大阪市 国土地理院地図上の「記念碑」を訪ねる その2 | れぽれろのブログ

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前々回の続き。
大阪市内にある、国土地理院地図上の「記念碑」計17か所を訪ね歩いた覚書です。

おさらいすると、国土地理院発行の地図には「記念碑」という地図記号が記載されており、定義は、
「記念碑の記号は、立像(りつぞう)を含めた有名なものをあらわします。良い目標となるものは有名でなくてもあらわしています。」
とのこと。

地理院地図を確認すると、大阪市には全部で17件の記念碑が地図上に存在(「自然災害伝承碑」は除く)しており、前回の記事ではこのうち年代の古いものから順番に8件をまとめました。
今回は後半、残り9件の記念碑を取り上げます。
前回は1904年(明治後期、日露戦争の年)から1936年(戦前昭和、二二六事件の年)の間に作られた記念碑が登場しました。
日露戦争時代の忠臣愛国的な碑から始まり、大正時代の都市化を感じさせる愛郷的な碑を経て、戦前昭和の国威発揚的な碑に至る。戦前昭和の碑は、教育塔(1936年)のような災害(室戸台風)に関わる碑であっても、高さ30メートルという巨大さと「教育」という命名から、明らかに戦間期後期の国威発揚的な何かを感じさせる碑でした。
今回は日中戦争(1937年)以降の戦時期と、戦後(1945年以降)の碑についてまとめます。



(9)木邨長門守重成表忠碑

建設:1938年(昭和13年)9月
場所:大阪市北区中之島1丁目

木村重成は桃山時代~江戸時代初期の武将で、豊臣方の武将として徳川と戦った人です。彼の碑が中之島の大阪市立東洋陶磁美術館の東側にありました。

実はこの後ろ側の道路が工事中で、至近距離で斜め方向からでしか撮影ができませんでした 笑。

 

元々中之島は豊国神社という豊臣秀吉を祀る神社があった場所でしたが、豊国神社は現在は大阪城内に移転されています。
どうもこの木村重成の碑のみが中之島に残っているということのようです。

木村重成は大坂の陣で若くして討ち死にしますが、彼の忠臣ぶりが称えられ、日中戦争の戦時下に忠碑が建設されたとのことだと思われます。大阪は豊臣秀吉の時代に大阪城とともに建設された町ですので、大阪市民の秀吉への信仰(?)は厚く、それ故に豊臣方の武将の碑が残っているのだと思います。
30年代は天皇機関説事件を経て天皇の神格化が進んだ時期、徳川とは違い比較的天皇家を大切にした豊臣方(室町後期~戦国時代にどん底にあった天皇の権威は織豊期に復権します)を称えるのも、時代の雰囲気とマッチしていたのかもしれません。

なお、写真の後ろに写っているのは「こども本の森 中之島」という最近できた児童図書館です。コロナ下での開館となり、現在は予約のみの入館となっています。
面白そうな建物ですので、いずれ入ってみようと思っています。



(10)大阪市片江中川土地区割整理組合竣工記念碑

建設:1939年(昭和14年) ※現存せず
場所:大阪市生野区新今里2丁目

前回の記事で都島区の土地区割整理記念碑が登場しましたが、同様の碑が生野区にもあったようです。生野区の新今里公園内に記念碑の地図記号が表示されていましたが、なんと、訪れてみると碑はなくなっていました 笑。

公園内の木の横に小さな表示があります。


 

昔この公園に碑があったのだという記録写真のみが現地に残っていました。

現在は碑は撤去されてなくなっていますが、なぜか地図記号は地図上に残っています。国土地理院の確認漏れなのかな?
かなり巨大な碑なので、公園で遊ぶ人たちにとっても邪魔なものだったのかもしれません。この写真を見る限り、前回の記事に登場した都島区の碑に比べて重々しく、景観にマッチしていない感じはします。

大阪市は大正時代後期に大規模な拡張を行い、周辺の村々を合併し「大大阪」となります。このときに合併された地区のうち、前回の記事の都島区などは早くから開発され、1928年(昭和3年)の記念碑が残っていましたが、生野区は10年ほど遅く、1939年(昭和14年)まで時間がかかったということなのかも。


おそらくこの手前の白い柵のあたりにかつて碑があったものと思われます。



仕方がないので、碑があったと思われる場所に生息していたトラを撮影。

こちらに向かって吠えています 笑。



(11)大阪市小路耕地整理組合竣功記念碑

建設:1940年(昭和15年)2月
場所:大阪市生野区小路1丁目

続いても土地整理の記念碑です。
こちらは先ほどの新今里公園の東側に歩いて行ったところにありました。

こちらはちゃんと碑が現存しています。

駐車場の前の道路側のスペースに木々とともに残っていました。
碑の形・場所共にそれなりに景観にマッチしており、それほど違和感はありません。残る碑となくなる碑の差を目の当たりにした気がします。
現在は駐車場になっていますが、元々この場所は小路(しょうじ)地区の役場があった場所であったとのことです。



(12)兵部大輔大村益次郎卿殉難報国之碑

建設:1940年(昭和15年)11月
場所:大阪市中央区法円坂2丁目

大村益次郎は幕末~明治最初期に活躍した長州の志士。近代軍の創設者として有名で、明治の王政復古後に兵部大輔となり、明治新政府の軍事指導者として活躍しました。靖国神社に銅像がある人、といえば首都圏の方はお分かりかもしれません。
大村益次郎は1869年(明治2年)に京都で攘夷派の不平分子に襲撃され、大阪の病院に移され治療しますが、甲斐なくそのまま亡くなります。

その大村益次郎の碑が国立病院大阪医療センターの建物の脇にありました。

道路からもよく見える、かなり巨大な碑です。
京都から搬送されたこの地の病院が、時代を経て現在は大阪医療センターになっている、ということのようです。


大村益次郎と思われる人物のレリーフ。


1940年(明治15年)といえばアジア太平洋戦争の前年、明治新政府の軍隊創設に尽力した人物の巨大な碑ということで、明らかに戦時下の国威発揚的な意図のある碑です。
このすぐ北東にある前回の記事で取り上げた教育塔と同様、かなり物々しい碑ですが、現在も撤去されることなく残っています。


碑の下の部分には賛助者の名前が刻まれていました。

東条英機、林銑十郎、畑俊六と、錚々たる陸軍の面々の協力があったことが分かります。



松井石根、荒木貞夫、寺内寿一らの陸軍関係者に混じって、松岡洋右のような外交官や、松下幸之助、鴻池善右衛門、小林一三などの実業家の名前も見られます。(小林一三はちょうどこの時期に近衛内閣の商工大臣でしたので、それと関係があるのかも。)

写真に記載の名前以外にも、南次郎、杉山元などの著名な陸軍関係者や、伊藤忠兵衛、大林義雄などの実業家の名前もありました。
まさに挙国一致体制と言った感じの、戦時下ならではの碑であるように思います。



(13)伏見呉服町之碑

建設:1952年(昭和27年)4月
場所:大阪市中央区高麗橋4丁目

戦後の碑に移ります。

伏見呉服町の碑。

豊臣秀吉の時代、秀吉は大阪の町の建設にあたり、京都伏見の呉服商人たちを呼び寄せて住まわせたのだそうです。その由来を記念する碑のようですが、現在伏見呉服町という町名は残っていません。
ちょうど伏見町4丁目の西側に当たる場所にある碑ですが、現在の区画では伏見町は東西はやや狭く、北の高麗橋4丁目と南の道修町4丁目がせり出してきている形になっており、現在この碑はギリギリ伏見町には入らず、高麗橋4丁目にある形になってしまっています。

碑の文字は漢文体で書かれており、しかも文字は薄れて読みにくいため、パッと見たところ明治後期~大正期の古い碑に見えますが、刻まれた年代は「昭和廿七年」となっています。
1952年(昭和27年)はサンフランシスコ講和条約発効の年、米軍による占領が終了し、日本が独立を回復し名実ともに「戦後」が始まる年です。
戦時期の国威発揚的な感じはなく、戦後になり再び大正期の愛郷的な碑が復活してきた、という感じに見えます。



(14)戦災犠牲者慰霊塔

建設:1953年(昭和28年)8月
場所:大阪市東淀川区東中島5丁目

続いては空襲に対する慰霊碑です。
以前に訪れた曹洞宗のお寺、崇禅寺の敷地内にあった碑です。

道路からは碑の背中側が見えています。


お寺の塀の高さを越えて道路からも見える大きな碑です。


正面からの写真。

大阪は1945年の3月13日に大空襲を受けたあと、しばらく大きな空襲はありませんでしたが、6月に入ってから、6月1日、7日、15日、26日と、立て続けに大空襲に見舞われます。崇禅寺敷地内にあるこの碑はこのうち6月7日の大空襲の犠牲者を弔う碑となっています。
6月7日の空襲は大阪市北部から豊中にかけての被害が大きかった空襲で、崇禅寺のある東淀川区もこの日の被害が大きかったようです。以前に取り上げた大阪市北部にある城北公園(旭区)の千人塚も、この6月7日の空襲の碑でした。
この6月7日に、崇禅寺には500人を超える死体が運び込まれたのだとか。
戦後8年にしてようやく慰霊碑が建設された、ということのようです。



(15)関市長顕彰碑

建設:1956年(昭和31年)6月
場所:大阪市北区中之島1丁目

関一(せきはじめ)は大正から昭和初期にかけて大阪市の助役及び大阪市長を務めた人物です。彼の記念碑が中之島にありました。

大阪市立東洋陶磁美術館の西側に佇む関市長。

上に取り上げた木村長門の碑が東洋陶磁美術館の東側にあり、関一の碑はちょうどその逆の位置にあります。
関一の功績は、大阪市立美術館、大阪市立大学(当時は大阪商科大学)、大阪市中央卸売市場の等の建設や、大阪城天守閣の再建、大阪市バスの創設など様々ですが、最も有名なのは御堂筋の建設と地下鉄御堂筋線の創設ではないかと思います。
巨大な幅の御堂筋と、10両編成の列車が停車できる巨大な地下鉄のホームの建設は、当時から大きすぎるとの批判もあったようですが、今現在の地下鉄御堂筋線の重要性を考えると、先見の明があったと言えるのではないかと思います。
「これやこの 都市計画の 権威者は 知るも知らぬも 大阪の関」とは、蝉丸の歌を改変し当時詠まれた川柳です。


関市長の像のすぐ近くには大阪市中央公会堂があります。


1918年(大正8年)竣工の建物。



(16)現龍大神

建設:1969年(昭和44年)8月
場所:大阪市東淀川区柴島1丁目

東淀川区の阪急柴島(くにじま)駅の南側にある記念碑の地図記号は何の碑を示しているのかなかなか分かりにくいですが、差し当たり、この地点に祀られている現龍大神の新しい方の碑であると比定しました。


鳥居と木々が見えます。

イチョウの落ち葉が綺麗です。この奥に碑があります。


現龍大神の碑。

昭和44年(1969年)、柴島浄水場一同により建てられた碑であるようです。
柴島浄水場はこのすぐ北側にあります。


この碑のすぐ右側にはさらに古い現龍大明神の石碑が。

こちらは大正6年(1917年)の碑のようです。この古い碑に変わって、1969年に新しい碑を建てなおしたということなのだと思います。
現龍大神の碑の由来は調べてもよく分かりません。
柴島浄水場の完成が1914年とのことですので、おそらくその後にまず古い方の碑が作られ、50年以上を経た戦後に新しい碑が目立つ形で追加された、ということであると推測します。龍は水と関係するので、やはり浄水場と関係があるのでは、という気がします。



(17)与謝蕪村の句碑

建設:1978年(昭和53年)2月
場所:大阪市都島区毛馬町3丁目

ラストです。
1978年にできた新しい碑です。


春風や 堤長うして 家遠し 蕪村

江戸時代の俳諧師であり画家であった与謝蕪村は、摂津国東成郡(ひがしなりぐん)毛馬村(けまむら)の生まれとされます。現在都島区の毛馬町となっているこの近辺が蕪村の生誕地であり、毛馬公園に碑が建てられたものと思われます。
これまでに登場した碑の中では最も小さい碑ですが、道路からは見ることができます。昭和前期までの物々しい碑ではなく、こじんまりとした歴史の碑が昭和後期らしい気がします。

この碑は前回の記事で登場した北区長柄の淀川改修紀功碑から、
大川を渡ったすぐ東側にありました。

毛馬閘門。

蕪村の碑のすぐ西にあります。
前回は明治のもう使用されていない閘門の写真を貼り付けましたが、こちらの閘門は淀川と大川の境目で現在も稼働しています。


長柄橋の様子。

蕪村の碑のすぐ近くにある橋。

この写真の橋の左側の岸に前回の淀川改修紀功碑が、右側の岸に先ほどの現龍大神の碑があります。
淀川改修紀功碑(北区)、現龍大神の碑(東淀川区)、蕪村の句碑(都島区)は、淀川と大川を隔てていますが、実はそれぞれすぐ近くにあります。


閘門付近にはカモの群れが生息していました。


 

少し南に歩くと、都島区の蕪村通り商店街が見えてきます。



蕪村が町おこしになっています。


町おこしと関わりのある碑が建設されるのも、どことなく昭和後期っぽい気がします。これまでの物々しい碑と異なり、昭和後期以降の碑は平和な感じで良いですね。



ということで、大阪市内の17か所の記念碑を巡ったまとめでした。
時代により碑の在り様が異なり、なかなか面白いお散歩となりました。
大阪市外の記念碑や、その他地図に載っていない様々な碑を訪ね歩くのも、また面白いかもしれませんね。