Viva Video! 久保田成子展 (国立国際美術館) | れぽれろのブログ

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7月17日の土曜日、「Viva Video! 久保田成子展」と題された展示を鑑賞しに、国立国際美術館に行ってきました。
本展は60年代から90年代にかけて活躍した現代美術家、久保田成子についての展示で、彼女の作品に加え、関連する書籍や映像なども合わせて展示されており、彼女の美術家としての足跡・人生を辿ることのできる面白い展示になっていました。
国立国際美術館は以前から、工藤哲巳、高松次郎、THE PLAYなど20世紀後半に活躍した現代美術家の作品を振り返り、その仕事を美術史の中に位置付けるという展示を継続的に行ってきています。今回の久保田成子展もその延長上にあるような試みで、これぞ国立国際美術館の仕事という展示、たいへん興味深く鑑賞しました。


久保田成子は1937年の新潟生まれ。東京教育大学を卒業したあと美術製作に関わり、60年代前半には当時の前衛芸術集団であったハイレッドセンターにも関わっています。
その後1964年に渡米、「ヴァギナ・ペインティング」などの過激なパフォーマンスを行うと同時に、フルクサスの活動にも参加し、塩見允枝子の「スペイシャル・ポエム」(過去に国立国際美術館でも再現イベントが開催されていた)にも関わっています。この前後に韓国の有名美術家ナム・ジュン・パイクに出会い、彼の生涯の伴侶となります。
70年代前半よりビデオに関心を持つようになり、アメリカ先住民であるナバホ族を取材した映像や、帰国した際の家族の様子の映像などが残されています。
やがて映像と三次元作品を組み合わせる「ヴィデオ彫刻」の手法を開発し、この展示手法がこの後の彼女の生涯の仕事となります。マルセル・デュシャンとジョン・ケージに出会った後、デュシャンの作品をモティーフにした作品を制作し始めるのもこのころです。

その後70年代から80年代にかけて積極的に「ヴィデオ彫刻」作品を次々と制作していきます。
自転車の車輪にディスプレイを組み込み、映像を流しながら車輪を回転させる作品。山をイメージさせる大きな隆起にディスプレイを組み込み、映像を流す作品。ディスプレイを下向きに吊るし、川に見立てた水面に映像を照射させる作品。複数のディスプレイの前方に滝のように水を流し、水ごしに映像を鑑賞する作品。スケーターを模した人型の彫像の顔の部分にディスプレイを組み込み、映像を流しながらその彫像と床を回転させる作品。
ディスプレイを三次元の構造物に組み込んだインスタレーション作品が多く制作されており、これらの作品の展示が本展のメインで、様々な「ヴィデオ彫刻」の試みを鑑賞することができます。
やがて90年代半ばに伴侶であるナム・ジュン・パイクが脳梗塞で倒れ、これをきっかけに彼女は介護に関わることになります(介護の様子も映像として記録され展示されていました)。やがてパイクが亡くなり、彼女自身も2015年にニューヨークで亡くなってます。


個人的に面白かったのはマルセル・デュシャンの作品をモティーフにした「デュシャン・ピアナ」のシリーズです。
「ヴィデオ・チェス」は、チェス好きであったデュシャンが現代音楽家のジョン・ケージとチェスで対戦している様子を映像化し、卓上テーブル状の構造物に組み込んだ作品。「階段を降りる裸体」は、デュシャンの同名の絵画作品を元に三次元で階段を制作し、その階段の段差の部分にディスプレイを組み込み、ゲルハルト・リヒターの「エマ」を思わせる階段を降りる女性の映像を流す作品。「自転車の車輪」は、デュシャンの同名のレディ・メイド作品を再現し、その車輪にディスプレイを組み込み、映像を流しながら車輪を回転させる作品。
これらはいずれも20世紀前半に活躍したダダイズムの作家であるデュシャンの作品を再構築し、映像の要素を加えた作品です。デュシャンのダダイズムはそもそも既存芸術を否定するような大胆なものでしたが、これらの再現作品はそのデュシャンの作品を既存芸術と捉え、再加工することにより、再度芸術の方に引き戻しているようにも読み取れるような、面白い作品になっていました。

その他、60年代から70年代当時の美術家たちの関わりが見て取れる、関連作品や資料の展示も面白かったです。
三木富雄、高松次郎、篠原有司男、小野洋子(オノ・ヨーコ)などの有名美術家が資料中に登場。とくに面白かったのがハイレッド・センターに関わる展示で、城之内元晴の「シェルター・プラン」という映像作品は、核シェルターに入るために(?)人々が体を採寸されたり撮影されたり体を洗ったりする作品ですが、ここには久保田成子を含む様々な美術家が登場しており、映像中には横尾忠則や塩見允枝子らの名前も登場します。当時の美術家たちの関わりの一端を確認することができ、たいへん貴重で面白い映像です。(しかし残念ながら映像中の人物がそれぞれ誰が誰なのかはよく分かりませんでした。ここは少し解説が欲しいところです。)
その他、国立国際美術館所蔵のナム・ジュン・パイクによる「鳥籠の中のケージ」も合わせて展示。何度も見た作品ですが、この展示の文脈で見るとパイクの作品と久保田成子の作品は類似点が多く、またケージが映像中に登場するのも当時のアメリカの芸術家たちの関わりの中での出来事であったことが分かり、面白く鑑賞しました。


本展で考えたのが、映像とインスタレーションの組み合わせの問題、映像の加工の問題、及び偶然性と作家の主観の問題です。
映像作品は、単純にリニアな時間の記録として撮影された場合、多くは社会や世界の様子と偶然性が面白く確認できる作品になります。しかし本展の「ヴィデオ彫刻」のように、インスタレーションとして映像を再構築した場合は、映像は単純にインスタレーションの素材となり、映像の持つ偶然性よりも三次元作品としての作家の主観が優位になります。また、映像を加工し映像自体を再解釈するような試みを行うと、映像の持つ客観性や偶然性は薄れ、やはり作家の主観が優位になります。
もちろんどんな映像であれ撮影者の主観が一定程度入り込むものであり、またあらゆる映像は撮影後の編集を伴い、この編集の際に編集者の主観が否応なく入り込むものです。しかしそれをさらにインスタレーション的に加工・再構築すると、映像本来の持つ客観性は薄れ加工者の個性と主観が優位になっていきます。

映像そのものが持つ偶然性と客観性、映像を加工し素材とすることの個性と主観性。前者は社会や世界を志向し、後者は個人の内面を志向します。本展であればナバホの映像や家族の映像では前者が、「ヴィデオ彫刻」シリーズでは後者が立ち現れてきます。
久保田成子の新しさと面白さは後者の方にあります。しかしこれは映像の持つ本来の力とは反比例します。偶然性と客観性、個性と主観性、どちらを面白いと感じるかは個人の好みにもよりますが、現代美術に何を期待するかと考えた場合、自分は後者の要素が強い作品より、前者の要素が強い作品の方が好みです。
本展の「ヴィデオ彫刻」はたいへん面白いですが、ナバホが羊を解体する映像の強度を越えることはなかなか難しいのではないか。現代美術というカテゴリで考えた場合、個性や主観性から脱出することが難しいインスタレーション作品は、偶然性と客観性ををそのまま提示するシンプルな写真や映像作品に勝つことは難しいのではないか。
自分は絵画や彫刻も好きで、色彩や形態を再構築しようとする人間の試みもたいへん好みです。しかし写真や映像の時代を経た20世紀後半の前衛を考えた場合、絵画や彫刻を越えようとする人間の様々な試みが、果たしてシンプルな写真や映像にどこまで対抗できたのか…。そんなことを展示を見ながら考えたりもしました。


などという小難しいことは抜きにして、20世紀後半に世界で活躍した、あまり一般には多くを知られていない久保田成子という作家を知るための展示として、本展はたいへん面白い展示だと思いますので、現代美術にご興味のある方はぜひ国立国際美術館に足を運んでいただきたいと思います。


久保田成子展と合わせて、「鷹野隆大 毎日写真1999-2021」と題された展示も同時に開催されていましたので、鑑賞してきました。
鷹野さんは写真家で、男性の裸体写真をそのまま展示するセンセーショナルな作品で物議を醸したこともある作家さん。一般に写真は客観性が強いなどと上に書きましたが、本展を鑑賞すると同じ作家の写真でも、客観的なものから主観が強いものまで、様々な振れ幅があることに気付かされ、面白いです。
作家のセクシュアリティを全面に押し出した作品もありましたが、個人的には東京の都市を撮影した写真や、東京タワーを同じ位置から定点観測し続けた写真の数々(20年に渡り撮影している!)がたいへん面白かったです。写真好きの方にはこちらの展示も合わせてお勧めしたいです。