1995年の阪神大震災で基礎がダメージを受け、
現在はこのように埋め込むような形で保存されています。


胞衣塚大明神。

「豊臣秀頼公と淀殿を結ぶ胎盤、卵膜などが鎮まっています」とのことです。豊国神社など、人間が神なるのは当時からありますが、胎盤や卵膜が神になるというのは珍しい…?


こちらは利久井。

千利休に関わりのある井戸です。この水でお茶をたてたのかな?
玉造近辺は「玉造清水」と言われ、良質の水脈があったのだそうです。


伊勢参宮本街道の旅。

玉造は昔の大阪の都市部である船場の東にあり、お伊勢参りの最初の通過点でもありました。お伊勢参りの落語「東の旅」でも「大阪離れて早玉造」という言い回しが登場します。


三笠宮殿下参拝の記念樹。

三笠宮は昭和天皇の弟です。多くの神社では皇室との関わりが強調されています。


こちらは玉造黒門の碑。

玉造黒門瓜という品種があり、一般に「くろもん」と言われていたのだそうです。これはその瓜を記念した碑と思われます。


ゆるキャラ、くろもんちゃん。



こちらは玉造稲荷神社の分社にあった、浪花講発祥の地の碑。

先ほどまでの写真が本社で、分社はやや南側の長堀通り沿いにあります。
浪花講は宿屋の組合で、お伊勢参りが盛んであった江戸時代に、ぼったくりの宿ではない、安全安心な宿を提供する組合として組織されたとのことです。浪花講の看板のある宿なら安心して宿泊できたのだとか。当時からぼったくり店舗は存在していたのですね。



以上、大阪市中央区の3つの神社のご紹介でした。
次回の神社仏閣シリーズは大阪市の北側、西淀川区から城東区あたりにかけての神社を並べてみようと予定しています。