読書記録 (ディケンズ、マン、ジッド、横光利一、大岡昇平) | れぽれろのブログ

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久しぶりの文芸作品の読書記録です。
最近読んだ文芸作品の中から、面白かったものをいくつかチョイスして覚書を残しておこうと思います。

何度か書いていますが、自分は本は割と読む方ですが、文芸作品の比率は少ないです。気が付くと歴史系や社会系の本ばかり買ってしまうためです。
しかし、名のある作家の小説はやはり読むに値することが多い。歴史や文学史の解説書で太字で登場するような作家の作品は、読んでみるとやはりその価値に納得することも多々あります。
ということで、ここ最近は文芸作品の読書比率を上げようとしており、今年はコロナの影響で外出より家で読書する時間が多くなっていることもあり、比較的多めに文芸作品を読んでいます。
以下、最近読んだ本の中から、英仏独日4か国、19世紀から20世紀前半にかけての超有名作家の有名作品の中から5タイトルをチョイスし、覚書や感想などをまとめておこうと思います。


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オリヴァー・ツイスト/チャールズ・ディケンズ (1837~39年、イギリス)
 
19世紀前半のヨーロッパは、ブルジョワジーが台頭し、都市化・工業化が進み、都市の貧困・労働格差・インナーシティー問題が露わになった時代です。
本作は当時のイギリスの救貧院で産まれた孤児オリヴァーが、貧しさや身寄りのなさからくる苦しみを乗り越え、成長していく物語として描かれています。
食べるものも満足に与えられないまま、11歳で働きに出され不遇な扱いを受けるオリヴァー少年。何とか救貧院を脱走しますが、空腹・病気・事故・犯罪などが次々とオリヴァーを襲う。果たしてオリヴァーのは幸福になれるのか、オリヴァーの出生の秘密は、というのが主要なプロット。

本作を一読して思い出したのが、フランスの作家マロの1878年の児童文学作品「家なき子」です。というより、今考えると「家なき子」が「オリヴァー・ツイスト」の影響下にある作品であるように思いますが、不幸な生い立ちの子供が成長して幸福を得るという物語は19世紀当時のよくある表現形式なのかもしれず、都市の惨状を文学で描写し登場人物を救済する、現世救済のロマンが表れている作品群の中の1冊、と読むこともできそうです。
プロットの完成度は「家なき子」の方が高いように思いますが、本作「オリヴァー・ツイスト」の魅力はプロットより細部にあり、ときにオリヴァーを差し置いて脇役の行動が過剰に描かれるのも本作の面白いところ。マチヤやリーズやドリスコルに相当する脇役の描写がやたらと多い「家なき子」、といった読み方もできます。
本作の文学史上の重要性はやはり都市下層社会の描写にあり、このあたりは19世紀後半以降の社民主義的な政治思想の勃興とも関わりがあるように思います。



トニオ・クレーゲル/トーマス・マン (1903年、ドイツ)

続いては20世紀初頭のドイツの小説。
こちらは「オリヴァー・ツイスト」とは真逆で、裕福な身分の少年の成長が描かれるお話、特定の社会階層で生まれ育った人間の少年期・青年期・壮年期の生々しい内面描写が続く作品です。
ドイツ系と南欧系のハーフとして生まれたトニオは、北ドイツの社会の中ではやや浮いた存在であると自らを自覚、そのことの葛藤と優越が彼をして詩作に向かわしめ、青年・壮年と成長していく過程で折に触れて詩に対する考えが作品内で表現されます。
少年期の憧れと恋、家庭の経済上の変化を経て、少年はどのような大人になり、詩作に対する考えがどのように変化していくのか、というのが本作の主要なプロットとなります。
ディケンズの描いた純粋なオリヴァー君などと比較すると、本作のトニオは何とも面倒くさい内面を持った人物ですが、この特定社会階層の人物の複雑な内面描写が本作の読みどころとなります。

本作は日本の大正・昭和期の私小説文学に大きく影響を与えた作品なのではないかと感じます。この本を読んだとき「何や日本の私小説みたいやな」と思いましたが、当然のことながらマンの方が先です。
裕福な家庭で育ちつつある種の劣等感を持つ少年が必然的に芸術に向かう様子、少年期の憧れと恋の痛々しい内面描写、青年期の官能とその自虐的肯定や勘違いから来る自己の特別視、壮年期の諦念と決意など、リアルな内面描写は「じゃまくさいやつやなあ」と思いつつ、かなり読みごたえがあります。
トニオの内面を客観的に読み進めるうちに、面倒くさいと奴だと思いつつも多くの読者(とくに男性)はどこか自分に似たところもあるということに気付き、人間(とくに男性)はこのように考えがちであるという普遍性への気付きも得られる、このあたりが本作の人気の秘密なのではないかと思います。



狭き門/アンドレ・ジッド (1909年、フランス)

こちらは20世紀初頭のフランスの小説。
自分は今回ジッドの「背徳者」と「狭き門」の2作品を読みましたが、「狭き門」の方が面白かったです。
主人公のジェローム少年は少し年上の女の子アリサに恋をし、やがてお互いが両想いになる。ジェロームはアリサに求婚しますが、諸々の事情により結婚はどんどん後回しに。付かず離れずを繰り返す2人、心は引き合わされたりすれ違ったりを繰り返す、果たして2人の仲は成就するのか、というのが主要なプロットです。

本作のテーマは信仰と世俗の葛藤です。
信仰の世界で神とともに生きる幸福と、世俗の世界で他者とともに生きる幸福、この2つの幸福の在り様が登場人物を苦悩させ、この葛藤の中で登場人物は引き裂かれていきます。
信仰の幸福と世俗の幸福という対立は、当ブログの隠れた(?)テーマでもある「意味ある生」と「意味なき生」という対立ともリンクします。ある価値を信じそれを貫くような生き方を幸福と考えるか、あるいは価値を相対化した上で本能的な喜びを求めるような生き方を幸福と考えるのか。この対立とも近似性がある。
本作からは著者ジッド自身の立場は明確には現れてきません。本作は信仰に生きる姿を美しく描いているようにも見え、批判的・アイロニカルに描いているようにも見えます。現在は一般的に後者(信仰批判)として本作は読まれることが多いようですが、部分的には信仰に肩入れして描写しているようにも読め、ジッド自身の結論はおそらくアンビバレントです。
自分自身の考えとしては、パーソナルかつオブセッシブな信仰はあまり良いものではなく、コミュニティの中での緩やかな信仰のあり方より妥当なのではないかと考えます。信仰と世俗の中間、「意味ある生」と「意味なき生」の中間、あたりをぼんやりと目指すのがより良いのではないかというのが、最近の自分の考えです。



旅愁/横光利一 (1937~46年、日本)

続いては戦時期の日本。
本作は戦間期に新感覚派の作家として登場した横光利一が、戦時下において西欧と日本を比較して考え、日本社会の中での西欧的なものと日本的なものの対立を考え抜いた長編文学となっています。
舞台は1936年~1937年にかけてのフランスと日本。前半はフランスに留学中の日本人たちの現地での交流が絵が描かれ、後半は彼らが日本に戻って来てからの生活と交流が描かれます。二二六事件のしばらく後から物語が始まり、日中戦争の勃発とともに物語は終わります。
主人公は日本的なものに価値を置く矢代という男性、彼と対立的に描かれるのが西欧的なものに価値を置く久慈という男性、そしてカトリックを信仰する千鶴子という女性が2人の間に登場し、恋愛と結婚の問題が絡んでお話が進んでいきます。
描写の多くは登場人物の議論に充てられ、それぞれの内面的価値を登場人物はぶつけ合います。
フランスと日本、登場人物の出会いと議論の中で、主人公の価値観はどう変わっていくのか、千鶴子との関係はどうなるのか、というのが主要なプロットです。

本作のテーマは、1つは西欧的なものと日本的なものとの間の葛藤、もう1つは上のジッドと同じく信仰と世俗の葛藤です。しかし後者についてはジッドのような純粋な信仰の問題というよりは、西欧的信仰と日本的習俗との間の葛藤という要素が強く、最終的には西欧/日本という問題系に収斂して考えることができるのではないかと思います。(といいつつも、パクリとは言わないまでも後半はかなり「狭き門」に近い展開になり、ジッドの影響も伺えるような作品になっているように思います。)
本作を読むにあたっては時代背景が重要、30年代初頭に対英米協調・国際協調に失敗した日本は覇権国に対し軍事的に挑戦する立場を選択し、30年代を通して国粋化しました。これを受けて芸術家たちは否応なく「日本とは何か」「西欧と日本の違いとは」ということにセンシティブにならざるを得ず、文学・美術・音楽を問わず作家たちは日本を意識した作品を制作するようになります。
同じ新感覚派の作家川端康成がおそらくは日本的な美を積極的に描く方向に向かったのに対し、横光利一はもう少しアンビバレントで、本作「旅愁」を通して浮かび上がってくるのはやはり日本固有なものに執拗に固執することのダメさ加減なのではないかというのが自分の読後感。
本作は決して親しみやすい作品ではない(単純に文芸作品を楽しみたいならたぶん川端を読む方が正解)ですが、30年代日本の精神史を考える上では極めて重要な作品、日本近代史に関心のある方は必読の作品であると感じます。



俘虜記/大岡昇平 (1948年、日本)

最後は終戦戦後の日本の作品です。
大岡昇平が自らの戦争体験を元に綴った作品で、フィリピン戦線で九死に一生を得て米軍の捕虜になった主人公の体験と、周囲の人間に対する観察が描かれた作品です。
本作は初っ端がいきなりクライマックス、フィリピンに出征した主人公はマラリア侵され、渇きと苦しみの中で森の中を彷徨ううちに米兵と接触し、捕虜になります。このあたりの描写はいきなり手に汗握る展開。しかし本作の本題はここからで、米軍の捕虜舎の中で回復した主人公は多数の日本人捕虜たちと出会い、捕虜たちの描写がこのあと延々と最後まで続きます。
戦地と比較すると食料も十分で時間もたっぷりあるのが捕虜生活。暇を持て余した捕虜たちの人間観察と、主人公(≒著者)の社会や文化に対する考えが継続して綴られるという、面白い作品になっています。

本作を読んで、読後感が何かにいているなと感じ、何だろうと考えるうちに、筒井康隆「虚航船団」の第1部に非常に似ているということに気付きました。「虚航船団」の第1部は閉鎖空間での文房具の精神分析という非常にメタフィクション的な内容ですが、「俘虜記」も閉鎖空間での人間観察が全編の大半を占めるため、読後感がよく似ています。
閉鎖空間では人間は少なからずヘンな状態になる、これも一つの人間の在り様である。「俘虜記」は著者の実体験、「虚航船団」は著者が文房具に感情移入した想像力から生まれた作品という違いはありますが、近似性があるように思います。
次々と登場する捕虜たちの人間描写は興味深く、人間なるものを考える上で重要、本作の大きな読みどころです。
もう1点本作で重要な点、お話の序盤に主人公は戦地で米兵と対峙しますが、
このとき米兵を狙撃することを躊躇する描写があります。

「なぜ敵である米兵を撃たなかったのか」というのが、本作で繰り返し述懐されるテーマ。これについて主人公は後にキリスト教と絡めた解釈なども行ってますが、個人的には「人は人を簡単には殺せない」という主人公の初期の所感が真理なのではないかと感じます。



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ということで、5作品についてコメントしてみました。
いずれも文学史上の重要な作品だと考えますが、普遍性という観点からとくに2冊あげるなら「狭き門」と「俘虜記」が良いかなと思います。「オリヴァー・ツイスト」「トニオ・クレーゲル」「旅愁」も面白い作品ですが、テーマはややローカルです。
改めて今日的な視点でみるといずれの作品も目線が男性的で、ジェンダー的にはいかがなものかと思われる作品ばかりですが、これは19世紀から20世紀前半という時代的な特徴でもあるので仕方がない面もあります。逆にジェンダー論を考えながらこれらの作品を読んでみても、面白い気付きがあるのではなかと思います。