百人一首 歌人から考える中世以前の名前の表記 | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

以前に百人一首の中の好きな歌を選んで、あれこれまとめた記事を書いたことがありました。(→ [百人一首 -マイベスト8首と思い出など-]
今回も百人一首を取り上げます。今回は百人の歌人の名前について考えてみだいと思います。

百人一首の歌人の名前は、「紀貫之」のように氏名・姓名で表記される歌人もいれば、「中納言家持」のように役職付きで表記される人、「河原左大臣」のように氏名・姓名とは別の通称で表記される人、「右大将道綱母」のように血縁関係で表記される人、など様々です。
「貞信公」って誰?、「相模」って何者?、など、名前の表記を見ていると様々な疑問が湧いてきます。

あれこれ調べて見ると、歌人の名前はかなり法則性があることが分かります。
歌人の名前表記の傾向を列挙してみると…
 ・位が非常に高い人物は氏名・姓名では表記されない
 ・ある程度高い役職にある人物は役職+名前で表記される
 ・位が低い人物は普通に氏名・姓名で表記される
 ・出家すると僧侶としての号で表記される
 ・女性は氏名・姓名では表記されず、表記にとくに法則性はなく割といい加減
といった感じになります。

そもそも人間一人一人に固有の氏名があり、生まれたときに付けられた名前をずっと使い続けるというのは、明治時代初年以降のことです。

近世以前は人間の名前は死ぬまでにどんどん変わるもの。自ら改名したり、役職によって名前が変わったりというのは普通でした。またフルネームも現在のような氏+名などではありませんでした。

例えば、大岡裁きで有名な大岡忠相のフルネームは、大岡越前守藤原忠相(おおおかえちぜんのかみふじわらのただすけ)で、このようにダラダラと長いのが一般的。「大岡」が苗字、「越前守」が名、「藤原」が姓、「忠相」が名乗、今日一般には「大岡忠相」と表記される人物ですが、江戸時代当時は時代劇のタイトルと同じく通常「大岡越前守」と呼ばれていたようです。(ちなみに「大岡越前」は江戸・武家風の表記で、京都・公家風の表記だとこの人物は「藤原忠相」となります。)
なので、個人個人にガチッとした固有の名前があるという考えは、江戸時代以前には適用できません。
また、女性が結婚後に夫の姓を名乗るというのが一般化したのも、明治時代中期以降のことです。歴史的に見ると夫婦同姓は非常に歴史は浅いです。

以上を踏まえて(?)、百人一首の歌人百人を分類し、その名前を考えてみたいと思います。
以下、一般に位が高いと言われる順番に、法則ごとに並べてみます。


(1)天皇・皇族の人たち

百人一首に登場する皇族は計10人。
天皇が3人(天智天皇、持統天皇、光孝天皇)、院が5人(陽成院、三条院、崇徳院、後鳥羽院、順徳院)、親王が1人(元良親王)、内親王が1人(式子内親王)となります。

この人たちは皇族なので氏名・姓名はありません。
現在は歴代の天皇は全員「~天皇」と表記されますが、近世以前は呼称が「天皇」の人と「院」の人は混在していました。
一般に奈良~平安時代初期までの人たちは概ね「天皇」で表記され、平安時代中期以降「院」で表記されるようになり、これが江戸時代中期まで続きました。(再び「天皇」の表記が一般的になるのは、江戸時代後期の光格天皇以降のことです。)
ちなみに院政を行ったから「院」なのではありません。陽成天皇・三条天皇・順徳天皇は院政は行っていません。譲位したら「院」になるというわけでもありません。持統天皇も生前に譲位しています。

なお天皇8人は全員が諡号(死後に名付けられるおくり名)です。8人の生前の名はそれぞれ、中大兄(天智)、鸕野讚良(持統)、時康(光孝)、貞明(陽成)、居貞(三条)、顕仁(崇徳)、尊成(後鳥羽)、守成(順徳)となります。

このように、天皇については、位の高い人は名前で表記されないという法則が適用できるように思います。
親王(男性の皇族)と内親王(女性の皇族)については、名+新王(内親王)の表記が一般的であったようです。


(2)大臣クラスの人たち

百人一首で大臣クラスの人たちは、河原左大臣(源融)、菅家(菅原道真)、三条右大臣(藤原定方)、貞信公(藤原忠平)、謙徳公(藤原伊尹)、法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)、後徳大寺左大臣(徳大寺実定)、後京極摂政前太政大臣(九条良経)、鎌倉右大臣(源実朝)、入道前太政大臣(西園寺公経)の計10名です。
この人たちは氏名・姓名を名乗っていません。位の高い人は氏名・姓名は表記されないという法則が見て取れます。(後徳大寺左大臣のみ例外で、名は表記されませんが徳大寺姓は表記されています。)

左大臣が2人、右大臣が3人、太政大臣が3人。
源融は鴨川のほとりに邸宅があったことから河原+役職、藤原定方は京都三条に邸宅があったことから三条+役職、源実朝(3代鎌倉将軍)は鎌倉に居住していたから鎌倉+役職と、地名+役職で表記されるパターンも多いようです。
後徳大寺左大臣は例外で、徳大寺+役職の表記。以前の記事で、入道前太政大臣は最も個性のない名前などと書いたこともありましたが、これも位の高い人故の表記です。
貞信公・謙徳公は諡号(死後に名付けられるおくり名)です。藤原忠平も藤原伊尹も太政大臣であった人物です。
菅家だけは表記の由来がよく分かりませんが、菅家廊下という私塾を主宰していたことに由来するのかもしれません。菅原道真も右大臣であった人物です。

各大臣は通常定員1人ですので、大臣クラスの人は時代ごとに限られています。この10人は上のように無個性な(?)名前表記の方も見られますが、政治的にはたいへん重要な人たちでした。


(3)高位の役職の人たち

その次に位の高い人たちは役職+名前で表記されます。
この人たちは計17人、百人一首上の表記と該当する人物を列挙すると、中納言家持(大伴家持)、参議篁(小野篁)、中納言行平(在原行平)、中納言兼輔(藤原兼輔)、参議等(源等)、権中納言敦忠(藤原敦忠)、中納言朝忠(藤原朝忠)、大納言公任(藤原公任)、左京大夫道雅(藤原道雅)、権中納言定頼(藤原定頼)、大納言経信(源経信)、権中納言匡房(大江匡房)、左京大夫顕輔(藤原顕輔)、皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)、参議雅経(飛鳥井雅経)、権中納言定家(藤原定家)、従二位家隆(藤原家隆)、となります。

この人たちは五位以上の人物で、位が高く役職も高位のものばかりです。
大納言が2人、中納言が4人、権中納言が4人、参議が3人、大夫が3人(左京大夫2人、皇太后宮大夫1人)。従二位家隆は例外で役職なしですが、位が高い故か位付きで表記されています(二位は通常は大臣クラス)。
大納言や中納言は定員制で人数が決まっていましたが、後の時代になると増える傾向があり、定員外の中納言は権中納言と定められました。大納言は通常三位、中納言は四位の人物が就任する役職です。
参議も概ね四位の人、大夫は五位の人が就任します。参議は官職そのものの必要性というよりも、既存の役職に収容できなかった人たちに対し、政治に参加させるための役職であったようです。
概ね後の時代の方が役職は増える傾向にあったようです。


(4)一般の人たち(男性)

役職なしの一般男性は計32人。
このうち朝臣が付いている人が、在原業平朝臣、藤原敏行朝臣、源宗于朝臣、大中臣能宣朝臣、藤原実方朝臣、藤原道信朝臣、源俊頼朝臣、藤原清輔朝臣の8人。

朝臣は古くは重要な姓でしたが、奈良時代中期以降は朝臣姓を賜る人は続出し、後の時代には単に儀礼的な意味しかなくなった表記のようです。
単に氏名・姓名で表記される人が計22人で、列挙すると、柿本人麻呂、山部赤人、安倍仲麿、文屋康秀、大江千里、凡河内躬恒、壬生忠岑、坂上是則、春道列樹、紀友則、藤原興風、紀貫之、清原深養父、文屋朝康、平兼盛、壬生忠見、清原元輔、曽禰好忠、源重之、藤原義孝、藤原基俊、源兼昌となります。
これ以外に例外として、猿丸太夫と蝉丸がいます。

この人たちは身分が低い故に文書等に記録されておらず、素性もはっきりしていない人物が多いです。
この中で生没年ともにはっきりしているのは9人、没年は分かっているが生年がはっきりしない人が9人、
残りの14人は生没年ともに不詳です。有名な柿本人麻呂や山部赤人も生没年不詳、紀貫之や紀友則も生年は不詳です。
ちなみに上の分類(1)~(3)の位の高い人物は計37人中36人が生没年ともはっきりしており、ほぼ全員しっかりと記録されている人物であるようです。(例外は式子内親王で彼女は生年が不詳です。これはのちに述べるように女性だからなのかもしれません。)
猿丸太夫と蝉丸は伝説上の人物で、実在性含め来歴はよく分かっていません。


(5)僧たち

出家した人は僧侶としての号で表記されます。
僧は(2)大臣クラスにも2人いますが(法性寺入道前関白太政大臣、入道前太政大臣)、彼らは入道で表記されています。
これ以外の僧は、喜撰法師、僧正遍昭、素性法師、恵慶法師、前大僧正行尊、能因法師、良暹法師、道因法師、俊恵法師、西行法師、寂蓮法師、前大僧正慈円の12人です。

このうち僧正が1人、大僧正が2人、単なる法師が9人。出家すると名前が変わるというのは一般的でしたが、位が高い人はやはり役職付きで表記される傾向にあるようです。


(6)女性たち

最後に女性の歌人の表記ですが、これがややこしく、統一性がない表記になっています。
皇族を除く女性は計19人、列挙すると、小野小町、伊勢、右近、右大将道綱母、儀同三司母、和泉式部、紫式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔、清少納言、相模、周防内侍、祐子内親王家紀伊、待賢門院堀河、皇嘉門院別当、殷富門院大輔、二条院讃岐、となります。

まず目につくのが旧国名の多さです。伊勢、和泉式部、伊勢大輔、相模、周防内侍、祐子内親王家紀伊、二条院讃岐の7名が国名で表記されています。
これらは概ね夫の役職と関係しているようで、例えば和泉式部は夫が和泉守、相模は夫の赴任先が相模国であったようです。
名前が国名というのも現在の感覚からすると変な感じですが、上の大岡越前の例の通り名前に国名が付くのは近世以前は一般的。しかし夫に関わりのある国名というのがやはり現在とは違うジェンダーギャップを感じます。

役職名も多く、少納言、式部、内侍、衛門、大輔、別当などの表記がこれに当たります。これも夫の役職である場合が多く、例えば大弐三位は夫の官位に由来します。有名な清少納言や紫式部であっても、本人の役職なのかどうなのかは諸説あるようです。
右大将道綱母、儀同三司母は血縁関係に由来する表記で、それぞれの人物(藤原道綱、藤原伊周)の母であったことが分かります。「~母」「~娘」は当時の一般的な表記。
名前に院の表記がある4人は、それぞれの皇族(もしくは皇族の妻)に仕えたことが由来になっています。待賢門院は藤原璋子(鳥羽天皇の皇后)、皇嘉門院は藤原聖子(崇徳天皇の皇后)、殷富門院は斎宮亮子内親王、二条院は二条天皇を表します。

一応氏名・姓名っぽく表記されているのは19人中小野小町1人のみ。女性全員の中でそもそも氏名・姓名が分かっている人は少なく、周防内侍は平仲子であるようですが、他の方は調べてもよく分かりません。
総じて女性は本人に由来する表記ではなく、夫・父・子・その他関係者に由来する表記がほとんどです。当時のジェンダーギャップの大きさを感じますが、その一方で「この女性たちの本名は」などとと考えるのも時代考証的にはナンセンスで、この時代はこれが一般的な名前の表記の在り様であった(そもそも名前は変わるもので本名という考え方は当時はなかった)と考えるのが妥当です。
なお、女性は全員が生年不詳です。右大将道綱母、儀同三司母、小式部内侍は没年は分かっているようですが、それ以外の16人は生没年とも不詳、女性の生没年が文書的に記録されることは少なかったようです。


以上、百人一首を通して中世以前の名前について考え、分類てみました。
名前の傾向・表記と役職・位がしっかり一致して法則性があるのが面白く、現代人の名前表記の認識と当時の認識が大きく異なっていることが分かり、興味深いですね。