大阪市 国土地理院地図上の「記念碑」を訪ねる その1 | れぽれろのブログ

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大阪近辺のお散歩シリーズ。
コロナ第三波が吹き荒れる晩秋、大阪市内にある、国土地理院地図上の「記念碑」計17か所を訪ね、写真を撮ってきましたので、その覚書を残しておきます。


国土地理院発行の地図には様々な地図記号が記載されていますが、その中に「記念碑」という地図記号があります。
以下のような地図記号です。

定義は以下で確認できます。
https://www.gsi.go.jp/KIDS/map-sign-tizukigou-h07-01-02kinenhi.htm

「記念碑の記号は、立像(りつぞう)を含めた有名なものをあらわします。良い目標となるものは有名でなくてもあらわしています。特に有名なものにはその名前もいっしょに表示しています。この記号は、石でできた記念碑を前から見た形とその影の形を記号にしました。」

とのことです。


地理院地図をくまなく確認すると、大阪市内には(自分の見落としがなければ)全部で17件の記念碑が地図上に記載されています。(2019年以降に選定された「自然災害伝承碑」は含まず。)
今回は、その17件をすべて見て回り、地理院地図の記念碑について考えてみようという記事です。

結論を先に記載すると、記念碑の選定条件はおそらく、
・大きい
・古い
・どちらかといえば公的な性格を持つ
の3点にあるのではないか、と推測します。

大きさは重要で、概ね高さ2メートル以上あるものを中心に選定されているように思いました。高さ数メートルのものもあれば、最大で30メートル(!)のものもありました。上の定義に「良い目標となるもの」とありますので、とくに道路上から見えるものが選ばれているようです。(逆に言うと、大きくても道路から見えにくいものは選定されていないようです。)
古さも重要、新しいものでも40年以上前、古いものになると120年近く前に建てられたものが選定されています。計17件の時代の内訳は、明治2件、大正2件、戦前昭和8件、戦後昭和5件となっています。
公共事業に関わるものが多く、特定の人物の記念碑であっても、公的な貢献をした人物が中心に選定されているようにみえます。何が公的であるかは、各時代によって考えが異なっていることも分かり、このあたりも面白いです。

おそらくこれらの記念碑は、選定されてから相当時間が経っているものも多いと思われます。
中には木々が生い茂って見えにくくなっているものや、法人の敷地内にあって立ち入りできないもの、地図記号があるにも関わらず記念碑自体が撤去されているものなどもありました。


今回は前半、以下計17件うちの8件の写真と覚書です。
古い時代から順に並べます。



(1)楠正長旧跡記念碑

建設:1904年(明治37年)4月
場所:大阪市生野区巽南4丁目

大阪メトロ千日前線の終点、南巽駅を降りて内環状線(国道479号線)に沿って少し南に歩くと、新巽中学校東交差点の脇に楠木正長史跡公園なる小さな公園が見えてきます。

この公園の中に、楠正長旧跡記念碑がありました。

楠正長は、南北朝時代に活躍した有名な楠木正成の孫にあたる人物とのこと。
楠正長はかつてこの地に住んでおり、1412年に定願寺というお寺を建立したとのことです。定願寺はこの地のやや北西に現在も残っているお寺です。

大阪は中世南北朝時代において戦場となった地で、とくに南河内を中心に南朝方の楠木正成ゆかりの史跡が残っています。
この碑が建立されたのは1904年の4月、折しもこの年の2月に日露戦争が始まったばかりの時期です。戦争に伴う愛国心の高揚から、南朝方の忠臣である楠木氏に関わるこのような碑が建てられたのかもしれません。
ちなみに1904年の時点では、国定教科書上でもまだ南北両朝は並立していたという認識であったようです。正式に南朝が正統とされるのはこの後の1911年のこと、以降楠木正成が忠臣とされ、足利尊氏は逆賊となる史観が定着します。
戦後足利尊氏は名誉回復(?)となりますが、南朝が正統であるという認識のまま現在に至ります。


史跡公園の様子。



同じ公園内には日露戦争の戦没記念碑も設置されていました。

こちらは日露戦争後の1906年4月の建立となっています。
(ひょっとしたらこちらの記念碑が地図上に採用されているのかもしれませんが、判断はつかず。)



(2)淀川改修紀功碑

建設:1909年(明治42年)6月
場所:大阪市北区長柄東3丁目

続いては大阪市北区、淀川と大川が分離する近辺にあった碑です。
大阪メトロ天神橋筋六丁目駅から北に向かって淀川まで歩くとこの碑のある公園が見えてきます。


淀川改修紀功碑。

高さ約10メートルとのこと。なかなか巨大な碑です。
淀川は定期的に水害を引き起こす河川であったため、明治時代を通して淀川の各箇所で改修工事が繰り返されました。
1909年に工事が概ね完了したことを受けて、この碑が建設されたという経緯のようです。しかしこれ以降も水害は継続し、治水事業は昭和に至るまで継続します。


近辺は公園になっており、明治期の設備なども保存されていました。

旧毛馬閘門(けまこうもん)。

毛馬は地名、閘門は水量調節のための堰です。
現在は使用されておらず、塗装されて保存されていました。


明治期の石橋も保存されています。


 

公園内の落葉の中で佇む猫ちゃん。




(3)贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑

建設:1915年(大正4年)8月?
場所:大阪市中央区島之内2丁目

続いては大正時代。
大阪メトロ日本橋駅から北に少し歩いたところにある碑です。

 

贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑。

江戸時代初頭にに道頓堀の開削工事を行った安井道頓を記念した碑です。
大阪の町は豊臣秀吉の時代から江戸時代初期にかけて建設されました。
安井道頓は秀吉に仕え、大阪城の築城工事にも貢献した人物。秀吉の死後、17世紀初頭に道頓堀の開削を完了させました。

大阪の中心地にある碑ですので空襲を受けており、字は一部かすれて読みにくくなっていますが、おそらく1915年(大正4年)に建設された碑であると思われます。
上の楠正長は愛国的な雰囲気がありますが、こちらはどちらかといえば愛郷的な雰囲気の碑で、大阪という都市が急成長する大正時代らしい感じがします。
ちなみにこの近辺は近年外国人観光客の観光バスの停留所になっており、昨年まではおおぜいの外国人を見かけましたが、現在はさっぱり人が少なくなっており、寂しい感じがします。


付近には皇紀2600年の記念碑と、謎の相撲取りの像があります。

皇紀2600年の方は1940年に建てられた碑と思われます。相撲取りおそらくは最近のものです。
かつてはこの皇紀2600年記念碑の前で喜々として記念撮影を行っている中国人観光客もたくさんいましたが、「絶対意味わかって撮ってへんやろ」と自分はいつも思いながら見ていました 笑。



(4)贈正五位河村瑞賢紀功碑

建設:1915年(大正4年)8月
場所:大阪市西区安治川1丁目

続いては西区、大阪メトロ九条駅から北に歩いたところの安治川沿いの道路脇にあった碑です。

河村瑞賢の記念碑、草木に覆われて道路上からは見にくくなっています。

淀川の支流である大川は、中之島の部分で北の堂島川と南の土佐堀川に分かれ、中之島を経たあと再び合流して安治川となります。
安治川も度々反乱した河川で、17世紀後半に河村瑞賢によって開削工事が行われました。それを記念した碑であるとのことです。
安治川は開削工事後に名付けられた河川名で、安らかに水が流れることを願った名前となっています。


上の安井道頓と同じく、地域の歴史上の貢献者に対する大正時代の記念碑となります。碑の建設の背後には明治末から大正期にかけて勃興した教養主義などの影響もあるのかもしれません。
折しも1915年は第一次大戦による産業の勃興と重なっている時期ですので、安井道頓や河村瑞賢のような実業家が評価される時勢であったのかも。


こちらの方が見やすい写真。

目の前に大きな木があるので、正面から撮影できません 笑。


付近には古川跡の碑も。

こちらは1959年の碑です。
安治川の近くには古川という川もありましたが、1952年に埋め立てられました。
それに伴う碑のようです。(大阪市では戦後たくさんの川が埋め立てられました。)


一輪のバラが咲き残っていました。




(5)都島土地区割整理記念碑

建設:1928年(昭和3年)11月
場所:大阪市都島区都島中通2丁目

戦前昭和期に移ります。
こちらは都島区の都島公園内にあった碑です。

都島土地区割整理記念碑。

最寄り駅は大阪メトロの都島駅。
都島公園は駅から少し南にかけて歩いたところにあります。

大阪市は産業の勃興と人口の急増に伴い、大正末に大規模な市域拡張を行いました。いわゆる「大大阪」の時代です。
これに伴い、大正末から昭和前期にかけて、新市域の周辺地域の区画整理が進められ、住宅地や商業地の建設が進められました。
大阪市の各地には、これを記念した土地区割整理記念碑があちこちに残っています。この都島区の分はそのうちの1つです。
碑文には当時の大阪市長である関一の名が刻まれています。


晩秋の都市公園の中の石碑。いい雰囲気です。




(6)明治天皇観艦之所

建設:1929年(昭和4年)10月
場所:大阪市港区築港3丁目

こちらは港区の天保山公園の中にあった巨大な碑。

これもかなり巨大な碑です。

 

天保山は大阪港のすぐ近くにある人工の山です。標高4.53メートルの低い山として有名です。
1868年(明治元年)、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は大阪城から敗走し、この天保山から船で大阪を脱出します。明治天皇はその後京都から大阪に向かい、この地で軍艦をご覧になったとのことです。
それを記念して昭和初期に建設された碑。碑には上と同じく1929年当時の大阪市長である関一の名前が刻まれています。


後ろから見たところ。

ちなみに、この写真の右下に標高4.53メートルの天保山の山頂があります。
明治天皇の碑がやたらと巨大なため、天保山の山頂は目立ちません 笑。


公園内には天保山跡の碑も。(これは山頂ではない。)


 

天保山公園の紅葉もよい雰囲気でした。




(7)教育塔

建設:1936年(昭和11年)1月
場所:大阪市中央区大阪城3

続いては今回登場する中で最も巨大な碑です。

教育塔。

高さ30メートル、何とも大きい記念碑です。
最寄り駅は大阪メトロ谷町四丁目駅。大阪城の南西の端っこ、馬場町の交差点付近にある碑です。

大阪市は昔から台風や大雨に伴う水害が多く、各地に水害の碑が残っています。これはその中の1つで最も大きなもの。
1934年(昭和9年)の室戸台風は、大阪市にも甚大な被害を及ぼしました。その犠牲者の追悼のための碑ですが、戦後の1995年に補修工事が行われ、このときに阪神大震災の被災者も合葬されています。


碑には風雨に耐える子供たちと先生のレリーフが。


 

ちょうど大阪城の南西側にありますので、お堀の近くです。



紅葉が良い雰囲気。

後ろに見えるのは大阪府警の建物です。



(8)忠魂碑

建設:1936年(昭和11年)5月
場所:東淀川区瑞光3丁目

最後は1936年(昭和11年)に建てられたと思しき忠魂碑です。
最寄り駅は大阪メトロ今里筋線の瑞光四丁目駅。
法人の敷地内にあったため、詳細を確認することはできませんでした。


金網越しに碑を撮影。

忠魂碑の文字はおぼろげながら確認できます。
おそらく昔はこの場所は公園であったのではと推測します。現在は立ち入ることはできなくなっています。

忠魂碑は一般に出征後に戦死した兵士を弔うための碑です。
この忠魂碑の上の建設時期はネット上の情報によります。当時の陸軍大臣 阿部信行による碑であるとの情報です。(阿部信行はこの後総理大臣になっています。)
その他この碑については詳細はよくかわかりません。立ち入れない場所の碑が地図上に残っているのはいかがなものか、とも思います 笑。
昔は立ち入りでき、道路上からもよく見えたのかもしれません。



以上、まずは8か所の記念碑の記録でした。
最後の碑が1936年(昭和11年)で、翌年の1937年(昭和12年)より日中戦争が始まります。次回は戦中から戦後にかけての9つの記念碑を取り上げる予定です。
戦中ならではの忠臣愛国的な碑や、戦後に建てられた空襲の記念碑、訪れてはみたものの碑が撤去されなくなっていたものなどが登場します。