コロナ下の生活・社会 (2020年3月~5月) | れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

新型コロナウイルスが猛威を振るい、日本社会の中で自粛ムードが蔓延してから3か月、ここへ来て一転緩和ムードとなり、4月に日本政府により発令された緊急事態宣言もこの度解除されることになりました。
感染の第二波が懸念されており、まだまだ予断を許さない状況ですが、一旦この3か月の社会状況、個人的な生活・趣味などの覚書をまとめておこうと思います。


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国内で感染者・死者が増大し、日本政府が学校の休校を要請、クラスター、オーバーシュート、ロックダウンなどのカタカナ語があちこちで聞かれるようになったのがこの3月。3月下旬には一旦緩和ムードになりますが、感染者・死者は減らず、4月に入り政府は緊急事態を宣言。自粛要請により商店などの営業が困難となり、社会は完全に閉鎖モードとなりますが、感染者・死者は4月末ごろからピークアウト、5月下旬になってようやく事態が一旦落ち着いたかのように見え、商店などは営業を再開、経済活動が復旧しつつあります。

WHOは日本のコロナ対策を成功と評していますが、これはかなり割り引いて捉える必要があります。
そもそも日本を含むアジア諸国は、欧州やアメリカと比較すると明らかに感染者数・死者数が少ない。当然のことながら報道される各国の感染者数・死者数は明確なものではない(検査の実施可否、検査の精度、死因判定のブレにより、誤差は多大に発生する)とはいうものの、現時点で明らかに言えるのは、欧州・アメリカの死者数が極端に多く、日本を含むアジア諸国の死者数とは統計的に有意な差があるということです。
この原因には諸説があり、今後の原因究明が待たれますが、おそらくは流行時期の違い及び流行しているウイルスの型の差によるものであって、たまたまアジア諸国はラッキーだったと考えるのが妥当です。
(とは言うものの、感染の抑制に対しては医療現場の努力の成果が出ているというのもまた事実です。日本の場合、3月までのクラスター潰し対策はそれなりに有効だったと言えるのではないかと思います。)

同時に、日本は他の東アジア諸国(中国・韓国・台湾)に比べると国家によるトップダウンの対策が薄く、もっと強固な封鎖と生活補償を行うべきだという意見もあるようですが、これも考え物です。
東アジア諸国のようなトップダウンの施策は軍隊と社会が緊密であるような社会構造であるからできる事であって、日本のようにコミュニティやアソシエーションの生活領域が尊重される社会(決して個人が尊重される社会ではないことには注意)では、トップダウンの施策は難しく、とりわけ現在の首相官邸の無策ぶり(アベノマスク配布に代表される失策)を考えると、トップダウンの政治主導はかえって危険です。
前にも書きましたが、こういう事態が生じると日本は中間集団が独自に強固な規制を敷き、コミュニティやアソシエーションの相互監視の中で(言うなればムラ社会の中で)行動を律するという社会ですので、この社会機能をあてにする対策の方が妥当です。(自分としては個人を尊重する社会への移行がベストだと思いますが、無策なトップダウンの危険性に比べると、村社会ベースの対策の方がまだベターだと考えます。)

社会的にはサービス業や商店などの経営の悪化が問題になりましたが、自分は製造業に勤務しており、勤務先は社会的に必要とされる物を製造している企業ですので、経営悪化どころか生産は増加、コロナ下でも自分は休むことなく仕事をしています。
現在テレワークがしきりに取り沙汰されており、これはこれで進めればよいとは思うものの、テレワークが可能であるのは営業職や一部事務職などに限られており、現業従事者はテレワークなど不可能なので、感染リスクを含め明らかに労働者の中に格差がある。例えば製造業の開発職1つ取っても、プログラマーやCADオペレータ等はある程度テレワークが可能ですが、評価試験技術者や生産設備技術者はテレワークは不可能。
Zoomですべて解決、のような風潮は明らかに誤りであり、我々が日々食べているものやマスクやトイレットペーパーに代表される生活物資、その他諸々の製品は、誰かがどこかで体を使って生産し、運び、店舗で販売しているということは忘れるべきではありません。
今後大規模な感染症が発症した際は、現業従事者(製造業だけではなく医療・建設・物流・その他を含む)とそうでない人との間に、一定程度所得の傾斜を付けることも考慮すべきではないか、などと自分は考えます。


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さて、このような社会の中で自分は休日をどう過ごしていたかというと、上にも書いたような勤務先企業の自主規制により基本的に遊びに行くことができず、美術館も図書館も閉鎖され演奏会も中止になったということもあり、とくに4月以降は外出はほぼ自宅周辺のスーパーへのお買い物のみという生活でした。
4月度は自分史上初めてPiTaPa(近畿圏の交通ICカード)の請求額がゼロ円になり、4月以降は通勤を除き一度も電車に乗っていないという状態が継続してます。
ゴールデンウィークも自分史上初、どこにも出かけないという大型連休になりました。
飲食店への出入りも勤務先企業の指針により自粛、この2ヶ月は喫茶店でコーヒーを飲むことすらできていません。なので、スーパーでお惣菜を買って食べる生活が続いていますが、買い物だけだと体がなまるので、買い物ついでに散歩することが日課になっています。

自分は大阪市と東大阪市の境目あたりに住んでおり、この2か月は城東区南東部・東成区東部・生野区北東部・旧布施市地区西部の各スーパー、ライフ・イズミヤ・イオン・マルハチ・万代・平和堂・食品館アプロ・スーパー玉出などの各スーパーを訪れ、合わせてその周辺をしきりに散歩していました。これにより、スーパーごとの品ぞろえやお惣菜の差異(スーパーごとに味も違う)を体験すると同時に、自宅周辺半径2キロ区間の土地に妙に詳しくなってきています。
とりわけ面白いのが、インターネットで参照できる1908年(明治41年)測図の大阪近辺の地図で、この地図を参照しながらお散歩するとあれこれといろんな発見があります。
古地図を参照すると、都市郊外の場合、明治以前に村落や街道があった場所は現在でも区画が入り組んでおり、逆に区画が綺麗な場所は元々は田園で、大正期以降の郊外の開発に伴い整地された場所であることが見て取れます。

簡単に言うと、今でも道がぐにゃぐにゃ・ごちゃごちゃしている部分は、昔そこに村や街道があったということ。
この1908年測図の地図は面白く、現在と比較するような記事をどこかで書いてみても面白いかなと思っています。

これ以外は、ひたすら読書と、あとはYouTubeなどのネット動画を鑑賞していました。
ネット動画については、上方落語と昭和歌謡がマイブームになったことについては記事にも書きました。
後は急逝した志村けんさんと音楽の関係についての記事も書きましたが、その後YouTubeでイザワオフィス公式の「志村けんのだいじょうぶだぁ」のコントが連続してアップされており、小学生時代を思い出しながら懐かしく鑑賞しましたが、著作権上の制約なのか音楽のコントの公開は少なく、マイケル・ジャクソンも都はるみも登場はなし。個人的には志村けんと田代まさしのDJコントが見たかったのですが、当然の如く公開なし。動画集10本目にしてようやく宗次郎が登場しましたが、これもわざわざ著作権上の断り書きを記載してのアップとなっており、我が国の音楽著作権を巡る面倒臭さを改めて実感、このことは文化を楽しむことに対する大きな制約になっているように感じます。

YouTube以外では、ゲンロンカフェの公開動画や過去のVimeoアーカイブ動画をあれこれと鑑賞。自粛ムードの中、無観客で動画公開を続けるゲンロン、とくに辻田真左憲さんが多数の動画で登場されていたのが個人的に嬉しく、東浩紀さん、大山顕さん、西田亮介さんとの対談はいずれも必見。
その他、大澤聡さんや津田大介さんが遠隔映像で久しぶりに登場されていたのも印象的。

大澤聡さんの登場は和気あいあいとしたものでしたが、東浩紀さんと津田大介さんはまだ確執がある様子。これは仲違いというよりも、現時点の社会的立場の相違が前面に出た構造的な問題(東さんは私的領域に自由な表現の場を確保しようとする立場、津田さんは公的領域の中に自由な表現の場を可能な限り拡張していこうとする立場)に由来しているように思います。これはどちらも重要ですが、自分としては上に書いた通り日本は国家主義でも個人主義でもなく、コミュニティ的・アソシエーション的な社会だと感じますので、国家の規制を懸念することよりも中間集団の脊髄反射的批判を避けることの方が重要であるため、東さんの戦略の方がやや筋が良いようには思います。
Vimeoアーカイブ動画については原武史さんの全動画を改めて鑑賞、原さんの天皇論も即位1年後に再度鑑賞するのもまた面白い経験でした。

読書については、上にも登場した辻田真佐憲さんの「古関裕而の昭和史」、原武史さんの「滝山コミューン一九七四」については記事にしました。

その他ゲンロン界隈では大山顕さんの「新写真論」も、過去類例を見ない写真論で非常に面白く、ここ数年の写真の変化(雑駁に言うとiPhoneが過去の写真論をすべて無効にするぐらいに、写真というものを構造的に変革したと考えることができる)を把握することができ、たいへん面白い。
そんな中、感染症との関係で言うと、長年読もうと思いつつ読んでいなかったジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」上下巻を読み、これが非常に面白かったです。この本は、なぜヨーロッパがアメリカ大陸を征服できたのかという問いに丹念に答える本で、この中で感染症が重要な役割を果たす、そしてその究極の要因は大陸の形にあるという結論が非常に面白く、かつ納得的です。(人種ではなく地形が問題であるという結論は、和辻哲郎の「風土」や梅棹忠夫の「文明の生態史観」がぼんやりと示唆していたことに近似しており、和辻や梅棹がユーラシア大陸について直観的に考えていたことを、ジャレド・ダイアモンドは全世界に拡張し、ロジカルに説明していると考えることもできます。)
その他、現在ちくま新書の「世界哲学史」シリーズを読み進めており、現在3巻まで読みました。これがまた面白く、哲学の歴史の中で翻訳と伝播がいかに重要であるかが理解できる本、哲学が創始者の意図を越えて違った土地で違った形で受容される(まさに郵便的誤配)様子は感染症の伝播にも似た興味深いもの。古代ギリシャ哲学(とりわけプラトン・アリストテレス)やインド哲学(とりわけ大乗仏教)の伝播と変遷など、ユーラシア大陸の広大な地形ならではの特徴であり、ジャレド・ダイアモンドの議論にも通じる面白さを感じます。


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最後に、コロナ関係のネット上の様々な記事のうち、社会・歴史・文化との関わりについて書かれた記事の中で、今のところ自分が一番面白いと思ったのが、精神科医の斎藤環さんの記事です。以下リンク先にて、本日時点で「コロナ・ピューリタニズムの懸念」「失われた環状島」「感染した時間」の3本を読むことができます。
https://note.com/tamakisaito
ご興味のある方は詳細は記事をお読み頂きたいですが、大ざっぱに意訳すると、コロナ終焉後も身体接触の忌避が社会に中に残るであろうこと、それでいてコロナ自体の社会的記憶はいずれ忘却されるであろうこと、そして自粛社会が個人のクロックを乱し、こころの在り様を変調させる可能性についてまとめられています。
どれもありそうなことです。
対策として、いずれも歴史が解決策になる(「環状島」問題は社会レベルでの歴史化、「カイロス時間」問題は個人レベルでの歴史化)と読める結論が面白い。
「コロナ・ピューリタニズム」問題が対策が一番難しいですが、自分なりに考えると、これは文明の進歩と反比例して人類から身体性が失われることと類似しており、テクストを通して人類史を参照しつつ、かつてあった身体性を想像するような構えがおそらく大切、やはり歴史が重要であるように思います。
斎藤環さんは6月にゲンロンカフェにも登場するようですので、こちらも楽しみに待ちたいと思います。