奈良県・京都府 近代の神社 -橿原神宮・京都霊山護国神社- | れぽれろのブログ

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神社仏閣探訪シリーズ。
近畿圏には古くからの神社やお寺が多く、当ブログでも古い社寺を中心に巡ることが多いです。
そんな中、今回は明治以降にできた新しい神社を2つ取り上げたいと思います。

近代の新しい神社といえば、東京の明治神宮(明治天皇を祀る)、靖国神社(戦没者を祀る)、乃木神社(乃木希典を祀る)、東郷神社(東郷平八郎を祀る)などが有名かと思います。
明治から昭和戦前期までは国家神道の時代、国家のために尽くした人たちが神社に祀られ、「人間の神」が急増する時代です。この新たな神々(その多くは戦没者)を祀るために、東京だけでなく各地に様々な神社が作られました。これは古都奈良・京都も例外ではなく、京都の有名な平安神宮(孝明天皇を祀る)などもこういった神社のうちの1つです。

今回は橿原神宮(神武天皇を祀る)と京都霊山護国神社(幕末の志士と戦没者を祀る)の2か所を訪れてきましたので、写真とともに記事化しておきたいと思います。




(1)橿原神宮

まずは奈良県の橿原神宮です。
所在地は奈良県橿原市、最寄り駅は近鉄橿原神宮前駅。大阪からなら近鉄南大阪線、または近鉄大阪線と橿原線を乗り継いで訪れることができます。京都からなら近鉄京都線を使うことになります。
奈良県は近鉄王国、JRよりも近鉄が格段に便利です。

訪問は今年の2月です。少し前の冬の写真になります。


橿原神宮前駅を降り、西に少し歩くと巨大な鳥居が見えてきます。



入口に掲げられた「定」。

宮内庁の看板によくあるパターンの記述です。一般の神社にはない物々しさを感じます。


参道の様子。

かなり巨大な道幅です。靖国神社や平安神宮の大きさに近いです。
近畿圏の古くからの神社仏閣は狭い場所にせせこましく存在している場合が多いですが、橿原神宮は明らかに近世以前の神社仏閣とは異質な規模で、国家による神社という雰囲気が漂ってきます。
今年の2月初旬の写真ですが、見ての通りこの日は訪れる人はほとんどなく、のんびり散策することができました。


入口。



紀元祭の表示。

今年(2021年)は換算すると皇紀2681年ということになるという設定があります。皇紀は神武天皇が即位したとされる年を元年とした暦です。もちろん神武天皇は伝説上の人物ですので、皇紀も近代日本による創作です。
2月11日は神武天皇が即位したと言われる日で、現在は建国記念日となっていますが、元々は紀元節と呼ばれ神武天皇の即位(=日本の始まり)を祝う日でした。橿原神宮は現在でも2月11日に紀元祭が行われ、この日は右派団体なども押しかけて盛り上がりを見せるのだとか。


橿原神宮は1890年(明治23年)の創建。祭神は神武天皇ということになっています。
明治は1868年に始まりますが、最初の約20年は士族の反乱あり、極端な欧化主義あり、自由民権運動ありの混乱の時代でした。
1890年前後にようやく近代国家としての素地が固まり、このころに国会の開設、内閣制度の開始、市町村制の開始、憲法の発布、皇室典範の制定、教育勅語の発布と、諸々の制度が完成しました。
その諸制度のバックボーンとして近代天皇制が最大限利用され、「天皇を中心とする日本」という形が出来上がったのがこのころ。神武天皇を祀る橿原神宮が創建されたのはちょうどこのような時代でした。


拝殿。

ガラガラでした 笑。のんびりお参りすることができました。
拝殿の規模も大きく、人のサイズで大きさのスケール感がお分かりかと思います。橿原神宮は皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に改築・整備されており、現在の橿原神宮はこのころの様子が残っているということのようです。社殿も1940年に改築とあります。


こちらが畝傍山(うねびやま)。

この山のふもとに神武天皇の陵墓があり、その近辺に橿原神宮ができたという形になります。


拝殿と畝傍山の様子。



皇后陛下御製。

平成当時の皇后(美智子皇后)が橿原神宮を訪れた際に読んだ歌のようです。


敷地内の池の様子。



カモがたくさんいました。

色とりどりのカモたち。


カモのアップ。




さて、橿原神宮の北には神武天皇陵があります。最寄り駅は畝傍御陵前駅ですが、橿原神宮から歩いてもそんなに遠くはありません。

橿原神宮から幹線道路沿いに北へ。



こちらが入口。



畝傍山のふもと、森の中の参道を歩きます。



こちらが神武天皇陵。

陵の前で子供たちが凧揚げをして遊んでいました。ほのぼのとして良い雰囲気です。おばあさんと子供が遊びに来ているようです。
しかし、数分後に警備員から「凧揚げするな」と怒られていました。ちょうどよい広場なのに、世知辛い感が漂ってきます。


おばあさんと子供たちが去った後の陵の様子。

何やら物悲しい…笑。

ということで、橿原神宮と神武天皇陵でした。人も少なくのんびり散策できました。
神武天皇陵の森はなかなか心地よく、個人的にお気に入り度は高かったです。


橿原考古学研究所のゆるキャラ、イワミン。





(2)京都霊山護国神社

続いては京都、霊山護国神社です、霊山は「りょうぜん」と読みます。
最寄り駅は京阪祇園四条駅、もしくは阪急河原町駅ということになりますが、駅からは少し遠いです。バスを利用するとある程度距離をショートカットできます。
霊山護国神社は鴨川を越えた京都盆地の東の端にあり、山に向かって維新の志士や戦没者たちのお墓が広がっている神社です。なので、それなりの距離の上り坂を歩くことになります。

訪問は7月10日の土曜日です。



鳥居。

これを越えてもさらに上り坂は続く…。


巨大な観音様が見えてきます。

霊山観音と言われるのだそうです。これも明らかに近代のスケールです。


「此の上に勤皇志士の墳墓あり」


道中に木戸孝允、坂本龍馬、天誅組などのお墓の案内があります。大正時代にできた案内表示で、昔から龍馬らの墓を訪れる人が多かったのだと思われます。


入口の表示。



こちらが拝殿。

近代の神社ですが、橿原神宮などに比べるとずっと規模は小さいです。
人はほとんどいなくてガラガラでした。京都はたくさんの観光客が訪れる場所ですが、コロナ以降は観光客は激減。それでも観光地によってはそれなりに人はいましたが、霊山護国神社はほぼ誰もいませんでした。


霊山護国神社は元々は京都の招魂社でした。招魂社は明治維新・王政復古のために尽力した人たちを祀る神社で、京都の招魂社は1868年(明治元年)にできた日本で最も古い招魂社です。(ちなみに東京の招魂社は1869年で京都より後、東京招魂社は後に靖国神社となります。)
多くの招魂社は後の時代の日清戦争・日露戦争の戦没者を次々に合祀、1939年(昭和14年)に各地の招魂社は護国神社と名を変えます。
護国神社は戦後には第二次大戦の戦没者も祀られるようになり、霊山護国神社も同じく現在では第二次大戦の戦没者の碑の方が多いです。しかし霊山護国神社の場合、幕末の動乱の中心地であった京都という土地柄もあって、維新の志士のお墓がかなりたくさん残っているのが特徴的です。


維新の志士のお墓は有料ゾーンにあります。

古めかしい改札機があり、300円を入れるとガチャンと仕切りが開きます。これは改札の内側から撮影した写真。
なお、出口はこの一番右側の通路で、仕切りはなく、人も少ないので出口からなら見られずにスルッと入場できそうですが、そんなことはせずちゃんと300円を払って入場しましょう 笑。

有料ゾーンは山に沿って志士や戦没者のお墓や碑が続いている場所です。おおむね山の高い部分に維新の志士の碑が、低い部分の先の大戦の戦没者の碑が残っています。
なので、歴史好きの方が有名な志士のお墓を見ようとすると、かなり上まで上る必要があります。


こちらは坂本龍馬&中岡慎太郎の墓。

左が坂本龍馬、右が中岡慎太郎。龍馬&慎太郎のお墓のところでは唯一他の参拝者の方がおられました。やはり龍馬は人気ですね。

 

なお、お墓は無数にあるので、表示もありますが小さい場合も多く、どれが有名な志士の墓かは一瞬迷います。見分け方はお賽銭箱です。有名な志士の場合は必ず前に賽銭箱が設けられていますので、それで見分けることができます。


龍馬&慎太郎の像。



こちらは木戸孝允の墓。

木戸孝允のお墓は一番高い場所にあります。やはり維新で最も重要な元勲だからでしょうか。訪れるのはそれなりにたいへんでした。


こちらは大村益次郎の墓。

「大邨」の表記になっているので一瞬分かりにくいです。
大村益次郎は日本近代陸軍の創始者で、京都で暴漢に襲われた後で大阪の病院に搬送され、大阪で亡くなっています。なので大村益次郎の碑は大阪の谷町4丁目から少し東に坂を上がったところにもあります。(1940年当時の軍人や文化人が多数賛同人に名を連ねる面白い碑で、当ブログでも以前に大阪の記念碑を並べた回で取り上げました。)
ちなみに大村益次郎の像は東京の靖国神社にもあります。


志士のお墓はかなり高いところにあるので、いい風景が撮れます。



さて、山の下の方に向かうと、徐々に新しい時代の人たちの碑が増えてきます。

こちらは乃木希典(日露戦争時の陸軍軍人)と関わりのある慰霊碑。



満州開拓青年義勇隊の碑。



海軍の駆逐艦に関わる碑。

レイテ戦(1944年)のゆかりの碑のようです。


歩兵第109連隊の解説。

日中戦争時の連隊の歩みについて、地図付きで細かく説明されています。


こちらはパール判事の碑。

パール判事は東京裁判のインド代表の判事で、連合国の中で唯一日本の戦犯に対して全員無罪を主張した判事であると言われています。以降、日本ではパール判事は人気の人、多くの戦後施設などで言及される人物ですが、この霊山護国神社の碑が最も有名かもしれません。
1997年に完成した碑で、ちょうど「新しい歴史教科書をつくる会」などの保守潮流が世間をにぎわせた時期と重なっています。このパール判事の碑は設置位置にもこだわりがあり、拝観のルート上、出口付近でこのパール判事像は必ず見ることになります。


パール判事の勧告文も、元軍人の瀬島龍三により刻まれています。



パール碑の近くにいたトカゲ。



以上が有料ゾーンになります。

神社拝殿付近の無料スペースにも碑はたくさんあります。以下、無料ゾーンの碑からいくつかをピックアップします。

戦没者慰霊碑の数々。


 

デザインが面白い碑も登場します。
戦闘機の操縦者の碑。

揮毫は佐藤栄作首相です。


騎兵連隊の碑は馬がデザイン。



特攻の碑。



忠魂碑と千羽鶴。

こちらの忠魂碑は谷垣貞一元自民党総裁による碑です。谷垣氏は京都府北部が地盤の政治家ですので、京都の神社にも関わっているものと思われます。


自販機で売られていたゆずサイダー。

龍馬&慎太郎がデザインされています。(飲みませんでしたが 笑。)


ということで、京都霊山護国神社でした。

日本は敗戦国であるため、国家による表だった戦没者の慰霊が難しい時代が長く、それ故に旧国家施設であった神社(戦後に「民営化」された)が慰霊碑などの形で、戦没者の慰霊に積極的に関わってきた時代が長かったのだと思います。なのでこういった神社及び施設は、戦後を生きた人々の感情にとって大切なものだったのだと思われます。
現在からみると違和感を感じるような碑も少なくはないですが、近世以前の歴史的建造物などと同様、こういった碑を今後も歴史資料として残していくこともまた大切なことです。その際には碑を単に野放しにするのではなく、時代背景などの適切な解説が付与されることもまた重要なことなのかもしれません。



以上、奈良・京都の近代の2つの神社でした。