村の日本近代史/荒木田岳 | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

最近はコロナの影響もあってあまり遠出はせず、近場の町を散歩することが多くなったことは以前にも書きました。
その中で、明治時代の地図を参照しながら散歩をすると土地の変遷の様子が感じられて面白いということや、ジャパンナレッジの日本歴史地名体系を参照し、村の変遷を調べてみると面白いということも以前に書きました。
こうなってくると、昔の日本の村落から近代の村・町へ、一般的にどのように変化してきたのかということに関心が出てきます。

ということで、最近ちくま新書から出版された「村の日本近代史」という本を読みました。著者の荒木田岳さんは歴史学者で、とくに地方行政の歴史についての著述が多い方のようです。
以下、本書の概要と感想などをまとめます。


本書の自分なりのまとめ。

一般に日本の村の変遷は、いわゆる自然村から行政村へ、元々自然にあった自治的な村々が明治維新により地方行政の構成単位としての村となり、中央集権的な地方自治の体制が完成した、と考えられています。
明治時代が一つの転機になるわけですが、本書を読むと明治期に一夜にして行政村が完成したというわけではなく、近世以来の長期間にわたる村の変遷の中で、徐々に行政村化が進んでいった、ということが分かります。
また、明治以前にはその村だけで完結する自治的な自然村があったというのも間違いであるということが分かります。

日本の村の在り様の大きな転機は16世紀末、太閤検地と刀狩りの時代にさかのぼります。天下統一を完了させた豊臣秀吉は、太閤検地により石高を決定し、刀狩りにより農民の武装解除を行ったとされます。
とくに重要なのが太閤検地で、ポイントは徴税と土地私有の分離です。

領主は土地を私有せず、領主は徴税権(石高に応じたお米を年貢として徴収する)のみを持ち、百姓が土地の処分権を持つという形で、両者が明確に分離(雑駁に言うと武士と農民の身分が分離)されました。これにより領主は土地と紐づかず、現在の役人と同じく入替可能となり、中央の意向一つで領主が差し替えられるようになり、ここに近代的な領邦国家が曲がりなりにも一旦完成します。
近代の行政村の在り様は明治時代ではなく織豊時代にさかのぼる。
本書によると信長や秀吉は当時の南蛮人(ヨーロッパ人)との接触があったため、
世界と日本という関係を意識するようになり、近代的な国土感と土地の囲い込みの意識が起こったのだと推測されています。

織豊政権は短命に終わり、その後徳川による長い幕藩体制の時代が続きます。
幕藩体制も基本的に太閤検地の土地政策を踏襲し、日本各地の藩に大名が置かれ、名目上は中央(江戸)の意向一つで地方の藩の大名が差し替えられる(転封)という、近代的な国土政策が執行されるようになりました。
農民に対しても田畑の売買を禁じ、土地と農民を紐づける政策、土地を通じた人の捕捉という体制が一旦は完成します。
しかし幕藩体制は早々に中央集権的な理想から遠ざかっていきます。
江戸時代初期には大名の転封は度々行われましたが、やがて転封は少なくなり、
とくに遠方の外様大名に対しては全く転封はなくなり、各藩の大名と土地とが事実上紐づく形で、幕藩体制は分権的な要素が強まった形で幕末に至ります。(これが薩長による維新を後押しした面もあります。)
百姓側も名目とは別に事実上土地は売買され、また新田開発が促進されたため新たな田畑や村落がどんどん増える、これにより各藩の領有する土地の境界が乱れ、各地に多数の飛地ができる結果となります。
江戸時代の幕藩体制は徳川による緩やかな分権的統治であると一般に理解されていますが、本書によると徳川時代は太閤検地の理想の実現の失敗であるということになるようです。集権的な理想は潰えましたが、そ一方で民富の蓄積が促進された面もあり、江戸時代の地方の村々に至る読み書き算盤能力の高さはこれに由来するようです。

明治維新に至り、廃藩置県が断行され、郡県制が施行されますが、本書によるとこれは幕藩体制の否定ではなく、むしろ秀吉の太閤検地に始まる土地政策の理想がここでようやく実現された、という位置づけになるようです。
1872年に田畑の売買が解禁されますが、これも江戸時代から実質的に土地は売買さ続けてきたため、解禁というよりは名目上実態に合わせたという認識の方が正しい。
明治の行政村化は一夜にして変化したわけではなく、とくに明治初期は諸々の混乱により村の総数の実態把握もままならず、郡県制は早くから検討し進められましたが、集権的な村の統治の完成は遅れました。
地租改正も実態を明確にした上で施行されたわけではなく、ある程度アバウトな状態で開始したソフトランディングな政策。
1889年の市町村合併(いわゆる明治の大合併)によりようやく村と村の領域が明確化され、我々が認識するところの行政村がこの時点でようやく完成します。
ここまで維新後約20年かかっており、各村に神社と学校があり、天皇を中心とする明治国家が地方の村々に至るまで広く統治するという国家感が、ようやくここへ来て完成した、ということが言えそうです。(地租改正による村請の廃止が先にあり、それ故に行政村化がスムーズに達成した、逆に言うと明治初期の速やかな行政村への移行は不可能だったのではと推測できる点も興味深いです。)


考えたことを3点ほど。

まずは感じたのは世界史の同時代性。
ヨーロッパでは16世紀から絶対王政による主権国家化が進行しますが、日本も同様に織豊時代に太閤検地による統一国家が模索されました。
地理上の発見により、丸い地球の中での自らの支配領域を為政者が明確に認識するようになったことにより、主権の及ぶ範囲の明確化、領域化と分割と囲い込みが模索され、同時期に近代化がスタートしたとみることができそうです。
主権国家化は重火器の発達によるところが大きいという説(W・H・マクニールなど)ともリンクし、武器の囲い込みと主権国家化の関係は、秀吉の刀狩り政策ともリンクします。
日本の村の変化は当時の世界史の中にある。
同時にヨーロッパでは村落はどのように変化していったのか、ヨーロッパの村の歴史についても調べたくなってきます。

次に飛地が存在する理由です。
なぜ飛地のようなものが存在するのかと我々は考えてしまいがちですが、これこそ領域を明確に囲い込む近代特有の考え方で、そもそもは人を通じた土地の捕捉が当たり前、領主の支配下にある領民が離れた土地に住めば飛地はあって当たり前です。
現在に残る飛地の存在は、古くは幕藩体制期の太閤検地の意志貫徹の失敗によります。田畑の売買の黙認や集権的な藩の統治の失敗(分権化)に加え、新田開発がこれに輪をかける形で、飛地は残り、錯雑地化が進む。
自分の住む大阪府は、とくに各藩の支配領域が意味不明なくらいにバラバラで、自分の住んでいる土地がかつて何藩の土地だったのか、明確に答えられる人はほとんどいないのではないかと思います。(この点、首都圏や近畿圏から離れるほどに、藩の領域は明確になります。)
明治の大合併の際の村落領域化に対しても、おそらく住民の意志を無視してハードランディングで線引きすることは難しかったのだろうと推測します。少し前の記事で取り上げた大阪市東住吉区矢田7丁目の、大和川の南に至る謎の細長い境界線も、この時代のソフトランディング政策に由来するであろうことが推測されます。
この点、明治国家の統治は後の時代の左派が強調するほどには強権的ではなく、意外と緩やかな形で進行したのが実態なのかもしれません。

もう1点は日本歴史地名体系の参照の仕方です。
日本歴史地名体系に記載されている行政区画の変遷の図表では、江戸初期から江戸後期(天保郷帳)、明治中期(1880年代、郡県化・市町村化の完成期)を経て、現代(1980年代)に至る町村の変遷がまとめられています。
これは一見して分かりやすい表で、この表だけをみると近世の村々と近代の町村とがそのままリンクしているように見えますが、本書の記述から推測すると、おそらく実態の変遷はもっと複雑なもので、参照には注意を要します。
例えば現在の自分が住んでいる場所が江戸時代にどの村であったのか等を考える際に、この表のみを参照してもおそらくは詳細な実態は分かりません。
現在残されている資料から、1889年以前の村落の実態を考えるのは想像以上に難しそうですが、今に残る町村の境界の由来を近世の実態から推測してみるのもまた面白そうです。


ということで、本書は近世史・近代史に関心のある方だけではなく、土地の歴史や地図や地名に関心のある方や、街歩きが好きな方にとっても面白い視点を提供してくれる、有意義な本であると感じます。



---

おまけ。

飛地と言えば、大阪府南部は飛地が多い場所です。
とくに阪南市の行政区画の飛地は相当にえげつない(笑)です。
以下、google mapで領域を表示させてみます。

赤で囲われた部分が、それぞれの町の領域です。


・阪南市 尾崎


・阪南市 新町


・阪南市 下出


・阪南市 黒田


・阪南市 鳥取中


・阪南市 自然田


・阪南市 石田



なんじゃこりゃ、の領域です 笑。
飛地の量が半端ではなく、複雑怪奇の極みです。郵便屋さんはさぞ大変であろうと推測します 笑。
さらに黒田や下出はこの画像では表示できないような異様に離れた山間部の飛地もあります。
「飛地の中の飛地」というのもあり、これは大阪では伊丹空港の中の飛地が有名ですが、阪南市にも複雑な形で存在していています。
なぜこのような区画になったのかも、おそらくは明治の行政村化の際のソフトランディング、住民の意向の尊重が影響していたものと推測します。
明治の大合併から130年が経過した現在、もうええ加減に綺麗な区画にしてもええやろという気もしますが、一方で近世の名残と思われる土地の来歴が分かる形で残っている方が面白いという面もあり、なかなか難しいところですね。